第7話 :華やぐ夜会と、引き裂かれる執着
重厚なオーク材の扉が開かれた瞬間、光と音の奔流が詩織の五感を強く打ち叩いた。
シャンデリアが放つ眩い黄金の光線。グラスが触れ合う金属音と、着飾った貴族たちの退屈さを覆い隠すための嘘めいた笑い声。空気に混ざる高級な薔薇の香水と、熟成された葡萄酒の甘く重い匂い。
どこを見渡しても華やかで美しく、だがどこか歪んだ王国の夜会。
「緊張していますか、シオン」
耳元で響いた低く澄んだ声とともに、腰に回された腕にキュッと力が込められた。
隣に立つのは、銀と紺を基調とした正装に身を包んだ涼──第一王子リオンだった。
甲冑を脱ぎ捨て、整えられた前髪と高貴な衣装を纏った彼の佇まいは、立ち姿だけで息をのむほど美しく、力強い。大広間にいる令嬢たちの熱い視線が、一斉に彼へと注がれていた。
「……少しだけ。でも、涼さんが隣にいてくれるから大丈夫です」
「リオン、と……呼んでくれませんか。ここでは、私たちはあの頃のふたりでもありますから」
涼は至近距離で詩織の耳元に唇を寄せ、吐息が肌を撫でるほどの密着感で囁いた。
大勢の目が光る公の場であるにもかかわらず、彼の金色の瞳には、世界に詩織しか映っていないかのような灼熱の愛が宿っている。
「……リオン」
詩織が小さく名を口にすると、涼の薄い唇が甘く綻んだ。
彼は詩織の華奢な指に自身の指を深く絡め、恋人としての独占欲を隠そうともしない。
「絶対に私の側を離れないでください。あいつが……リシェインがどんな言葉で揺さぶってこようと、私があなたを守ります」
「はい……」
涼の大きな掌から伝わってくる、やけどしそうなほどの体温。
その温もりに浸っていた、その時だった。
「──賑やかなところを失礼するよ、兄上」
静かに群衆を割って現れたのは、漆黒の礼服を纏った第二王子リシェインだった。
漆黒の生地に銀糸で刺繍された意匠は、まるで闇に咲く毒花のようだ。
彼の登場とともに、大広間の賑わいが潮が引くように静まり返る。
周囲の貴族たちは、忌み子を見る冷ややかな視線を向けながら、露骨に距離を取るように道をあけていく。
(やっぱり……ここでも、リシェインは……)
王国の「呪われた血筋」として蔑まれ、地下に追いやられていた男。
蔑視と忌避の視線に晒されながらも、リシェインの表情はどこまでも冷徹で、氷のように洗練されていた。
「約束通り、来てくれたんだね、シオン」
リシェインは涼の鋭い警戒の視線を軽やかに受け流すと、静かに詩織の前で片膝をついた。
そして、涼と繋がれていない方の詩織の右手を取ると、その甲にそっと唇を寄せる。
「っ……!」
わずかに触れたリシェインの唇は、凍りつくように冷たかった。
「な……ッ! 離れろ、リシェイン!」
涼の瞳が鮮血のような赤を帯び、今にも腰の剣を抜きそうなほど強い殺気が跳ね上がる。
涼は詩織の体を抱き寄せるように強く引き寄せ、リシェインの手から強引に詩織を奪い返した。
彼女を自分の胸の中に囲い込み、背後から包み込むようにしてリシェインを鋭く睨みつける。
「私の目の前で、彼女に気やすく触れるな……!」
低く地鳴りのような涼の威殺。
だが、リシェインは立ち上がりながら、可哀想なものを見るような薄い笑みを浮かべた。
「相変わらず独占欲が強いね、兄上。……だが、彼女は君の『所有物』じゃない。シオン自身が僕と話すと言ってくれたんだ」
リシェインの昏い瞳が、涼の胸元から覗く詩織の顔へと向けられる。
「少し風に当たりにいかないかい、シオン。……二人だけで。君が望むなら、僕がなぜ『あんな結末』を望んだのか……その始まりの場所を見せてあげるよ」
「ダメです、詩織さん! 行ってはいけない!」
涼の腕が詩織の体を締め付けるほど強く抱きしめる。
彼のはじけるような心臓の鼓動と、激しい嫉妬と不安に揺れる熱い体温が、ドレス越しに詩織の全身へ伝わってくる。
(涼さん……)
彼がどれほど自分を失うことを恐れているか、痛いほどわかる。
けれど、詩織は冷たい手首の痛みを耐えながら、胸元に回された涼の腕の上に手を重ねた。
「リオン……大丈夫です。私はあなたの恋人です。絶対に、あの人の言葉に惑わされたりしません」
「ですが……っ!」
