第6話 :冷たい回廊と、忍び寄る陰謀
静まり返った石造りの回廊。
窓から差し込む西日が、重厚なアーチ状の天井と二人の影を長く伸ばしていた。
「……涼さん、本当にここは……」
詩織は自分の纏う純白のドレスの裾をギュッと握りしめた。
現代の服から一瞬で前世の姿へと変わってしまった戸惑い。けれど、左手首を苛んでいたあの激しい痣の痛みが、嘘のように消え去っていることだけは確かだった。
「ええ。城の西回廊……間違いありません」
涼は腰に下げた長剣の柄にそっと手を置きながら、慎重に周囲の気配を探っている。
銀の甲冑に身を包んだ彼の佇まいは、現代の天ヶ瀬涼でありながら、間違いなく王国最強と謳われた騎士『リオン』そのものだった。
「瀬名……あいつは現実世界から僕たちの精神をこの過去の記憶へ引きずり込んだ。ですが、なぜ『惨劇の夜』ではなく、この静かな時代だったのか……」
「……あの日より前の時間だから……でしょうか?」
「ええ。私たちが命を落とす、まだ数ヶ月も前の時間です。国も崩壊しておらず、あいつ自身もまだ『裏切り』を実行に移していない……」
涼の金色の瞳が、燃えるような熱を帯びて詩織を見つめた。
彼は詩織の手を包み込み、その体をすっと自分のもとへ引き寄せる。
「詩織さん。……これは、ただの幻影ではなく、私たちの前世の記憶そのものです。もしここで……あいつがなぜ狂気に走り、あの惨劇を起こそうとしたのか、原因を突き止めることができれば……」
「惨劇の運命を……変えられる……?」
「はい。前世で私たちは、あまりにも唐突にあいつの裏切りに遭い、奪われてしまった。……ですが、ここならやり直せる。前世の悲劇を回避し、現代で二人で生きる未来を勝ち取れるはずです」
涼の抱擁に、詩織の胸の奥がじんわりと熱くなる。
彼の胸元に手を添えると、甲冑の冷たさの奥から、彼特有の凛とした石鹸の香りと、激しい鼓動が伝わってきた。
(守られるだけじゃ駄目……。今度こそ、私がこの人を支えたい……!)
前世で何があったのか。なぜリシェインはシオンを殺してまで奪おうとしたのか。
その真相を確かめなければならない──詩織がそう決意した、その時だった。
カツン、カツン、カツン……。
静まり返った回廊の奥から、硬い靴音が響いてきた。
「──ッ!」
涼は即座に詩織を自分の背後へと庇い、長剣をいつでも抜けるよう身構えた。
暗がりからゆっくりと姿を現したのは、漆黒の貴族服に身を包んだ一人の青年。
黒髪の隙間から覗くのは、冷徹で、けれどどこか底知れぬ寂しさを孕んだ昏い瞳。
──第二王子『リシェイン』。
現代での漫画家・瀬名壱月の前世の姿だった。
「おや……二人揃って、こんなところで何をしているんだい? 兄上……そして、僕のシオン」
リシェインの薄い唇が、静かに弧を描く。
「リシェイン……」
涼が低く警戒した声を漏らす。
だが、眼前に立つリシェインは、暴れて世界を壊そうとしているわけではなかった。
ただ、どこか透明で、いつ崩れ去ってもおかしくないような圧倒的な「孤立感」を漂わせていたのだ。
リシェインの視線が、涼の背後に隠れる詩織へと注がれる。
「そんなに怯えた目で見ないでおくれ、シオン。……僕はただ、君にひと目会いたかっただけだ。今日の夜会で、君が僕の隣に座ってくれないかと……それだけを伝えにきたんだよ」
その声には、刺すような攻撃性はなかった。
代わりに混ざっていたのは、まるで世界にたった一人取り残された子供のような、切ないすがりつくような響き。
「断る。シオンは私の……」
涼が言いかけたその時、詩織は涼の甲冑の裾をそっと引っ張った。
「涼さん……待ってください」
(この人の声……昔、聞いたことがある……)
前世の記憶の断片が、小さく弾ける。
暗く冷たい地下室で、誰の手も握ることができず、震えていた男の背中。
彼がシオンという存在に異常なまでに執着し、狂気に陥っていった「本当の理由」が、この時代の中に隠されているはずなのだ。
詩織は涼の背中から一歩踏み出し、凛とした瞳でリシェインを見つめ返した。
「リシェイン様。……夜会には、参列いたします」
「シオンっ!?」
涼が驚愕して振り返る。
リシェインもまた、予想外の答えだったのか、黒い瞳を大きく見開いた。
「……本当かい? 兄上を置いて、僕の側に来てくれるのかい?」
「ええ。……ですが条件があります。私に、あなたの話をもっと聞かせてください」
リシェインの口元が、わずかに震えた。
彼は静かに胸に手を当て、優雅にお辞儀をしてみせる。
「……楽しみにしているよ、愛しいシオン。今夜、僕たちの本当の物語を始めよう」
リシェインが翻り、去っていく足音が遠ざかっていく。
静けさが戻った回廊で、涼はたまらず詩織の両肩を強く掴んだ。
「詩織さん! なぜあんな約束を……! あいつは危険です! 何を企んでいるか……っ」
「涼さん、聞いてください」
詩織は涼の大きな手の上に、自分の小さな手を重ねた。
「私はもう、あなたに守られるだけの存在でいたくないんです。前世で何があったのか……なぜ彼が狂ってしまったのかを知らないと、私たちは本当の未来を選べない」
「ですが……っ!」
「大丈夫です。私の心は……魂は、最初からずっとあなたのものです。……リオン」
『リオン』と呼ばれた瞬間、涼の金色の瞳が激しく揺れた。
彼は感極まったように詩織を抱きすくめ、首筋に深く顔をうずめた。
「っ……シオン……! あいつに触れさせないでください……僕の目の届くところにいてください……!」
「ええ。ずっと……あなたの側にいます」
過保護なほどの強い抱擁と、彼の熱い体温。
前世の惨劇を回避し、運命を書き換えるための二人の戦いが、いま静かに幕を開けた──。




