第7話 戻る人
誰もすぐには扉を開けなかった。
「開けて……お願い」
もう一度。
女の声。
澪が動こうとした。
蒼真が腕を掴む。
澪が見る。
「待って」
「でも」
「誰か分からない」
声で全員が起きた。
榊原が音を立てずに扉の近くへ移動する。
航平はナイフ。
黒瀬は金属パイプ。
三崎だけは壁際から動かなかった。
「名前を言え」
榊原。
外。
少し沈黙。
「……沙耶」
誰も知らない名前だった。
「腕輪は?」
「ある」
「番号」
「E……10」
蒼真は九人の腕を見る。
抜けていた番号。
E-10。
莉子が息を呑んだ。
「その人……」
「知ってる?」
澪。
莉子が頷いた。
「一緒にいた人」
三崎が立ち上がる。
表情が変わっていた。
「本当に沙耶か?」
外から。
「三崎さん?」
それだけで確信したらしい。
三崎が扉へ行く。
今度は榊原が止めた。
「待て」
「何だよ」
「追われてるかもしれない」
三崎の顔が歪む。
「じゃあどうする。外に置いとくのか」
「確認する」
「何を」
榊原は答えず、窓の隙間から外を見た。
しばらく。
機械音はない。
「開ける。すぐ閉めろ」
扉を少しだけ開いた。
若い女性が転がり込むように入ってきた。
澪がすぐに扉を閉める。
女性は床へ崩れた。
二十代半ばくらい。
顔も服も泥だらけ。
右足の膝から下が赤く染まっている。
「沙耶!」
莉子が駆け寄る。
女性――沙耶は莉子を見ると、泣くでも笑うでもない顔になった。
「生きてた」
その一言がひどく軽くて、逆に重かった。
澪が傷を見る。
「切れてる。かなり深い」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないです」
救急箱を開ける。
手つきが速い。
迷いがない。
航平が沙耶の腕を見た。
確かにE-10。
蒼真は奇妙な感覚に襲われた。
十二。
揃った。
いや。
もう三人は死んでいるはずだった。
一人は目の前で。
一人はドローン。
そうすると――。
「三崎」
蒼真が聞いた。
「この人以外に、最初に誰がいた?」
三崎が答える前に、沙耶が言った。
「四人」
息を整えながら。
「私たち、四人だった」
蒼真は眉を寄せた。
三崎。
莉子。
黒瀬。
沙耶。
四人。
だったら十二人。
数が合う。
白いシャツの男は、蒼真たちのところへ流れてきた人物。
榊原たちのところで一人死亡。
そして――。
最初の十二人から、まだ十人いる。
蒼真は気づいた。
三崎も同じ顔をした。
「……九人じゃなかった」
航平が呟く。
沙耶は目を閉じていた。
「ごめん」
三崎が言う。
何について謝ったのか分からない。
沙耶が目を開けた。
「置いてったのに?」
小屋の中の空気が変わった。
三崎は何も言わない。
莉子が二人を見る。
「どういうこと?」
沙耶の口元が少し震えた。
「機械が来て……私、転んだ」
澪が傷口を消毒する。
沙耶が歯を食いしばる。
「三崎さんは、逃げた」
誰も口を挟まなかった。
三崎の顔は怒っているようにも、恥じているようにも見えた。
「俺が残って何ができた」
「別に」
沙耶。
「責めてない」
その言葉の方が痛かったのかもしれない。
三崎は視線を逸らした。
「黒瀬さんが戻ってきた」
沙耶が続ける。
全員が黒瀬を見る。
黒瀬は壁に背を預けたまま。
「戻った?」
蒼真。
「少しだけな」
「でも途中で」
沙耶が黒瀬を見る。
「もう駄目だって言われた」
「機械が二台来た」
黒瀬。
「一人で抱えて走れる状況じゃなかった」
「それで置いてきたの?」
莉子の声。
黒瀬は黙った。
沙耶が、
「いいの」
と言った。
「本当に」
その声は弱かった。
誰かを許しているというより、自分に言い聞かせているようだった。
「じゃあ、どうやってここまで?」
澪。
沙耶は少し考えた。
