第14話 一番好きなもの
翌日の午後。
《陽だまり亭》のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
聞き慣れた声。
白いエプロン。
後ろでまとめた栗色の髪。
いつものリーナだった。
「こんにちは、アルトさん」
「こんにちは」
アルトは窓際の席へ向かう。
昨日は髪を下ろしていた。
若草色の服。
灯籠の下で笑っていた。
今日はいつもの姿に戻っている。
なぜか少し安心した。
同時に、昨日の姿も思い出した。
可愛かった。
「アルトさん?」
「何?」
「座らないんですか?」
「ああ」
椅子の横で止まっていた。
アルトは何事もなかったように座る。
「いつものでいいですか?」
「うん」
「タルトも?」
「ある?」
「ありますよ」
リーナが少し笑う。
「ちゃんと取ってあります」
まただ。
アルトはもう、この言葉に弱いことを自覚し始めていた。
「ありがとう」
「昨日ハンカチ貸したから、特別です」
「関係ある?」
「ないです」
リーナが厨房へ戻っていく。
アルトは小さく息を吐いた。
いつもの店。
いつもの席。
いつものリーナ。
なのに昨日より少しだけ、落ち着かない。
◇
「お待たせしました」
コーヒーと蜂蜜りんごの焼きタルトが置かれる。
「今日の、きれいでしょう?」
「うん」
「一番うまく焼けたところです」
「……それ、俺が食べていいの?」
「取っておいたんだから食べてください」
リーナは当たり前のように言った。
アルトはタルトを見る。
焼き色が均一で、りんごも崩れていない。
一番きれいな1切れ。
自分のために残してあった。
「食べないんですか?」
「食べる」
一口。
「どうです?」
「美味しい」
「昨日の露店のお菓子とどっちが?」
「こっち」
「即答」
「本当に」
「じゃあ、露店の人には内緒ですね」
リーナが笑う。
アルトも少し笑った。
「そういえば」
リーナがカウンターへ戻りながら言う。
「ハンカチ、別に急いで返さなくていいですからね」
「持ってきたよ」
「え?」
アルトは鞄から小さく畳んだハンカチを取り出した。
「洗ってある」
「早い」
「借りたものだから」
「今日じゃなくてもよかったのに」
「昨日返すって言ったから」
リーナが受け取る。
「ありがとうございます」
指先が近づく。
アルトは昨日の肩を思い出した。
触れそう。
今回は触れなかった。
それでいい。
……たぶん。
リーナは何も気にせず、ハンカチをエプロンのポケットへ入れた。
アルトだけがコーヒーを飲んだ。
◇
昼の混雑が終わると、店にはアルトを含めて3組だけになった。
リーナは空いた皿を片づけながら、厨房へ声をかける。
「父さん、タルトあと何個?」
「2つ」
「分かった」
ベルンの体調はすっかり戻っていた。
「昨日の祭り、楽しかったか?」
厨房から聞かれる。
「楽しかったよ」
「何食った?」
「蜂蜜の薄焼き菓子」
「店でも作れるな」
「父さん、何でも店で作ろうとするよね」
「美味かったんだろ?」
「美味しかったけど」
ベルンが厨房から顔を出した。
「アルトも食ったのか?」
「はい」
「どうだった?」
「美味しかったです」
「うちのタルトとどっちが美味い?」
アルトは一瞬も迷わなかった。
「タルトです」
「よし」
「何の勝負なの?」
リーナが呆れる。
ベルンは満足そうに厨房へ戻った。
「アルトさんも真面目に答えなくていいですよ」
「本当にこっちの方が好きだから」
「そんなに気に入りました?」
「うん」
「毎日食べてますもんね」
「毎日ではないよ」
「前にもその話しました」
「そうだった?」
「しました」
リーナは空いたテーブルを拭く。
「アルトさんって、好きなものずっと食べられる人ですか?」
「たぶん」
「私は無理だなあ」
「そうなの?」
「好きでも、毎日だと別のもの食べたくなります」
「例えば?」
「うーん」
リーナは布巾を動かしながら考える。
「焼き菓子も好きだし、蜂蜜のお菓子も好きだし……」
「一番は?」
「一番?」
「好きな甘いもの」
リーナは少し考えた。
「ミルフィーユかな」
アルトの中で、その言葉が止まった。
「ミルフィーユ?」
「はい」
「好きなんだ」
「大好きです」
大好き。
ミルフィーユ。
「でも、あんまり食べないです」
「どうして?」
「作るの大変だから。うちじゃ普段出さないし、ちゃんとしたのはちょっと高いでしょう?」
「王都なら売ってる店あるよね」
