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『大陸一の大富豪は、今日も好きな女の子の店で暇人扱いされています。  作者: オレンジペコ


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17/25

第17話 今日は、アルトさんと

 約束の時間まで、あと18分。


 アルトは《陽だまり亭》の向かい側に立っていた。


 早い。


 分かっている。


 仕事の待ち合わせなら5分前で十分だ。相手を待たせず、自分も時間を無駄にしない。それで困ったことはない。


 今日は18分前。


「……早かったな」


 来てから気づいた。


 いや、途中で気づいていた。それでも戻るのもおかしい気がして、そのまま来た。


 店の扉を見る。


 まだ出てこない。


 当たり前だ。


 18分前だから。


 アルトは近くの露店を見るふりをした。


 17分前。


 時間の進みが遅い。


     ◇


「アルトさん?」


 声がして振り返る。


 リーナが立っていた。


「やっぱり」


「……こんにちは」


「こんにちは」


 今日は淡い青色のワンピースだった。


 髪は後ろで緩くまとめられている。店で見るエプロン姿とも、祭りの日とも違う。


 可愛い。


 もうこれは、最初に出てくるものらしい。


「早いですね」


「リーナも」


「私は10分前です」


「そうだね」


「アルトさん、いつからいました?」


「少し前」


 リーナが通りの時計を見る。


「少し?」


「……8分くらい」


「じゃあ18分前じゃないですか」


「計算しなくていいよ」


 リーナが笑った。


「楽しみだったんですか?」


 アルトは一瞬だけ迷った。


 誤魔化す理由もない。


「うん」


 リーナの笑顔が少し変わった。


「私もです」


 開始前から多い。


 今日は大丈夫だろうか。


     ◇


「まず市場でいいですか?」


「うん」


「買いたいものがあるんです」


「店の?」


「半分は。半分は私の」


「何買うの?」


「まだ内緒です」


「じゃあ聞かない」


「すぐ分かりますよ」


 2人で歩き出す。


 いつもと違う。


 店ではリーナが働いている。祭りでは偶然会った。


 今日は最初から、2人で出かけるために会った。


 その違いを、アルトはかなり意識していた。


「アルトさん」


「何?」


「今日、静かですね」


「いつもこんなものじゃない?」


「もうちょっと喋りますよ」


「そう?」


「緊張してます?」


「……少し」


 言ってから、失敗したかと思った。


 リーナが驚いた顔をする。


「アルトさんでも緊張するんですね」


「するよ」


「仕事のとき全然そんな感じじゃなかったのに」


「仕事じゃないから」


 リーナが前を向いた。


「そっか」


 口元が少しだけ笑っていた。


     ◇


「これです」


 リーナが足を止めたのは、小さな雑貨店だった。


「髪紐?」


「今使ってるの、ほつれてきたので」


 何本か並んでいる。


 青、赤、黄色、深い緑。


「どれがいいと思います?」


「俺が選ぶの?」


「参考までに」


 アルトは髪紐を見る。


 分からない。


 投資先なら数字を見ればいい。会社なら事業内容と経営者を見ればいい。


 髪紐。


 リーナにつけるもの。


 何を基準に選べばいい。


「……これ」


 深い緑を指した。


「緑?」


「うん」


「どうして?」


「似合いそうだから」


 リーナが髪紐を自分の髪へ当てる。


「どうです?」


 近い。


 髪紐を見るには、リーナの顔を正面から見ることになる。


「似合う」


「本当?」


「うん」


「じゃあ、これにします」


 即決だった。


「俺の意見だけで?」


「聞いたんだから参考にしますよ」


「参考というか、そのままだけど」


「嫌なら買いません」


「嫌じゃない」


「じゃあ決まり」


 リーナが店主へ代金を払う。


 自分が選んだものを、リーナが使う。


 それだけなのに妙に嬉しい。


 今日は本当に忙しい。


 頭の中が。


     ◇


 市場の奥から香ばしい匂いが流れてきた。


「あ」


 リーナが振り向く。


「食べます?」


「何?」


「あれ」


