第19話 リーナだから
翌日の昼。
《陽だまり亭》は、珍しく満席だった。
「本日の昼食、2つ!」
「はい!」
「紅茶追加!」
「少々お待ちください!」
「リーナ、3番のスープ!」
「今持ってく!」
厨房と客席を何度も往復する。
ベルンは料理から離れられない。
リーナも注文を取り、飲み物を淹れ、皿を運び続けていた。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました!」
2人組が席を立つ。
空いた。
と思ったら、扉のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ!」
リーナが振り向く。
「あ」
アルトだった。
「こんにちは」
「アルトさん。ごめんなさい、今かなり混んでて」
「見れば分かるよ」
「いつもの席、空いてないです」
「どこでもいいよ」
「少し待ってもらっても?」
「もちろん」
アルトは入口脇へ避けた。
「何か手伝う?」
「お客さんに何言ってるんですか」
「昨日は手当てもしたけど」
「昨日は昨日です」
リーナは笑って、すぐ客席へ戻った。
アルトはその背中を見る。
左手の人差し指。
まだ小さな布が巻かれている。
普通に動いている。
痛そうではない。
大丈夫そうだ。
「……」
見ていたら、リーナが振り返った。
目が合う。
アルトは何となく窓を見た。
◇
「アルトさん」
「何?」
「今、指見てました?」
「見てない」
「昨日から嘘下手になってません?」
「……大丈夫そうだなと思って」
「大丈夫ですよ」
リーナが左手を見せる。
「ほら」
「痛くない?」
「もうほとんど」
「そっか」
アルトが安心した顔をする。
リーナはそれを見て、少しだけ笑った。
「何?」
「いえ」
「何?」
「本当に心配してたんだなって」
「してたよ」
今日も返事が早い。
リーナは一瞬だけ黙った。
「……ありがとうございます」
そこへ厨房から声が飛んだ。
「リーナ!」
「はーい!」
リーナは慌てて戻った。
◇
ようやく席が空いたのは、それから10分ほど後だった。
「すみません」
「謝らなくていいよ」
いつもの窓際。
リーナがコーヒーを置く。
「タルトは?」
「あります」
「じゃあお願い」
「はい」
厨房へ戻ろうとしたところで。
「あ」
ベルンの声がした。
「塩がない」
「え?」
「切れた」
「予備は?」
「それも使った」
「昨日買ってなかった?」
「思ったより出た」
昼食にはまだ注文が入っている。
塩がなければ困る。
「私、行ってくる」
「客は?」
「父さん1人でいける?」
「短時間なら」
「じゃあ走って――」
「俺が行こうか?」
アルトが立った。
リーナが振り向く。
「場所分かります?」
「市場でしょう?」
「店が何軒かあるんです。いつものところじゃないと量が――」
「じゃあ一緒に行けば?」
「え?」
「その方が早い」
ベルンが鍋を混ぜながら言った。
「行ってこい。こっちは何とかする」
「でも」
「塩ない方が困る」
「……分かった」
リーナはエプロンを外した。
「アルトさん、ごめんなさい。せっかく来てもらったのに」
「俺は別に」
「コーヒー途中ですよ」
「帰ってから飲む」
「冷めますよ」
「また淹れてくれる?」
「もちろん」
「じゃあ問題ない」
◇
市場まで急ぐ。
「こっちです」
「うん」
「本当にすみません」
「だから謝らなくていいって」
「アルトさんまで付き合わせてるので」
「俺が行くって言ったんだよ」
リーナが横を見る。
「アルトさんって、こういうの嫌がらないですよね」
「こういうの?」
「店の買い出しとか。荷物運ぶとか」
「嫌がる理由ある?」
「もっと偉そうな商人だったら嫌がりそう」
「偉そうな商人って何?」
「分かりませんけど」
リーナが笑う。
「でも、アルトさんでよかったです」
「何が?」
「うちの常連さん」
アルトの足が少しだけ遅くなった。
「……そっか」
「はい」
嬉しい。
最近、リーナはこういうことを急に言う。
心の準備をする時間がない。
◇
塩はすぐに買えた。
「これで大丈夫です」