「分からない」
「分からない?」
「ずっと隠れてた。溝の中とか、木の下とか」
「ロボットは?」
「何度か近くまで来た」
「撃たれなかった?」
沙耶は首を振る。
「一回だけ」
膝の傷を見る。
「これは?」
「転んだ」
澪の手が止まった。
沙耶が続ける。
「見つかったと思った。目の前まで来たから」
「どれくらい」
「……二十メートルとか」
航平が眉をひそめる。
「それで何で生きてんの」
沙耶も分からない顔をした。
「私もそう思った」
ロボットは沙耶を見た。
銃口まで向けた。
なのに。
撃たなかった。
しばらくその場にいたあと、去った。
水路で起きたことと同じ。
蒼真の背中に、また薄い寒気が走った。
殺せるのに殺さない。
その基準が分からない。
「怪我人だから?」
莉子が言った。
「脅威じゃないと判断したとか」
朱里。
「じゃあ、最初の人は?」
航平。
誰も答えられない。
澪は処置を続けた。
血を拭き。
傷を閉じ。
包帯を巻く。
「これなら、しばらく歩かない方がいいです」
「ありがとう」
沙耶。
そのとき。
遠くから。
ガガガガガ。
全員が止まった。
一度。
音が近づく。
沙耶の顔から血の気が引く。
「来た」
榊原が窓へ。
音は一直線にこちらへ近づいていた。
「追跡されたか」
三崎。
「そんな……」
沙耶が震える。
「私、ずっと撒いたと思って」
「責めてない」
澪が言う。
「今は逃げましょう」
全員が荷物を取る。
しかし。
沙耶は立てない。
右足に体重をかけた瞬間、崩れた。
「無理」
澪が肩を貸す。
「私が」
「二人じゃ遅い」
榊原。
大庭が反対側へ入る。
「じいさんでも片側くらい持てる」
音。
近い。
ガガガガガ。
小屋を捨てる。
林へ。
九人――いや、十人が走る。
沙耶を澪と大庭が支える。
遅い。
明らかに。
「置いていくべきだ」
三崎が言った。
莉子が睨んだ。
「何言ってるの」
「全員死ぬぞ」
「だから置いてくの?」
「じゃあお前が背負え!」
莉子が言葉を失う。
正しさは、ときどき残酷だった。
蒼真も分かっていた。
沙耶がいなければ、もっと速く走れる。
一人のために十人が危険になる。
それでも。
「先に行け」
蒼真は言った。
澪を見る。
「俺が代わる」
「柏木さん」
「澪も走れ」
大庭と交代し、沙耶の腕を肩へ回す。
重い。
人間一人の体重というのは、思っていたよりずっと現実的だった。
「蒼真!」
航平が叫ぶ。
「来てる!」
銃声。
木の枝が弾ける。
一発。
二発。
蒼真は沙耶を引きずるように走った。
遅い。
無理だ。
頭のどこかでは分かっている。
だったら。
置いていけばいい。
会ったばかりの人間だ。
名前だってさっき知った。
自分が死ぬ理由なんてない。
本当にそう思う。
なのに。
肩から腕を外せなかった。
「ごめんなさい」
沙耶が言う。
「喋るな」
「置いてって」
「黙ってろ」
「でも」
「俺だって置いてきたいよ!」
思わず怒鳴った。
自分でも何を言っているのか分からない。
「じゃあ何で」
沙耶。
その問いに。
蒼真は答えられなかった。
本当に。
何でだ。
前方。
榊原が手を振る。
「こっち!」
地面が大きくえぐれている。
古い排水管。
人間なら入れる。
ロボットは無理だ。
一人ずつ潜る。
蒼真と沙耶が最後。
銃口がこちらを向く。
距離。
五十メートルもない。
蒼真は沙耶を押し込む。
自分も転がり込む。
銃声。
排水管の入口で火花。
しかし。
それきりだった。
ロボットは入口の前で止まった。
撃ち続ければ。
中にいる人間は逃げ場がない。
なのに撃たない。
蒼真は荒い呼吸のまま、暗い管の向こうから機体を見た。
ロボットは。
長い間。
こちらを見ていた。
まるで。
逃げ込むところまで見届けたかったみたいに。




