第4話 :侵食する影と、暗闇の中の密着
原画展の控室を包んだ、異様な空気。
点滅する照明の明かりと、壁に飾られた絵画から漂う氷のような冷気。
涼は詩織を庇うように自分の背中に引き寄せると、鋭い眼光で部屋の隅を見つめていた。
「涼さん……これ、なに……?」
詩織は涼のジャケットの裾をギュッと握りしめた。
恐怖で指先が震え、背筋に冷や汗が伝い落ちる。
ただの気のせいなどではない。部屋の中の温度が一気に氷点下まで下がったかのように、皮膚がピリピリと痛んでいた。
「……私たちの再会を、面白く思っていない『誰か』がいるようです」
涼の低く冷徹な声。
彼が詩織の震える手をすかさず包み込み、自分のポケットの中へと滑り込ませてくれた。
彼のポケットの中で、大きくて温かい掌が詩織の指をしっかりと握り返す。
「大丈夫です。何があっても、私があなたを守りますから」
耳元で紡がれる、低く甘い誓い。
死の恐怖すら吹き飛ばすほどの強い抱擁感と温もりに、詩織の胸がキュッと締めつけられる。
(ああ……この人は、昔もこうして私を守ってくれていた……)
次の瞬間、パチンと弾ける音とともに照明が完全に落ち、部屋は深い暗闇に包まれた。
「きゃっ……!」
視界を奪われた恐怖に息を呑んだ瞬間、涼の腕が旋風のように詩織の腰を抱き寄せた。
壁際に押し付けられるような形で、詩織は涼の胸の中にすっぽりと収まる。
「っ……涼さん……」
「静かに。……離れないでください」
暗闇の中、すぐ目と鼻の先にある涼の顔。
彼の荒い息遣いが詩織の首筋を撫で、凛とした石鹸の香りと熱い体温が、暗い部屋の中で唯一の道標のように全身を包み込む。
涼の左手が詩織の頭の後ろに回され、愛おしそうに髪を撫で上げられた。
(息が……できない……っ)
暗闇での密着。心臓が破裂しそうなほど暴れ狂い、自分の動悸が涼に伝わってしまいそうで胸が熱くなる。
涼もまた、息を乱しながら、詩織を壊れ物のように強く強く抱きしめていた。
その時──。
暗闇の向こう、部屋の防音扉の外から、静かな「足音」が聞こえてきた。
カツン、カツン、カツン……。
硬い革靴が床を叩く、どこか冷酷さを感じさせるゆっくりとした足音。
それがドアの前でぴたりと止まる。
ガチャリ、とドアノブが静かに回る音が響いた。
「天ヶ瀬先生、こちらにいらっしゃいますか?」
聞こえてきたのは、柔らかく穏やかな、けれど底知れない冷たさを含んだ男性の声だった。
「……瀬名」
涼が低く潰した声で呟く。
その名を聞いた瞬間、詩織の左手首の三日月型の痣が、まるで熱した鉄でも押し当てられたかのように激しく熱く疼き出した。
(っあ……う……ッ!?)
あまりの痛みに詩織が息を呑むと、涼が咄嗟に詩織の唇を自分の指先で優しく塞ぎ、そのまま痛む手首を自分の大きな掌で包み込んだ。
「ん……」
涼の指先から伝わる熱と香りに、全身の力が抜けそうになる。
涼は暗闇の中で琥珀色の光を宿す金色の瞳を一層鋭くさせ、ドアの方を凝視していた。
「コミカライズの打ち合わせの件で伺ったのですが……おや、鍵がかかっている。中には誰もいないのかな」
扉の向こうの声──瀬名壱月。
人気漫画家であり、今回の『黄昏の聖女』のコミカライズを担当している人物。
だが、どうしてだろう。
彼の声を耳にしただけで、詩織の脳裏に「血まみれの剣」と「崩れ落ちる王国の廊下」の光景が激しいフラッシュバックとなって襲いかかってきたのだ。
(あの声……知ってる……! 夢の中で……私を……っ!)