 薄い平焼きパンに、肉と刻んだ野菜を挟んだものだった。


「食べようか」


「半分ずつにしません?」


「1個で足りる?」


「他にも食べたいので」


「なるほど」


 1つ買う。


 店主が紙に包んで渡してくれた。


「切ります?」


「大丈夫です。そのまま食べます」


「じゃあ先どうぞ」


「アルトさんからでいいですよ」


「リーナが食べたいって言ったんだから」


「じゃあ」


 リーナが端を一口かじった。


「美味しい」


 アルトへ渡す。


「はい」


「ありがとう」


 一口食べる。


 香草が効いていて、肉も柔らかい。


「美味しいね」


「でしょう?」


 もう一度リーナへ渡した。


「ありがとうございます」


 リーナが口を開く。


 そして、アルトがさっき食べたところのすぐ近くをかじった。


 アルトの思考が止まった。


 そこ。


 今。


 近い。


 さっき自分の口が触れたところと、かなり近い。


 同じ場所ではない。


 少しずれている。


 だから何も問題はない。


 そもそも食べ物を分けているだけだ。


 何で位置を確認しているんだ、俺は。


「アルトさん?」


「何?」


「はい」


 平焼きパンを差し出された。


「……ありがとう」


 受け取る。


 どこを食べればいい。


 いや、普通に食べればいい。


 アルトは反対側をかじった。


「そっち行くんですか?」


「え?」


「食べにくくないです?」


「別に」


「そうですか?」


 リーナが首を傾げる。


「顔、ちょっと赤いですよ」


「熱かったから」


「これ?」


「うん」


 リーナも一口食べる。


「もう冷めてますよ?」


 知っている。


 さっきまで普通に食べていた。


「香辛料かな」


「辛くないですよ」


「そうだね」


「じゃあ何です?」


「……分からない」


 リーナが笑った。


「変なアルトさん」


 アルトは残りの平焼きパンを見た。


 もう食べる場所を考えないことにした。


     ◇


「次、あっち行きません?」


 リーナが指さした。


「何かある?」


「果物の露店」


「まだ食べるの?」


「半分ずつだったから大丈夫です」


「そういう計算?」


「大事です」


 果物。


 焼き菓子。


 雑貨。


 香辛料。


 あちこち寄る。


 リーナはよく立ち止まった。


「見てください、これ」


「何?」


「猫の置物」


「欲しい?」


「いりません」


「じゃあ何で呼んだの?」


「顔がアルトさんに似てる」


「どこが?」


「ちょっと眠そうなところ」


「俺、そんな顔してる?」


「店では」


「仕事中は?」


「格好よかったです」


 アルトが止まる。


「……また言うんだ」


「嫌でした?」


「逆」


「逆?」


「かなり嬉しい」


 リーナが少し黙った。


 アルトも、言ってから気づく。


 でも、もう遅い。


「そういうこと、普通に言うようになりましたね」


「何が?」


「嬉しいとか」


「言わない方がいい?」


「……別に」


 リーナは猫の置物へ視線を戻す。


「言ってもらった方が、分かりやすいです」


「じゃあ言う」


「全部は言わなくていいです」


「難しいな」


 リーナが笑った。


     ◇


 市場を出る頃には、日が少し傾いていた。


「川、行きます?」


「うん」


 大通りから細い道へ入り、王都を流れる川へ向かう。


 市場の喧騒が少しずつ遠ざかる。


 川沿いには石畳の道が続いていた。


「静かですね」


「市場のあとだと余計に」


「こっち来て正解でした」


 リーナが川を見る。


 風が吹き、髪が少し揺れた。


「楽しかった?」


 アルトが聞いた。


「まだ終わってませんよ」


「そうだけど」


「楽しいです」


 リーナはすぐに答えた。


「すごく」


「そっか」


「アルトさんは?」


「俺も」


 少し歩く。


「でも、意外でした」


「何が?」


「アルトさん、こういうところ一緒に回ってくれるんだなって」


「嫌そうに見えた?」


「違います。もっと仕事ばっかりなのかなって」


「リーナも前まで暇人だと思ってたでしょう」


「それは……はい」


「認めるんだ」


「だって本当に毎日いたから」


「毎日ではない」


「ほぼ毎日」


「その話、何回目?」


 2人で笑う。