リーナが大きめの紙袋を抱える。
「持つよ」
「大丈夫です」
「指」
「あ」
左手を見る。
「もう痛くないですよ」
「でも重いでしょう」
「じゃあお願いします」
素直に渡された。
アルトは紙袋を抱える。
「ありがとうございます」
「うん」
市場を出る。
帰り道は行きより人が増えていた。
「混んでますね」
「昼が終わる時間だからかな」
前から大きな荷物を担いだ男が来る。
アルトがリーナの肩へ軽く手を添え、自分の側へ寄せた。
「こっち」
「はい」
すれ違う。
手を離す。
少し進む。
今度は後ろから荷車。
「リーナ、右」
「え?」
肩を引く。
「ありがとうございます」
「うん」
また離す。
数歩。
今度は向こうから数人の集団が来た。
狭い。
人が多い。
何度も肩を引くより。
アルトはリーナの左手を見た。
昨日の傷。
右手を見る。
何も持っていない。
「リーナ」
「はい?」
「手」
「手?」
言ってから、アルトは一瞬迷った。
普通に聞けばいい。
「……つないでもいい?」
リーナが止まった。
アルトも止まる。
「人多いから」
付け足した。
余計だったかもしれない。
「嫌なら――」
「いいですよ」
リーナが右手を差し出した。
アルトはその手を見る。
本当に?
いいと言った。
リーナが。
「アルトさん?」
「うん」
手を取った。
◇
つないだ。
リーナと。
手を。
昨日も触れた。
でも昨日は違う。
傷の手当て。
手の大きさを比べただけ。
今日は、自分から聞いた。
リーナが、いいと言った。
「行きましょう」
「うん」
歩き出す。
右手にリーナの手。
昨日、掌を合わせたときよりしっかり触れている。
温かい。
小さい。
握りすぎていないだろうか。
強くないか。
いや、普通の手のつなぎ方が分からないわけではない。
なのに今は分からない。
「アルトさん」
「何?」
「前」
「あ」
人にぶつかりそうになった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「さっきから静かですね」
「人多いから」
「関係あります?」
「……あまりない」
リーナが小さく笑った。
手は離れない。
◇
大通りを抜ける。
人が減る。
もう手をつないでいる必要はない。
アルトにも分かっている。
人混みだからつないだ。
人混みは終わった。
だから、離した方が自然だ。
アルトが少し指を緩める。
その瞬間。
リーナの指がわずかに動いた。
離れなかった。
アルトは横を見る。
リーナは前を向いている。
何も言わない。
手も、そのまま。
もう少し。
それくらいなら。
歩く。
店までの道を。
ゆっくり。
「アルトさん」
「何?」
「店、もうちょっと先です」
「……うん」
「はい」
それだけだった。
リーナも手を離さなかった。
アルトは前を向く。
今のは、店まではこのままでいいという意味だろうか。
たぶん。
いや、勝手に決めるのはよくない。
でも離していない。
自分も。
リーナも。
「……」
「また黙ってる」
「今ちょっと忙しい」
「何がです?」
「考えることがあって」
「歩いてるだけですよ?」
「そうだね」
リーナが笑う。
アルトも少し笑った。
◇
《陽だまり亭》の看板が見えた。
あと少し。
アルトは店を見る。
近い。
今日はいつもより近く感じる。
店の前へ着いた。
止まる。
「着きましたね」
「うん」
リーナが手を見る。
アルトも見る。
「あの」
「うん」
「塩」
「あ」
左腕に抱えたままだった。
リーナが吹き出した。
「忘れてたんですか?」
「ちょっと」
「買いに行った目的ですよ」
「持ってたから大丈夫」
「そういう問題?」
2人で笑う。
それでもまだ、手はつながったままだった。
どちらから離すのか。
妙な間ができる。
リーナの指が少し動く。
アルトも動かす。
ようやく離れた。
手が軽くなる。
少し寒い。
そんなはずはないのに。
「戻りましょうか」
「うん」
◇
「遅かったな」
店へ入るなり、ベルンが言った。
「市場混んでた」
「塩は?」
「ここ」
アルトが紙袋を渡す。
「悪かったな、アルト」
「別に」