「ありますよ。中央通りの菓子店とか」
「そっか」
ミルフィーユ。
中央通り。
大好き。
覚えた。
「アルトさん?」
「何?」
「そんな真剣に聞くことでした?」
「聞いたからには」
「変なの」
リーナが笑う。
アルトも笑った。
けれど頭の中では、もう一度。
ミルフィーユ。
忘れるわけがない。
◇
「リーナ、お前も食え」
ベルンが厨房から皿を出した。
「何?」
「端」
蜂蜜りんごのタルトの切れ端だった。
形が崩れた部分を小皿にまとめてある。
「やった」
リーナは嬉しそうに受け取る。
フォークで一口。
「美味しい」
「自分で焼いただろ」
「自分で焼いても美味しいものは美味しいよ」
アルトはその様子を見る。
リーナは本当に甘いものが好きらしい。
知っていた。
知っていたつもりだった。
でも。
ミルフィーユが一番好き。
それは知らなかった。
5年近く通っているのに。
まだ知らないことがある。
当たり前だ。
なのに、新しく1つ知れたことが妙に嬉しい。
「アルトさんも食べます?」
「え?」
リーナが自分の小皿を少し持ち上げた。
「端っこ。まだありますよ」
「いや、俺は1個食べたから」
「そうですか」
「……でも」
「はい?」
「1口なら」
リーナが笑う。
「結局食べるんじゃないですか」
ベルンがもう1本フォークを出した。
「ほら」
「ありがとうございます」
同じ小皿から食べる。
リーナが先に取る。
アルトも別のところを取る。
同じ皿。
それだけだ。
ただのタルトだ。
フォークも別だ。
何もない。
分かっている。
「美味しいですね」
「うん」
「何でそんな固いんです?」
「普通だけど」
「そうですか?」
「うん」
アルトはコーヒーを飲んだ。
今日は妙に喉が渇く。
◇
「ごちそうさま」
アルトが立ち上がる。
「今日も仕事ですか?」
「うん」
「昨日も祭りの途中で仕事でしたよね」
「祭りの途中というか、仕事の途中で祭りに行った」
「逆だったんですか?」
「うん」
「じゃあ、結構無理して来てたんですね」
「無理はしてないよ」
「でも1時間くらい歩いたでしょう?」
「会えたからよかった」
リーナが少し黙る。
「……そういうの、さらっと言いますね」
「何が?」
「何でもないです」
リーナは空いたカップを持ち上げる。
「明日も来ます?」
「来るよ」
「じゃあタルト取っておきます」
「ありがとう」
「でも、たまには別のものにします?」
「リーナが作るなら何でもいい」
「何でも?」
「うん」
「失敗しても?」
「程度による」
「そこは何でもって言ってくださいよ」
リーナが笑う。
「また明日」
「はい。また明日」
ベルが鳴る。
アルトは店を出た。
◇
「アルト様」
商業院へ戻ると、セドリックが書類を3冊並べた。
「西部銀行との融資枠ですが、先方から修正案が届いております」
「どこが変わった?」
「担保率を2%下げる代わりに、融資期間を半年短縮すると」
「却下。期間は変えない」
「では担保率を?」
「1%だけ譲る。それ以上なら別の銀行を使う」
「承知しました」
次の書類。
「北部の鉱山について、採掘量が予定を8%上回っています」
「輸送枠は?」
「来月までは足ります」
「再来月は?」
「不足する可能性が」
「今のうちに押さえて。冬に入ってからだと高くなる」
「はい」
さらに次。
「南港の倉庫契約ですが――」
アルトは数字を見る。
条件を比較する。
判断する。
いつも通りだった。
「こちらは3年契約で」
「承知しました」
セドリックが書き留める。
アルトは次の資料を開いた。
ミルフィーユ。
手が止まる。
「……アルト様?」
「何?」
「いえ」
「続けて」
「では、中央通りの店舗物件について――」
中央通り。
ミルフィーユ。
アルトは一瞬だけ目を閉じた。
「アルト様?」
「何でもない」
中央通りの菓子店。
リーナが好き。
一番好き。
大好き。
「……」
「アルト様」
「聞いてる」
「まだ何も申し上げておりません」
「そう」
セドリックが怪訝そうに見る。
「何かございましたか?」
「別に」
アルトは資料へ視線を戻した。
数秒後には、いつもの速さで条件を整理する。
仕事には何の問題もない。
ただ。
リーナが一番好きな甘いものを、今日初めて知った。
それだけのことが、なぜか重要な契約より鮮明に残っている。
ミルフィーユ。
忘れるわけがない。
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