第17話 今日は、アルトさんと
約束の時間まで、あと18分。
アルトは《陽だまり亭》の向かい側に立っていた。
早い。
分かっている。
仕事の待ち合わせなら5分前で十分だ。相手を待たせず、自分も時間を無駄にしない。それで困ったことはない。
今日は18分前。
「……早かったな」
来てから気づいた。
いや、途中で気づいていた。それでも戻るのもおかしい気がして、そのまま来た。
店の扉を見る。
まだ出てこない。
当たり前だ。
18分前だから。
アルトは近くの露店を見るふりをした。
17分前。
時間の進みが遅い。
◇
「アルトさん?」
声がして振り返る。
リーナが立っていた。
「やっぱり」
「……こんにちは」
「こんにちは」
今日は淡い青色のワンピースだった。
髪は後ろで緩くまとめられている。店で見るエプロン姿とも、祭りの日とも違う。
可愛い。
もうこれは、最初に出てくるものらしい。
「早いですね」
「リーナも」
「私は10分前です」
「そうだね」
「アルトさん、いつからいました?」
「少し前」
リーナが通りの時計を見る。
「少し?」
「……8分くらい」
「じゃあ18分前じゃないですか」
「計算しなくていいよ」
リーナが笑った。
「楽しみだったんですか?」
アルトは一瞬だけ迷った。
誤魔化す理由もない。
「うん」
リーナの笑顔が少し変わった。
「私もです」
開始前から多い。
今日は大丈夫だろうか。
◇
「まず市場でいいですか?」
「うん」
「買いたいものがあるんです」
「店の?」
「半分は。半分は私の」
「何買うの?」
「まだ内緒です」
「じゃあ聞かない」
「すぐ分かりますよ」
2人で歩き出す。
いつもと違う。
店ではリーナが働いている。祭りでは偶然会った。
今日は最初から、2人で出かけるために会った。
その違いを、アルトはかなり意識していた。
「アルトさん」
「何?」
「今日、静かですね」
「いつもこんなものじゃない?」
「もうちょっと喋りますよ」
「そう?」
「緊張してます?」
「……少し」
言ってから、失敗したかと思った。
リーナが驚いた顔をする。
「アルトさんでも緊張するんですね」
「するよ」
「仕事のとき全然そんな感じじゃなかったのに」
「仕事じゃないから」
リーナが前を向いた。
「そっか」
口元が少しだけ笑っていた。
◇
「これです」
リーナが足を止めたのは、小さな雑貨店だった。
「髪紐?」
「今使ってるの、ほつれてきたので」
何本か並んでいる。
青、赤、黄色、深い緑。
「どれがいいと思います?」
「俺が選ぶの?」
「参考までに」
アルトは髪紐を見る。
分からない。
投資先なら数字を見ればいい。会社なら事業内容と経営者を見ればいい。
髪紐。
リーナにつけるもの。
何を基準に選べばいい。
「……これ」
深い緑を指した。
「緑?」
「うん」
「どうして?」
「似合いそうだから」
リーナが髪紐を自分の髪へ当てる。
「どうです?」
近い。
髪紐を見るには、リーナの顔を正面から見ることになる。
「似合う」
「本当?」
「うん」
「じゃあ、これにします」
即決だった。
「俺の意見だけで?」
「聞いたんだから参考にしますよ」
「参考というか、そのままだけど」
「嫌なら買いません」
「嫌じゃない」
「じゃあ決まり」
リーナが店主へ代金を払う。
自分が選んだものを、リーナが使う。
それだけなのに妙に嬉しい。
今日は本当に忙しい。
頭の中が。
◇
市場の奥から香ばしい匂いが流れてきた。
「あ」
リーナが振り向く。
「食べます?」
「何?」
「あれ」
薄い平焼きパンに、肉と刻んだ野菜を挟んだものだった。
「食べようか」
「半分ずつにしません?」
「1個で足りる?」
「他にも食べたいので」
「なるほど」
1つ買う。
店主が紙に包んで渡してくれた。
「切ります?」