「コーヒー淹れ直すか?」
「お願いします」
「珍しいな。お前が頼むの」
「今日はリーナ忙しそうだから」
「そうか」
ベルンが厨房へ戻る。
リーナはエプロンをつけ直した。
アルトはいつもの席へ座る。
右手を見る。
さっきまで。
リーナの手があった。
「……」
「アルトさん」
「何?」
「また手見てる」
目の前にリーナがいた。
「見てない」
「見てました」
「ちょっとだけ」
「何かついてます?」
「何も」
リーナが向かいの椅子へ座る。
客はもう2組だけになっていた。
「さっき」
「うん」
「ありがとうございました」
「塩?」
「それもですけど」
リーナは自分の右手を見る。
「手」
アルトの心臓が強く鳴った。
「……嫌だった?」
「逆です」
「逆?」
「嫌じゃなかったです」
昨日と同じ言葉。
でも、今日は意味が違う。
「だから」
リーナが少し迷う。
「人混みじゃなくなっても、離さなかったんです」
アルトは何も言えなかった。
やっぱり。
そうだった。
自分だけではなかった。
「アルトさんも離さなかったですよね」
「……うん」
「どうしてですか?」
答えは分かっている。
ここで言っていいのかは分からない。
「離したくなかったから」
結局、そのまま出た。
リーナの頬が少し赤くなる。
「……そうですか」
「うん」
「私もです」
小さな声だった。
聞き間違いではない。
アルトは確かめたかった。
でも、聞き返したらリーナが逃げそうな気がしてやめた。
◇
ベルンが新しいコーヒーを持ってくる。
「ほら」
「ありがとう」
「リーナ、休憩終わり」
「はーい」
リーナが立ち上がる。
「あ」
アルトが呼ぶ。
「指は?」
リーナが笑った。
「まだ心配してるんですか?」
「一応」
「大丈夫です」
「そっか」
リーナは数歩進んだ。
そして、振り返る。
「アルトさん」
「何?」
「昨日」
「うん」
「私が指切ったとき、すごく心配してくれたじゃないですか」
「うん」
「今日もずっと気にしてたし」
「……うん」
リーナはエプロンの端を少し握った。
「誰にでも、あんな感じなんですか?」
アルトは答えなかった。
質問の意味を考える。
誰にでも。
違う。
セドリックが指を切っても、ここまでは心配しない。
ベルンでも。
知り合いでも。
大切な取引相手でも。
たぶん違う。
「違うよ」
「じゃあ」
リーナがこちらを見る。
「私だから?」
「うん」
考えるより先に答えていた。
「リーナだから」
リーナが動かなくなった。
アルトも、自分が何を言ったのか理解する。
でも訂正する気はなかった。
「……そっか」
リーナが目を伏せる。
「嫌だった?」
「違います」
「ならよかった」
「私」
リーナが顔を上げる。
「私も――」
そのとき。
「リーナ!」
厨房からベルンの声が飛んだ。
「5番、会計!」
「あ……うん!」
リーナはアルトを見る。
「ごめんなさい」
「ううん」
「またあとで」
「分かった」
客席へ向かう。
アルトはその背中を見送った。
私も。
その続きは何だったのだろう。
聞きたい。
かなり。
でも、今追いかけて聞くものではない。
アルトはコーヒーを口へ運んだ。
今度はちゃんと温かかった。
◇
夕方。
アルトは席を立った。
「じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
リーナがいつものように笑う。
それだけで、今日は十分だった。
扉を開ける。
「アルトさん」
呼ばれて振り返った。
「何?」
リーナは一瞬、何か言いかけた。
けれど結局、小さく首を振った。
「……明日も、待ってます」
「うん」
アルトは笑った。
「来るよ」
店を出る。
夕方の通りを歩きながら、アルトは右手を見た。
もうリーナの手はない。
それでも、まだ感触を覚えている。
小さくて、温かかった。
そして。
『私も――』
何を言おうとしたのか。
明日、聞けるだろうか。
聞けたらいい。
アルトは少し笑った。
明日が楽しみだった。
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