 しばらくして、リーナが川へ目を向けたまま言った。


「でも、今日はどこに行くかより――」


 言葉が止まる。


「うん?」


「アルトさんとです」


「……何が?」


「楽しい理由」


 アルトの足が少し遅くなった。


「市場なら1人でも来られるし、ここも何度か来たことありますけど」


 リーナがこちらを見る。


「今日はアルトさんと一緒だから、いつもより楽しいです」


 何か返さないと。


 ありがとう。


 違う。


 俺も。


 それだけでは足りない。


 嬉しい。


 たぶん、それが一番近い。


「……今、かなり嬉しい」


「本当に?」


「うん」


「そんなに?」


「かなり」


 リーナが笑った。


「じゃあ、言ってよかったです」


 アルトは川へ目を向けた。


 しばらく顔を見るのは少し無理だった。


     ◇


 帰り道。


 市場近くまで戻ると、また人が増えた。


「今日は人多いですね」


「夕方だからね」


 向こうから荷車が来る。


 道幅が狭い。


「リーナ、こっち」


 アルトは自然にリーナの肩へ手を添え、自分の側へ寄せた。


「あ」


 荷車が横を通る。


「大丈夫?」


「はい」


 手を離す。


 祭りの日にも似たことがあった。


 今日はあのときほど迷わなかった。


 危ないから寄せた。


 それだけ。


 ただ、離したあとになって気づく。


 近かった。


 かなり。


「アルトさん?」


「何?」


「ありがとうございます」


「うん」


「今日、何回か助けてもらってますね」


「そう?」


「人にぶつかりそうになったときとか」


「人多いから」


 リーナが少し笑う。


「ちゃんと見てくれてるんですね」


「……見てるよ」


「何で間があったんです?」


「何でもない」


 見ている。


 かなり。


 それをどこまで言っていいのかは、まだ分からなかった。


     ◇


《陽だまり亭》が見えてきた。


「着いちゃいましたね」


 リーナが言った。


「うん」


「結構歩いたのに」


「そうだね」


 アルトも同じことを思っていた。


 いつもなら何とも思わない距離が、今日は短かった。


「アルトさん」


「何?」


「また行きません?」


 アルトはリーナを見る。


「今日みたいに?」


「はい。2人で」


「行く」


 即答した。


 リーナが笑う。


「早い」


「行きたいから」


「じゃあ今度は、アルトさんが行きたいところ考えてください」


「俺が?」


「私ばっかり決めたので」


「分かった」


「仕事関係は禁止です」


「……難しいな」


「頑張ってください」


「考える」


「楽しみにしてます」


 また、その言葉。


 でも今日は少し慣れた。


 ほんの少しだけ。


     ◇


「ただいま」


「おう」


 ベルンが店の奥から出てくる。


「どうだった?」


「楽しかった」


 リーナはすぐに答えた。


「そうか」


「見て。髪紐買った」


「青か?」


「緑」


「どっちでもいい」


「聞いたくせに」


 アルトが笑った。


「じゃあ、俺はこれで」


「あ、待って」


 リーナが振り返る。


「アルトさん」


「うん?」


「今日はありがとうございました」


「俺も楽しかった」


「また行きましょうね」


「うん」


「絶対ですよ」


「約束する」


 リーナが満足そうに笑う。


「じゃあ、また明日」


「また明日」


 アルトは店を出た。


 扉が閉まる。


 数歩歩いてから、振り返った。


 いつもの《陽だまり亭》だった。


 いつもの扉。


 明日になれば、またここへ来る。


 それなのに今日は、もう少し一緒に歩いていたかった。


 アルトは前を向いた。


 深い緑の髪紐。


 平焼きパン。


 川沿い。


『今日はアルトさんと一緒だから、いつもより楽しいです』


 いろいろあった。


 でも最後に残ったのは、もっと単純なものだった。


 楽しかった。


 もう一度、2人で出かけたい。


 次はどこへ行こう。


 仕事とは関係ない場所。


 リーナが楽しめるところ。


 できれば、自分も隣にいられるところ。


「……難しいな」


 そう呟いたくせに、アルトは少し笑っていた。

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