第18話 そんなに心配します?
翌日の午後。
「いらっしゃいませ」
ベルが鳴る。
リーナは反射的に顔を上げた。
「こんにちは、アルトさん」
「こんにちは」
昨日、一緒に市場と川沿いを歩いた。
たったそれだけなのに、いつもの挨拶が少し違って感じる。
「いつものでいいですか?」
「うん」
「タルトもありますよ」
「お願いします」
「今日は取っておきました」
「ありがとう」
いつもの会話。
いつもの席。
なのにリーナは、アルトが窓際へ向かう背中を少し目で追った。
「リーナ」
「何?」
厨房からベルンに呼ばれる。
「りんご切ってくれ」
「今やる」
リーナは厨房へ戻った。
◇
「アルトさん」
「何?」
「昨日買った髪紐、今日使ってるの分かりました?」
コーヒーを置きながら、リーナが聞いた。
アルトはリーナの髪を見る。
深い緑。
昨日、自分が選んだものだった。
「分かってたよ」
「本当ですか?」
「入ってきたときから」
「私が入ってきたんじゃなくて、アルトさんが入ってきたんです」
「そうだった」
リーナが笑う。
「似合ってます?」
「うん」
「昨日も聞きました」
「昨日より似合ってる」
「何で?」
「ちゃんと髪につけてるから」
「なるほど」
リーナが髪紐へ触れる。
「じゃあ、しばらくこれ使います」
「そっか」
嬉しい。
アルトはもう、その程度なら自覚できるようになっていた。
自分が選んだものをリーナが使っている。
かなり嬉しい。
「何ですか?」
「何が?」
「ちょっと笑ってる」
「似合ってるから」
リーナが少し黙った。
「……ありがとうございます」
今度はリーナが厨房へ戻る。
その耳が少し赤かった気がした。
気のせいかもしれない。
アルトはコーヒーを飲んだ。
◇
午後の客が増え始めた。
「リーナ、りんご追加」
「はーい」
ベルンに言われ、リーナはまな板へ向かう。
皮をむく。
芯を取る。
薄く切る。
慣れた作業だった。
客席から注文が入る。
「リーナちゃん、紅茶もう1つ!」
「はい!」
返事をしながら手を動かす。
その瞬間。
「痛っ」
刃先が左手の人差し指をかすめた。
「リーナ?」
ベルンが振り向く。
「大丈夫。ちょっと切っただけ」
指先に赤い線が浮かぶ。
「洗ってこい」
「うん」
リーナが水場へ向かおうとしたとき。
「どうしたの?」
声が近かった。
アルトが立っている。
「アルトさん?」
「切った?」
「ちょっとだけです」
「見せて」
「本当にちょっとですよ」
「リーナ」
いつもより低い声だった。
怒っているわけではない。
でも、誤魔化せない感じがした。
「……これ」
左手を出す。
アルトの眉が寄った。
血が出ている。
大丈夫ではない。
いや。
傷は浅い。
見れば分かる。
大した傷ではない。
分かっている。
でも。
リーナの指から血が出ている。
「洗った?」
「今からです」
「先に洗おう」
「はい」
アルトがリーナの手首へ触れかける。
そこで止めた。
「触っていい?」
リーナが少し驚く。
「……はい」
アルトはそっと手を取った。
◇
水で傷を洗う。
「染みる?」
「少し」
「痛い?」
「これくらい平気です」
「平気でも痛いでしょう」
「ちょっとだけ」
アルトは傷を見る。
深くはない。
出血もすぐ止まりそうだ。
安心する。
そこで初めて気づいた。
手。
今、普通に握っている。
リーナの手。
小さい。
いや。
違う。
治療だ。
これは治療。
それより傷を見ろ。
「アルトさん?」
「何?」
「私、自分でできますよ?」
「……そうだね」
離すべきだ。
傷は洗った。
もう離していい。
アルトは手を離した。
少しだけ惜しいと思った自分は無視した。
「布あります?」
「救急箱が棚に」
ベルンが顎で示す。
「そこ」
「俺が取ります」
「アルトさん、本当に大丈夫ですって」
「分かってる」
「分かってない顔してます」
「どんな顔?」
「すごく心配してる顔」
アルトは答えなかった。
◇
傷に薬をつけ、小さな布を巻く。
「これでいい」
「ありがとうございます」
「今日はもう包丁使わない方が――」
言いかけて、アルトは止まった。
それを決めるのは自分ではない。
「……痛むなら、休んだ方がいいと思う」
言い直した。
リーナはその変化に気づいたのか、少しだけ笑った。
「大丈夫です。気をつけます」
「うん」
「でも、今日は父さんに切ってもらいます」
「それがいい」
「アルトさんが怖い顔するから」
「怖い顔してた?」
「してました」
ベルンが横から言う。
「俺より心配してたな」
「父さんはもう少し心配して」
「この程度の傷、子どもの頃から何回見たと思ってる」
「それはそうだけど」
アルトがリーナの指を見る。
布が巻かれている。
血は止まった。
大丈夫。
分かっている。
「……まだ見てる」
リーナが言った。
「ごめん」
「そんなに心配します?」
「するよ」
即答だった。
リーナが黙る。
アルトも、自分の返事の速さに少し驚いた。
「……そうですか」
「うん」
リーナは自分の指を見る。
少しだけ、口元が緩んでいた。
◇
「はい。お待たせしました」
しばらくして、リーナが別の客へコーヒーを運ぶ。
アルトは窓際からその姿を見ていた。
普通に動いている。
問題ない。
痛そうでもない。
だからもう気にしなくていい。
リーナが皿を持つ。
左手。
大丈夫そう。
次のテーブル。
左手。
問題ない。
「アルトさん」
気づけば目の前にリーナがいた。
「何?」
「ずっと指見てません?」
「……見てないよ」
「見てましたよ」
「たまたま」
「私が3番のテーブル行ったときも?」
「……」
「4番のときも?」
「……」
リーナが笑い始めた。
「そんなに?」
「血が出てたから」
「もう止まってます」
「知ってる」
「じゃあ大丈夫です」
「うん」
「ほら」
リーナが左手を開いて見せる。
「動きます」
指を曲げる。
「痛くない?」
「ほとんど」
「本当に?」
「本当です」
「ならよかった」
アルトはようやく息を吐いた。
リーナはその顔を見ていた。
「アルトさん」
「何?」
「ありがとうございます」
「手当て?」
「それもですけど」
リーナが少し迷う。
「心配してくれて」
「……うん」
「ちょっと嬉しかったです」
アルトの思考が止まる。
「……嬉しい?」
「はい」
「心配されるのが?」
「誰でもいいわけじゃないですよ」
それだけ言って、リーナはカウンターへ戻っていった。
アルトは動かなかった。
誰でもいいわけじゃない。
では。
自分だから?
