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『大陸一の大富豪は、今日も好きな女の子の店で暇人扱いされています。  作者: オレンジペコ


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15/25

第15話 今度、一緒に

 翌日の午後。


「いらっしゃいませ」


 ベルが鳴って、リーナが顔を上げた。


「こんにちは、アルトさん」


「こんにちは」


 いつもの時間。


 いつもの黒髪。


 いつもの落ち着いた顔。


 ただし今日は、アルトの手に小さな紙箱があった。


「何ですか、それ」


「これ?」


「はい」


「リーナに」


「私?」


 アルトが箱を差し出す。


 リーナは受け取らず、まず箱を見る。


「……何ですか?」


「開ければ分かるよ」


「怪しいものじゃないですよね?」


「俺、そんなに信用ない?」


「冗談です」


 リーナが笑って受け取る。


 アルトは何でもない顔をして、いつもの窓際へ向かった。


 何でもない。


 昨日、リーナが好きだと言った。


 だから仕事へ向かう途中、中央通りの菓子店へ寄った。


 それだけだ。


 店を3軒見たことは言わなくていい。


 最初の店は生地が湿っていた。


 2軒目は果物が多すぎた。


 3軒目が、一番リーナの好みに合いそうだった。


 それだけ。


「えっ」


 カウンターから声がした。


 アルトは振り返る。


「ミルフィーユ!」


 リーナが箱の中を見ている。


 顔が明るい。


 それを見た瞬間。


 3軒回ってよかった。


 アルトは素直にそう思った。


「昨日、好きだって言ってたから」


「覚えてたんですか?」


「昨日の話だから」


「でも、わざわざ?」


「近くを通ったから」


 嘘ではない。


 3軒目の店の近くを通るように予定を少し変えただけだ。


「アルトさん」


「何?」


「ありがとうございます」


 嬉しそうに笑う。


「すごく嬉しいです」


「……そっか」


 すごく。


 嬉しい。


 アルトは椅子を引いた。


 座る。


 少し早かった。


 立ったままだと、たぶん顔に出る。


     ◇


「父さん、見て」


「何だ?」


「ミルフィーユ」


 厨房からベルンが顔を出す。


「買ったのか?」


「アルトさんが」


「ほう」


 ベルンがアルトを見る。


「昨日、好きだって話したんです」


「昨日聞いて、今日買ってきたのか」


「たまたま近くを通ったから」


 アルトが答える。


「へえ」


「何ですか?」


「別に」


 ベルンは厨房へ戻った。


「父さん、何その顔」


「何でもない」


「絶対何か思ってる」


「仕事するぞ」


 リーナは不満そうだったが、すぐに箱へ視線を戻した。


「これ、今食べてもいいですか?」


「もちろん」


「やった」


 アルトは少し笑った。


 昨日も思った。


 本当に甘いものが好きらしい。


     ◇


 午後の客が途切れた頃。


 アルトはコーヒーを飲んでいた。


 今日はタルトを頼んでいない。


 代わりに、少し離れたカウンターでリーナがミルフィーユを皿へ移している。


 粉砂糖。


 何層にも重なった薄い生地。


 間には淡い色のクリーム。


 リーナはそれを持って、いつものように厨房へ戻る――


 と思った。


「よいしょ」


 向かいの椅子が引かれた。


 アルトが顔を上げる。


 リーナが座った。


「……食べるの?」


「はい」


「ここで?」


「駄目ですか?」


「いや」


 駄目なわけがない。


 むしろ。


 近い。


 また近い。


 普段、リーナは働いている。


 話すときもカウンター越しか、テーブルの横に立っていることが多い。


 向かいに座ることはほとんどない。


「今、お客さんいないので」


「うん」


「父さんにも休んでいいって言われました」


「そっか」


「じゃあ、いただきます」


 リーナがフォークを入れる。


 ぱり、と薄い生地が割れた。


「あ」


 クリームが少し横へ逃げる。


「難しい」


「ミルフィーユって食べにくいよね」


「そこも好きなんです」


「食べにくいところが?」


「上手に食べられたとき嬉しいから」


「変わってるね」


「アルトさんに言われたくないです」


「俺、変?」