「大丈夫です。そのまま食べます」
「じゃあ先どうぞ」
「アルトさんからでいいですよ」
「リーナが食べたいって言ったんだから」
「じゃあ」
リーナが端を一口かじった。
「美味しい」
アルトへ渡す。
「はい」
「ありがとう」
一口食べる。
香草が効いていて、肉も柔らかい。
「美味しいね」
「でしょう?」
もう一度リーナへ渡した。
「ありがとうございます」
リーナが口を開く。
そして、アルトがさっき食べたところのすぐ近くをかじった。
アルトの思考が止まった。
そこ。
今。
近い。
さっき自分の口が触れたところと、かなり近い。
同じ場所ではない。
少しずれている。
だから何も問題はない。
そもそも食べ物を分けているだけだ。
何で位置を確認しているんだ、俺は。
「アルトさん?」
「何?」
「はい」
平焼きパンを差し出された。
「……ありがとう」
受け取る。
どこを食べればいい。
いや、普通に食べればいい。
アルトは反対側をかじった。
「そっち行くんですか?」
「え?」
「食べにくくないです?」
「別に」
「そうですか?」
リーナが首を傾げる。
「顔、ちょっと赤いですよ」
「熱かったから」
「これ?」
「うん」
リーナも一口食べる。
「もう冷めてますよ?」
知っている。
さっきまで普通に食べていた。
「香辛料かな」
「辛くないですよ」
「そうだね」
「じゃあ何です?」
「……分からない」
リーナが笑った。
「変なアルトさん」
アルトは残りの平焼きパンを見た。
もう食べる場所を考えないことにした。
◇
「次、あっち行きません?」
リーナが指さした。
「何かある?」
「果物の露店」
「まだ食べるの?」
「半分ずつだったから大丈夫です」
「そういう計算?」
「大事です」
果物。
焼き菓子。
雑貨。
香辛料。
あちこち寄る。
リーナはよく立ち止まった。
「見てください、これ」
「何?」
「猫の置物」
「欲しい?」
「いりません」
「じゃあ何で呼んだの?」
「顔がアルトさんに似てる」
「どこが?」
「ちょっと眠そうなところ」
「俺、そんな顔してる?」
「店では」
「仕事中は?」
「格好よかったです」
アルトが止まる。
「……また言うんだ」
「嫌でした?」
「逆」
「逆?」
「かなり嬉しい」
リーナが少し黙った。
アルトも、言ってから気づく。
でも、もう遅い。
「そういうこと、普通に言うようになりましたね」
「何が?」
「嬉しいとか」
「言わない方がいい?」
「……別に」
リーナは猫の置物へ視線を戻す。
「言ってもらった方が、分かりやすいです」
「じゃあ言う」
「全部は言わなくていいです」
「難しいな」
リーナが笑った。
◇
市場を出る頃には、日が少し傾いていた。
「川、行きます?」
「うん」
大通りから細い道へ入り、王都を流れる川へ向かう。
市場の喧騒が少しずつ遠ざかる。
川沿いには石畳の道が続いていた。
「静かですね」
「市場のあとだと余計に」
「こっち来て正解でした」
リーナが川を見る。
風が吹き、髪が少し揺れた。
「楽しかった?」
アルトが聞いた。
「まだ終わってませんよ」
「そうだけど」
「楽しいです」
リーナはすぐに答えた。
「すごく」
「そっか」
「アルトさんは?」
「俺も」
少し歩く。
「でも、意外でした」
「何が?」
「アルトさん、こういうところ一緒に回ってくれるんだなって」
「嫌そうに見えた?」
「違います。もっと仕事ばっかりなのかなって」
「リーナも前まで暇人だと思ってたでしょう」
「それは……はい」
「認めるんだ」
「だって本当に毎日いたから」
「毎日ではない」
「ほぼ毎日」
「その話、何回目?」
2人で笑う。
しばらくして、リーナが川へ目を向けたまま言った。
「でも、今日はどこに行くかより――」
言葉が止まる。
「うん?」
「アルトさんとです」