そこまで勝手に考えるのはよくない。
でも。
誰でもいいわけじゃない。
コーヒーを飲む。
冷めていた。
◇
客が途切れた頃。
リーナはアルトの向かいに少しだけ座った。
「今日は暇ですね」
「さっき忙しかったでしょう」
「今はです」
「指は?」
「またそれ」
「ごめん」
「大丈夫です」
リーナが笑う。
「本当に」
「分かった」
「やっと信じました?」
「一応」
「一応なんだ」
少し沈黙する。
リーナが左手を見る。
「アルトさん、手大きいですね」
アルトの動きが止まる。
「急に何?」
「さっき手当てしてもらったとき思って」
さっき。
手。
握った。
思い出した。
せっかく傷の方に意識を戻していたのに。
「私の手、ほとんど隠れてました」
「リーナが小さいんじゃない?」
「そうかな」
リーナが自分の手を広げる。
「比べます?」
「……何を?」
「手」
リーナが右手を上げる。
掌をこちらへ向ける。
アルトは止まった。
これは必要なのか。
必要ではない。
傷の確認でもない。
治療でもない。
「アルトさん?」
「本当にやる?」
「嫌ならいいですけど」
「嫌じゃない」
また早かった。
アルトも右手を上げる。
掌を合わせる。
触れた。
リーナの指先は、アルトの指よりかなり短い。
「ほら」
リーナが笑う。
「全然違う」
「本当だね」
掌。
指。
触れている。
これは治療ではない。
何の理由もない。
ただ手の大きさを比べている。
近い。
温かい。
リーナの手。
「アルトさん?」
「何?」
「また止まってます」
「……そうだね」
リーナが手を離した。
「あ」
声が出そうになって、止めた。
「やっぱり大きいですね」
「うん」
アルトは自分の手を見る。
まだ感触が残っている気がする。
◇
「じゃあ、そろそろ戻る」
「はい」
アルトが立ち上がる。
「指、本当に――」
「大丈夫です」
先に言われた。
「……分かった」
「明日にはほとんど治ってますよ」
「ならいい」
リーナが笑う。
「また明日」
「うん。また明日」
扉へ向かう。
「あ、アルトさん」
「何?」
「さっきの」
「手?」
「はい」
アルトの心臓が一度強く鳴った。
「嫌じゃなかったですから」
「……何が?」
「手、触ったの」
リーナは少し恥ずかしそうに言った。
「だから、そんな気にしなくて大丈夫です」
アルトは数秒黙った。
「……そっか」
「はい」
「分かった」
それしか出なかった。
店を出る。
扉が閉まる。
アルトは数歩歩いてから、自分の右手を見た。
嫌じゃなかった。
リーナが。
自分と手を合わせたことが。
嫌じゃなかった。
嬉しい。
かなり。
でも、それより先に浮かんだのは別のことだった。
明日には、傷が治っていればいい。
◇
「アルト様」
馬車へ乗ると、セドリックが書類を差し出した。
「北部鉱山の件ですが、先方が8%で合意しました。ただし冬季分のみ、追加保証を求めています」
「上限を決めればいい。雪で止まった分までこちらが負う必要はない」
「具体的には?」
「通常輸送量の85%。それ以上は免責」
「承知しました」
セドリックが書き留める。
アルトは次の資料を受け取った。
「東部銀行は?」
「共同融資枠について回答が来ております」
「見せて」
目を通す。
「この条件なら参加していい。ただし議決権は要らない」
「承知しました」
次の書類へ手を伸ばす。
そこでセドリックが言った。
「本日は何かございましたか?」
「リーナが指を切った」
「それは大変でしたね」
「血が出てた」
「深い傷で?」
「いや。浅い」
セドリックが一度だけ瞬いた。
「……左様ですか」
「何?」
「いえ。随分と心配されたのですね」
「血が出てたから」
「指先に小さな傷が1つ」
「血は出てた」
「左様でございますか」
「何?」
「何も」
セドリックは次の書類を差し出した。
アルトは少し不満そうに受け取る。
「お前も実際に見たら心配するよ」
「そうかもしれません」
「絶対そうだよ」
「では、そのように」
「信じてないだろ」
「滅相もございません」
アルトは資料へ目を落とした。
セドリックは何事もなかったように次の予定を確認している。
仕事はいつも通り進んでいく。
ただ、アルトは最後まで納得していなかった。
血は出ていた。
ちゃんと。
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