「毎日ほぼ同じ時間に同じ店で同じコーヒー飲む人ですよ」


「……確かに」


 リーナが一口食べる。


 目が少し大きくなった。


「美味しい」


 アルトはコーヒーを飲む。


「よかった」


「これ、すごく美味しいです」


「うん」


「クリーム甘すぎないし、生地もちゃんとぱりぱりしてる」


「そっか」


「どこのお店ですか?」


「中央通りの《銀の麦穂》」


「あそこ!」


「知ってる?」


「知ってます。高いところじゃないですか」


「そんなにしないよ」


「アルトさんの『そんなに』は信用できない気がしてきました」


「どうして?」


「何となく」


 リーナはもう一口食べる。


 嬉しそうだ。


 アルトはそれを見る。


 買ってよかった。


 また思った。


     ◇


「アルトさんも食べます?」


「え?」


 リーナが皿を少し前へ出した。


「ミルフィーユ」


「リーナのために買ったんだけど」


「1人で食べるより一緒に食べた方が美味しいですよ」


 アルトは皿を見る。


 フォークは1本。


 リーナもそれに気づいた。


「あ。フォーク取ってきますね」


「うん」


 リーナが立つ。


 アルトは小さく息を吐いた。


 一緒に食べた方が美味しい。


 今日はいちいち言葉が残る。


「はい」


 新しいフォークが置かれた。


 リーナが皿を真ん中へ寄せる。


「どうぞ」


「ありがとう」


 アルトも一口取る。


「どうです?」


「美味しい」


「でしょう?」


「俺が買ってきたんだけど」


「あ、そうだった」


 リーナが笑う。


 同じ皿から食べる。


 フォークは別。


 昨日のタルトと同じだ。


 昨日もやった。


 だから別に何も――


 昨日より向かいにいる。


 顔が近い。


 楽しそうに食べている。


「アルトさん?」


「何?」


「止まってます」


「味わってた」


「口に入ってないですよ」


 フォークにはまだミルフィーユが乗っている。


「……今から」


 リーナが笑った。


「今日ちょっと変ですよ」


「そう?」


「はい」


 たぶん、リーナのせいだ。


 もちろん言わない。


     ◇


 半分ほど食べたところで、リーナが聞いた。


「アルトさんって、休みの日何してるんですか?」


「休み?」


「はい」


「仕事」


「休みじゃない」


「じゃあ、店に来る」


「それも知ってます」


 リーナが笑う。


「他にないんですか?」


「本を読むとか」


「仕事の?」


「多いね」


「趣味ないんですか?」


「……あると思う」


「何です?」


 アルトは考えた。


 投資。


 事業計画。


 新しい市場を見る。


 全部仕事だ。


「散歩」


「今作りました?」


「少し」


「やっぱり」


 リーナは笑ってから、フォークを置いた。


「じゃあ、今度どこか行きません?」


 アルトの思考が止まった。


「……どこか?」


「はい」


「誰が?」


「私とアルトさんが」


 分かっている。


 聞き直した。


「2人で?」


「嫌なら父さんも――」


「嫌じゃない」


 早かった。


 リーナが目を丸くする。


「……そうですか?」


「うん」


 アルトはコーヒーカップへ手を伸ばした。


 落ち着け。


 店の外。


 リーナと。


 2人。


 今度。


 一緒に。


 頭の中で単語がばらばらになる。


「この前、お祭りで一緒に歩いたの楽しかったから」


 追加された。


 楽しかった。


 リーナも。


 アルトはカップを持ったまま止まった。


「アルトさん?」


「うん」


「聞いてます?」


「聞いてる」


「じゃあ、どこ行きます?」


「どこでもいい」


「それ一番困るやつです」


「ごめん」


 何も出てこない。


 仕事なら、目的と時間と予算を聞けば候補はすぐ出せる。


 今は駄目だ。


 私とアルトさん。


 2人で。


 楽しかった。


 その3つが邪魔をする。


「市場とかどうです?」


「いいね」


「川沿いも歩きたいです」


「うん」


「じゃあ両方?」


「そうしよう」


「決まりですね」


 リーナが笑った。


 決まった。


 2人で出かける。


 アルトはコーヒーを飲んだ。


 ぬるくなっていた。


     ◇


「いつにします?」


「リーナの休みに合わせるよ」


「アルトさんの仕事は?」


「調整する」