「私たちが前世で悲劇を迎えたのは、互いを守ろうとするあまり、リシェインの抱えていた『闇の理由』から目を背けてしまったからです……。ここで向き合わなきゃ、私たちは現代に戻っても、永遠にあの惨劇の影から逃げられない」
詩織のまっすぐで凛とした瞳に見つめられ、涼は悔しそうに唇を噛み締め、背後から詩織の首筋に深く顔をうずめた。
「……五分です」
涼は詩織の額に、縋りつくような熱い口づけを落とした。
「バルコニーの見える位置から、私は一瞬たりとも目を離しません。もしあいつがあなたに怪しい動きを見せたら……私はその場でリシェインを斬る」
「……はい。ありがとうございます、リオン」
涼の過保護で切実な愛を受け取り、詩織はゆっくりとリシェインのもとへと歩み寄った。
◇
大広間から続く、月光に照らされた静かなバルコニー。
遠くから演奏されるバイオリンの重厚な調べが、夜風に乗って小さく聞こえてくる。
手すりに寄りかかるリシェインの横顔は、青白い月光を受けて透き通るほど白く、そして痛々しいほど孤独だった。
「……兄上は、相変わらず君のことになると正気を失うね」
リシェインは遠くの街並みを見つめたまま、ポツリと呟いた。
「リシェイン。……どうして、あんな『惨劇』を起こそうとしたの? どうして……私やリオンを殺してまで、物語を書き換えようとしたの?」
詩織の問いかけに、リシェインは静かに振り返った。
その黒い瞳には、激しい狂気ではなく、底なしの絶望が揺らめいていた。
「どうして……か。……シオン、君は覚えているかい? 僕がまだ十歳の頃、この城の暗い地下牢に閉じ込められていた日のことを」
「地下牢……?」
「『呪われた第二王子』として存在を消され、誰からも名を呼ばれず、暗闇の中で冷たい石畳に伏せていた僕に……ただ一人、鍵を盗み出して逢いに来てくれた少女がいた」
リシェインがゆっくりと詩織へ歩み寄る。
彼が一歩近づくたびに、夜風に乗って冷たい鉄の匂いが漂ってくる。
「君は僕の泥に汚れた手を握りしめ、ボロボロと涙をこぼしてくれた。『こんな暗闇の中で、あなたの瞳だけが綺麗に輝いている……。生きていてくれて、ありがとう』と……僕の存在そのものを、抱きしめてくれたんだ」
詩織の脳裏に、激しい閃光とともに幼い日の光景が鮮烈に蘇る。
(あ……あぁ……っ!)
冷たく湿った地下牢の匂い。
格子越しに震えていた華奢な少年。その冷え切った手を、自分が無我夢中で握りしめ、彼の存在をただ承認したあの感覚。
「僕の死んでいた世界に、初めて心が生まれた瞬間だった」
リシェインの冷たい指先が、詩織の頬に静かに触れた。
「だが……兄上は君の『聖女』としての力を知ると、君を救世主として光の世界へと連れ去った。白亜の大聖堂、大勢の貴族たちの祝福、そして第一王子の婚約者という眩しすぎる光の中に……君を閉じ込めたんだ」
リシェインの声が、かすかに震える。
「僕には、遠くの影から指を咥えて見ていることしかできなかった。君が兄上の隣で微笑み、二度と僕の手の届かない高みへ行ってしまったあの時……僕の心は完全に死んだ。君という光を奪われたこの世界すべてが、僕にとっては地獄だったんだ」
彼の言葉には、単なる独占欲を超えた、身を削るような渇望と歪んだ愛が満ちていた。
「……だから、すべてを壊すと決めた。国も、兄上も、君の光も……すべてを奪い去り、私だけの暗闇に君を閉じ込めれば、今度こそ誰も君を私から奪えないと」
「リシェイン……っ」
彼の孤独の深さと、自分に向けられた歪みきった愛の重さに、詩織の胸が激しく締め付けられる。
彼をただ拒絶するのではなく、その傷ついた魂ごと抱きしめたい──そう強く願った瞬間だった。
ドクン……ッ!
詩織の心深くに眠っていた『聖女』の慈愛が溢れ出し、左手首の痣が太陽のような純白の光を放ち始める。
「あっ……く……っ!?」
「な……ッ!? これは……聖女の波動……!?」
シオンの溢れ出る光が、リシェインの体に纏いついていた冷たい邪気と激しく反発し、眩い光の衝撃波となって弾け飛んだ。
「シオンーーーーーーッ!!」
異変を察知したリオンが、剣を抜き放ち、バルコニーの扉を打ち破る勢いで飛び出してきた──!




