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『大陸一の大富豪は、今日も好きな女の子の店で暇人扱いされています。  作者: オレンジペコ


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18/25

第18話 そんなに心配します?

 翌日の午後。


「いらっしゃいませ」


 ベルが鳴る。


 リーナは反射的に顔を上げた。


「こんにちは、アルトさん」


「こんにちは」


 昨日、一緒に市場と川沿いを歩いた。


 たったそれだけなのに、いつもの挨拶が少し違って感じる。


「いつものでいいですか?」


「うん」


「タルトもありますよ」


「お願いします」


「今日は取っておきました」


「ありがとう」


 いつもの会話。


 いつもの席。


 なのにリーナは、アルトが窓際へ向かう背中を少し目で追った。


「リーナ」


「何?」


 厨房からベルンに呼ばれる。


「りんご切ってくれ」


「今やる」


 リーナは厨房へ戻った。


     ◇


「アルトさん」


「何?」


「昨日買った髪紐、今日使ってるの分かりました?」


 コーヒーを置きながら、リーナが聞いた。


 アルトはリーナの髪を見る。


 深い緑。


 昨日、自分が選んだものだった。


「分かってたよ」


「本当ですか?」


「入ってきたときから」


「私が入ってきたんじゃなくて、アルトさんが入ってきたんです」


「そうだった」


 リーナが笑う。


「似合ってます?」


「うん」


「昨日も聞きました」


「昨日より似合ってる」


「何で?」


「ちゃんと髪につけてるから」


「なるほど」


 リーナが髪紐へ触れる。


「じゃあ、しばらくこれ使います」


「そっか」


 嬉しい。


 アルトはもう、その程度なら自覚できるようになっていた。


 自分が選んだものをリーナが使っている。


 かなり嬉しい。


「何ですか?」


「何が?」


「ちょっと笑ってる」


「似合ってるから」


 リーナが少し黙った。


「……ありがとうございます」


 今度はリーナが厨房へ戻る。


 その耳が少し赤かった気がした。


 気のせいかもしれない。


 アルトはコーヒーを飲んだ。


     ◇


 午後の客が増え始めた。


「リーナ、りんご追加」


「はーい」


 ベルンに言われ、リーナはまな板へ向かう。


 皮をむく。


 芯を取る。


 薄く切る。


 慣れた作業だった。


 客席から注文が入る。


「リーナちゃん、紅茶もう1つ!」


「はい!」


 返事をしながら手を動かす。


 その瞬間。


「痛っ」


 刃先が左手の人差し指をかすめた。


「リーナ?」


 ベルンが振り向く。


「大丈夫。ちょっと切っただけ」


 指先に赤い線が浮かぶ。


「洗ってこい」


「うん」


 リーナが水場へ向かおうとしたとき。


「どうしたの?」


 声が近かった。


 アルトが立っている。


「アルトさん?」


「切った?」


「ちょっとだけです」


「見せて」


「本当にちょっとですよ」


「リーナ」


 いつもより低い声だった。


 怒っているわけではない。


 でも、誤魔化せない感じがした。


「……これ」


 左手を出す。


 アルトの眉が寄った。


 血が出ている。


 大丈夫ではない。


 いや。


 傷は浅い。


 見れば分かる。


 大した傷ではない。


 分かっている。


 でも。


 リーナの指から血が出ている。


「洗った?」


「今からです」


「先に洗おう」


「はい」


 アルトがリーナの手首へ触れかける。


 そこで止めた。


「触っていい?」


 リーナが少し驚く。


「……はい」


 アルトはそっと手を取った。


     ◇


 水で傷を洗う。


「染みる?」