「忙しいんでしょう?」


「調整できる」


「無理しないでくださいね」


「大丈夫」


「じゃあ、来週の――」


「その日は駄目」


「即答」


「会議がある」


「仕事の予定はちゃんと覚えてるんですね」


「それは覚えてるよ」


「じゃあ、その次の日」


 アルトは頭の中で予定を確認する。


 午前に銀行。


 午後に港湾組合。


 夕方に商会。


 詰めれば空けられる。


 いや。


 詰める必要はない。


 別日に動かせるものが2つある。


「空けられる」


「本当?」


「うん」


「じゃあ決まり」


 リーナが嬉しそうに言った。


「楽しみです」


 まただ。


 アルトは今日何度目か分からないくらい、言葉を頭の中で繰り返した。


 楽しみ。


 リーナが。


 自分と出かけるのを。


「俺も」


 それだけ答えた。


 今は、それ以上言わない方がいい。


     ◇


「じゃあ、また明日」


「はい」


 アルトが扉へ向かう。


「あ、アルトさん」


 振り返る。


「ミルフィーユ、本当にありがとうございました」


 リーナが笑った。


「すごく美味しかったです」


「よかった」


「また一緒に食べましょうね」


 アルトは一瞬だけ黙った。


「……うん」


 ベルが鳴る。


 店を出る。


 扉が閉まる。


 アルトは歩く。


 10歩ほど。


 止まった。


 今日の出来事を整理する。


 ミルフィーユを喜んだ。


 向かいに座った。


 一緒に食べた。


 今度2人で出かける。


 楽しみと言われた。


 また一緒に食べる。


「……多いな」


 誰にも聞こえない声で呟いた。


     ◇


「アルト様」


 商会へ戻ると、セドリックが待っていた。


「予定変更について確認がございます」


「何?」


「来週の水の日ですが、午後の港湾組合との会合を翌日へ移されていますね」


「うん」


「銀行との面談は午前へ前倒し」


「そう」


「夕方の商会会議は副代表へ一任」


「問題ある?」


「ございません」


 セドリックが書類を見る。


「ただ、珍しいので」


「予定がある」


「どちらへ?」


「市場」


「……市場?」


「あと川沿い」


 セドリックがアルトを見る。


「視察ですか?」


「違う」


「では、新規事業の調査?」


「違う」


 アルトは少し黙った。


「リーナと行く」


 セドリックの眉がわずかに上がった。


「お2人で?」


「うん」


「リーナさんから?」


「誘われた」


 セドリックが黙った。


「何?」


「いえ」


「何か言いたそうだけど」


「おめでとうございます」


「何が?」


「何でもございません」


 アルトは少し不満そうに書類を受け取った。


「次は?」


「北部鉄鉱石の長期契約です。相手方が価格を6%引き上げたいと」


「理由は?」


「冬季輸送費の上昇を見込んでおります」


「4%まで。代わりに数量保証をつける」


「承知しました」


 次。


「西側の銀行から共同融資の提案が――」


「条件は?」


「こちらです」


 アルトは目を通す。


「保証率が高い。2%下げるなら参加する」


「先方が拒否した場合は?」


「別に要らない」


「承知しました」


 仕事は進む。


 いつも通り。


 判断も早い。


 その途中。


『今度どこか行きません?』


 アルトの目が止まった。


「……」


「アルト様?」


「何でもない」


 また資料を見る。


 4行。


『私とアルトさんが』


 止まる。


「……」


「アルト様」


「聞いてる」


「まだ何も申し上げておりません」


「そうだった」


 セドリックがアルトを見る。


「随分と楽しみなのですね」


「何が?」


「市場と川沿いです」


 アルトは返事をしなかった。


 否定する理由がなかった。


 楽しみだ。


 かなり。


「次の案件」


「はい」


 書類が置かれる。


 アルトはすぐに数字へ意識を戻した。


 数分後には、数十万枚の金貨が動く契約の可否を迷いなく決めていた。


 そして、その直後。


『楽しみです』


 また戻ってきた。


 アルトは書類をめくりながら思った。


 来週。


 あと6日。


 ……長い。


 6日は、かなり長い。

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