「……何が?」
「楽しい理由」
アルトの足が少し遅くなった。
「市場なら1人でも来られるし、ここも何度か来たことありますけど」
リーナがこちらを見る。
「今日はアルトさんと一緒だから、いつもより楽しいです」
何か返さないと。
ありがとう。
違う。
俺も。
それだけでは足りない。
嬉しい。
たぶん、それが一番近い。
「……今、かなり嬉しい」
「本当に?」
「うん」
「そんなに?」
「かなり」
リーナが笑った。
「じゃあ、言ってよかったです」
アルトは川へ目を向けた。
しばらく顔を見るのは少し無理だった。
◇
帰り道。
市場近くまで戻ると、また人が増えた。
「今日は人多いですね」
「夕方だからね」
向こうから荷車が来る。
道幅が狭い。
「リーナ、こっち」
アルトは自然にリーナの肩へ手を添え、自分の側へ寄せた。
「あ」
荷車が横を通る。
「大丈夫?」
「はい」
手を離す。
祭りの日にも似たことがあった。
今日はあのときほど迷わなかった。
危ないから寄せた。
それだけ。
ただ、離したあとになって気づく。
近かった。
かなり。
「アルトさん?」
「何?」
「ありがとうございます」
「うん」
「今日、何回か助けてもらってますね」
「そう?」
「人にぶつかりそうになったときとか」
「人多いから」
リーナが少し笑う。
「ちゃんと見てくれてるんですね」
「……見てるよ」
「何で間があったんです?」
「何でもない」
見ている。
かなり。
それをどこまで言っていいのかは、まだ分からなかった。
◇
《陽だまり亭》が見えてきた。
「着いちゃいましたね」
リーナが言った。
「うん」
「結構歩いたのに」
「そうだね」
アルトも同じことを思っていた。
いつもなら何とも思わない距離が、今日は短かった。
「アルトさん」
「何?」
「また行きません?」
アルトはリーナを見る。
「今日みたいに?」
「はい。2人で」
「行く」
即答した。
リーナが笑う。
「早い」
「行きたいから」
「じゃあ今度は、アルトさんが行きたいところ考えてください」
「俺が?」
「私ばっかり決めたので」
「分かった」
「仕事関係は禁止です」
「……難しいな」
「頑張ってください」
「考える」
「楽しみにしてます」
また、その言葉。
でも今日は少し慣れた。
ほんの少しだけ。
◇
「ただいま」
「おう」
ベルンが店の奥から出てくる。
「どうだった?」
「楽しかった」
リーナはすぐに答えた。
「そうか」
「見て。髪紐買った」
「青か?」
「緑」
「どっちでもいい」
「聞いたくせに」
アルトが笑った。
「じゃあ、俺はこれで」
「あ、待って」
リーナが振り返る。
「アルトさん」
「うん?」
「今日はありがとうございました」
「俺も楽しかった」
「また行きましょうね」
「うん」
「絶対ですよ」
「約束する」
リーナが満足そうに笑う。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
アルトは店を出た。
扉が閉まる。
数歩歩いてから、振り返った。
いつもの《陽だまり亭》だった。
いつもの扉。
明日になれば、またここへ来る。
それなのに今日は、もう少し一緒に歩いていたかった。
アルトは前を向いた。
深い緑の髪紐。
平焼きパン。
川沿い。
『今日はアルトさんと一緒だから、いつもより楽しいです』
いろいろあった。
でも最後に残ったのは、もっと単純なものだった。
楽しかった。
もう一度、2人で出かけたい。
次はどこへ行こう。
仕事とは関係ない場所。
リーナが楽しめるところ。
できれば、自分も隣にいられるところ。
「……難しいな」
そう呟いたくせに、アルトは少し笑っていた。
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