「少し」


「痛い?」


「これくらい平気です」


「平気でも痛いでしょう」


「ちょっとだけ」


 アルトは傷を見る。


 深くはない。


 出血もすぐ止まりそうだ。


 安心する。


 そこで初めて気づいた。


 手。


 今、普通に握っている。


 リーナの手。


 小さい。


 いや。


 違う。


 治療だ。


 これは治療。


 それより傷を見ろ。


「アルトさん?」


「何?」


「私、自分でできますよ?」


「……そうだね」


 離すべきだ。


 傷は洗った。


 もう離していい。


 アルトは手を離した。


 少しだけ惜しいと思った自分は無視した。


「布あります?」


「救急箱が棚に」


 ベルンが顎で示す。


「そこ」


「俺が取ります」


「アルトさん、本当に大丈夫ですって」


「分かってる」


「分かってない顔してます」


「どんな顔?」


「すごく心配してる顔」


 アルトは答えなかった。


     ◇


 傷に薬をつけ、小さな布を巻く。


「これでいい」


「ありがとうございます」


「今日はもう包丁使わない方が――」


 言いかけて、アルトは止まった。


 それを決めるのは自分ではない。


「……痛むなら、休んだ方がいいと思う」


 言い直した。


 リーナはその変化に気づいたのか、少しだけ笑った。


「大丈夫です。気をつけます」


「うん」


「でも、今日は父さんに切ってもらいます」


「それがいい」


「アルトさんが怖い顔するから」


「怖い顔してた?」


「してました」


 ベルンが横から言う。


「俺より心配してたな」


「父さんはもう少し心配して」


「この程度の傷、子どもの頃から何回見たと思ってる」


「それはそうだけど」


 アルトがリーナの指を見る。


 布が巻かれている。


 血は止まった。


 大丈夫。


 分かっている。


「……まだ見てる」


 リーナが言った。


「ごめん」


「そんなに心配します?」


「するよ」


 即答だった。


 リーナが黙る。


 アルトも、自分の返事の速さに少し驚いた。


「……そうですか」


「うん」


 リーナは自分の指を見る。


 少しだけ、口元が緩んでいた。


     ◇


「はい。お待たせしました」


 しばらくして、リーナが別の客へコーヒーを運ぶ。


 アルトは窓際からその姿を見ていた。


 普通に動いている。


 問題ない。


 痛そうでもない。


 だからもう気にしなくていい。


 リーナが皿を持つ。


 左手。


 大丈夫そう。


 次のテーブル。


 左手。


 問題ない。


「アルトさん」


 気づけば目の前にリーナがいた。


「何?」


「ずっと指見てません?」


「……見てないよ」


「見てましたよ」


「たまたま」


「私が3番のテーブル行ったときも?」


「……」


「4番のときも?」


「……」


 リーナが笑い始めた。


「そんなに?」


「血が出てたから」


「もう止まってます」


「知ってる」


「じゃあ大丈夫です」


「うん」


「ほら」


 リーナが左手を開いて見せる。


「動きます」


 指を曲げる。


「痛くない?」


「ほとんど」


「本当に?」


「本当です」


「ならよかった」


 アルトはようやく息を吐いた。


 リーナはその顔を見ていた。


「アルトさん」


「何?」


「ありがとうございます」


「手当て?」


「それもですけど」


 リーナが少し迷う。


「心配してくれて」


「……うん」


「ちょっと嬉しかったです」


 アルトの思考が止まる。


「……嬉しい?」


「はい」


「心配されるのが?」


「誰でもいいわけじゃないですよ」


 それだけ言って、リーナはカウンターへ戻っていった。


 アルトは動かなかった。


 誰でもいいわけじゃない。


 では。


 自分だから?