頭痛と激しい動悸で意識が遠のきそうになる詩織を、涼はさらに強く抱きしめた。
詩織の耳元に自分の唇を寄せ、吐息だけでささやく。
「……大丈夫。私がついています。思い出さなくていい……私だけを見てください」
涼の唇が、詩織の額にそっと触れた。
甘く、切なく、すべてを投げ打ってでも詩織を守るという執着に満ちたキス。
その温もりに救われるように、詩織は涼の胸に顔をうずめ、必死で呼吸を整えた。
やがて──扉の向こうから、遠ざかっていく足音が聞こえた。
カツン……カツン……と、靴音が完全に消え去り、数分後、部屋の非常照明がパッと点灯した。
明るくなった室内で、二人はしばらくの間、言葉もなく抱き合ったまま荒い息を吐いていた。
「……詩織さん、大丈夫ですか?」
涼が身体を離し、詩織の顔を心配そうに覗き込んでくる。
そして、今なお赤く熱を持った詩織の左手首──三日月型の痣に、愛おしそうに触れた。
「手首、痛みましたね……。前世で、リシェインに呪いをかけられた場所だからです。あいつの気配が近づくと、どうしても反応してしまう……気づいてあげられなくてすみません」
「涼さん……知っていたんですか……?」
「はい。前世であなたが苦しんでいたのを、ずっと隣で見ていましたから。……今世でも、あなたに痛い思いはさせたくない」
涼の金色の瞳に、隠しきれないほどの深い心配と申し訳なさ、そして激しい愛おしさが満ちていた。
詩織の手首をそっと持ち上げ、その痣の上に優しく誓いのキスを落とす。
「っ……」
唇から伝わる熱と体温。甘い痺れが手首から全身へ広がっていき、詩織の心臓が大きく跳ね上がった。
「あの男は……瀬名壱月は、僕の作品のコミカライズを担当している漫画家です。……そして」
涼の表情が、かつてないほど重く沈んだ。
「前世で、シオン……あなたを追い詰め、死に追いやった男──第二王子『リシェイン』の生まれ変わりです」
「ッ……! リシェイン……!」
その名前が告げられた瞬間、失われていた前世のパズルのピースが、強烈な衝撃とともに詩織の脳内で組み合わさった。
燃える城。
自分に手を伸ばしてきた、昏い情念を宿した瞳。
そして──胸を貫いた冷たい鉄の感触。
「……あの男も、私と同じように記憶を取り戻しています。それも、私よりずっと前から」
涼の言葉に、詩織は息を呑んだ。
「あいつは、今度こそあなたを自分のものにしようとしている。……私が作ったこの『黄昏の聖女』というゲームを利用して、現実とゲームの境界を壊し、あなたをあの惨劇の夜へと引きずり込もうとしているんです」
「そんな……現実とゲームの境界を壊すなんて、そんなこと……!」
「信じられないかもしれません。ですが、さっきの異常現象も、あなたの手首の痣の疼きも……すべて、あいつの執着が前世の記憶を刺激して引き起こしていることです」
涼が詩織の両手を強く包み込む。
その手はかすかに震えていた。王国最強と謳われた彼が、詩織を失うことだけを恐れて震えている。
「詩織さん。……絶対に、僕の側を離れないでください。今度こそ……今度こそ私は、命に代えてもあなたを守り抜きますから」
「涼さん……」
詩織は、自分を抱きしめる涼の背中にそっと手を回した。
「怖いです……。でも、もう目を背けたくありません。涼さんと一緒に、私たちの本当の運命に向き合いたいです」
その言葉に、涼の瞳が熱く揺れた。
彼は感極まったように詩織を再び抱きしめ、首筋に深く顔をうずめた。
「……ありがとう、シオン。……愛しています」
何百年もの時を超えて紡がれた、本物の告白。
その甘く切ない響きが、詩織の胸の真ん中をどこまでも深く突き刺した。
──だが、二人はまだ知らなかった。
瀬名の執着が、すでに彼らの「現実」を蝕み始めていたことを。
その夜、詩織のスマートフォンに、見知らぬ番号から一通のメッセージが届く。
『詩織さん。僕の描く結末を、見に来てくれませんか』
添付されていたのは──壊れた城の中で、横たわる詩織と、それを冷たく見下ろす瀬名自身のイラストだった。