 そこまで勝手に考えるのはよくない。


 でも。


 誰でもいいわけじゃない。


 コーヒーを飲む。


 冷めていた。


     ◇


 客が途切れた頃。


 リーナはアルトの向かいに少しだけ座った。


「今日は暇ですね」


「さっき忙しかったでしょう」


「今はです」


「指は?」


「またそれ」


「ごめん」


「大丈夫です」


 リーナが笑う。


「本当に」


「分かった」


「やっと信じました?」


「一応」


「一応なんだ」


 少し沈黙する。


 リーナが左手を見る。


「アルトさん、手大きいですね」


 アルトの動きが止まる。


「急に何?」


「さっき手当てしてもらったとき思って」


 さっき。


 手。


 握った。


 思い出した。


 せっかく傷の方に意識を戻していたのに。


「私の手、ほとんど隠れてました」


「リーナが小さいんじゃない?」


「そうかな」


 リーナが自分の手を広げる。


「比べます?」


「……何を?」


「手」


 リーナが右手を上げる。


 掌をこちらへ向ける。


 アルトは止まった。


 これは必要なのか。


 必要ではない。


 傷の確認でもない。


 治療でもない。


「アルトさん?」


「本当にやる?」


「嫌ならいいですけど」


「嫌じゃない」


 また早かった。


 アルトも右手を上げる。


 掌を合わせる。


 触れた。


 リーナの指先は、アルトの指よりかなり短い。


「ほら」


 リーナが笑う。


「全然違う」


「本当だね」


 掌。


 指。


 触れている。


 これは治療ではない。


 何の理由もない。


 ただ手の大きさを比べている。


 近い。


 温かい。


 リーナの手。


「アルトさん?」


「何?」


「また止まってます」


「……そうだね」


 リーナが手を離した。


「あ」


 声が出そうになって、止めた。


「やっぱり大きいですね」


「うん」


 アルトは自分の手を見る。


 まだ感触が残っている気がする。


     ◇


「じゃあ、そろそろ戻る」


「はい」


 アルトが立ち上がる。


「指、本当に――」


「大丈夫です」


 先に言われた。


「……分かった」


「明日にはほとんど治ってますよ」


「ならいい」


 リーナが笑う。


「また明日」


「うん。また明日」


 扉へ向かう。


「あ、アルトさん」


「何?」


「さっきの」


「手?」


「はい」


 アルトの心臓が一度強く鳴った。


「嫌じゃなかったですから」


「……何が?」


「手、触ったの」


 リーナは少し恥ずかしそうに言った。


「だから、そんな気にしなくて大丈夫です」


 アルトは数秒黙った。


「……そっか」


「はい」


「分かった」


 それしか出なかった。


 店を出る。


 扉が閉まる。


 アルトは数歩歩いてから、自分の右手を見た。


 嫌じゃなかった。


 リーナが。


 自分と手を合わせたことが。


 嫌じゃなかった。


 嬉しい。


 かなり。


 でも、それより先に浮かんだのは別のことだった。


 明日には、傷が治っていればいい。


     ◇


「アルト様」


 馬車へ乗ると、セドリックが書類を差し出した。


「北部鉱山の件ですが、先方が8%で合意しました。ただし冬季分のみ、追加保証を求めています」


「上限を決めればいい。雪で止まった分までこちらが負う必要はない」


「具体的には?」


「通常輸送量の85%。それ以上は免責」


「承知しました」


 セドリックが書き留める。


 アルトは次の資料を受け取った。


「東部銀行は?」


「共同融資枠について回答が来ております」


「見せて」


 目を通す。


「この条件なら参加していい。ただし議決権は要らない」


「承知しました」


 次の書類へ手を伸ばす。


 そこでセドリックが言った。


「本日は何かございましたか?」


「リーナが指を切った」


「それは大変でしたね」


「血が出てた」


「深い傷で?」


「いや。浅い」


 セドリックが一度だけ瞬いた。


「……左様ですか」


「何?」


「いえ。随分と心配されたのですね」


「血が出てたから」


「指先に小さな傷が1つ」


「血は出てた」


「左様でございますか」


「何?」


「何も」


 セドリックは次の書類を差し出した。


 アルトは少し不満そうに受け取る。


「お前も実際に見たら心配するよ」


「そうかもしれません」


「絶対そうだよ」


「では、そのように」


「信じてないだろ」


「滅相もございません」


 アルトは資料へ目を落とした。


 セドリックは何事もなかったように次の予定を確認している。


 仕事はいつも通り進んでいく。


 ただ、アルトは最後まで納得していなかった。


 血は出ていた。


 ちゃんと。

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