第3話 :引き寄せられる魂と、秘密の約束
あの雨の夜から、三日が過ぎていた。
天ヶ瀬涼から借りたコートの残り香と、指先が触れ合った瞬間の電流のような感触が、未だに皮膚の表面に焼き付いて離れない。
仕事をしていても、ふとした瞬間に自分の指先を見つめては、あの金色の瞳と低い声の響きを思い出してしまう。
(また会えるって、どうしてあんなに確信に満ちた声で言えたんだろう……)
そんな詩織の心を決定的に揺さぶったのは、週末、莉子に半ば強引に連れ出された『黄昏の聖女』原画展の会場だった。
休日のギャラリーは、ファンでごった返していた。
薄暗い館内には作品の世界観を模したクラシックな音楽が流れ、壁一面に美しく額装されたイラストの数々が飾られている。
「凄すぎるよ詩織! ほら見て、これゲームの未公開設定画だって!」
莉子が興奮気味に指差す先。
だが詩織の足は、ギャラリーの最奥──ひと際静けさを纏った、大型のメインビジュアルの前で完全に止まっていた。
崩れ落ちた白亜の城塞。赤と灰が混ざり合う滅びの空。
知識なんてなくてもわかる。あの惨劇の景色そのままだった。
(……間違いない。あの夢の、そのままの景色だ)
絵の前に立った瞬間、心臓がトクンと嫌な音を立てた。
額縁のガラスに映る自分の顔が、まるで血の気を失った幽霊のように見える。
胸の奥が、ぎゅっと引きちぎられるように熱く痛んだ。
その時だった。
「――この絵の構想に、三年かかりました」
すぐ後ろから聞こえた、低く落ち着いた声。
鼓膜を揺らしたその響きに、詩織の全身の毛穴が一斉に跳ね上がった。
振り返る間もなく、背後からふわりと漂ってきた匂い。
あの雨の夜、肩にかけられたコートから感じた──凛とした石鹸の香りと、かすかな微熱のような男性特有の体温。
「あ……」
弾かれたように振り返ると、そこに立っていたのは、黒のタートルネックにダークグレーのジャケットを羽織った天ヶ瀬涼だった。
光の加減で琥珀色の光を宿す、あの神秘的な金色の瞳。
周囲の人波など最初から存在しないかのように、彼の視線はまっすぐに詩織だけを射抜いていた。
「天ヶ瀬……さん」
掠れた声で名前を呼ぶと、涼の薄い唇が、静かに、愛おしそうに弛んだ。
「詩織さん。……本当に、また会えましたね」
その甘く切ない呼びかけに、胸の真ん中が跳ね上がる。
莉子が「えっ!? 詩織、この人知り合い!? っていうか、まさか天ヶ瀬先生……!?」と驚愕の声を上げていたが、涼は一切の脇目も振らず、詩織との距離をさらに一歩詰めてきた。
至近距離。
彼の吐息がかかりそうなほどの距離感に、詩織の肺から酸素が一瞬で抜け落ちる。
「少し……二人だけでお話しできますか」
拒否する隙などなかった。涼はそっと詩織の背中に手を添える。
直接触れてはいない。けれど、上着越しに伝わってくる彼の掌の圧倒的な熱量が、詩織の背筋を心地よく痺れさせていく。
莉子に「あとで連絡するね!」と慌てて伝えた詩織は、そのまま涼に導かれるように、関係者以外立ち入り禁止の静かな控室へと連れ出されていた。
◇
「どうぞ」
防音扉が閉まり、周囲の喧騒が完全に遮断された静寂の室内。
涼が淹れてくれた温かい紅茶の湯気が、ふたりの間にゆらゆらと立ち上る。
ソファーに並んで腰掛けた瞬間、涼の身体から発せられる熱気と存在感が、狭い空間を満たしていった。
「あの……さっきの絵のことなんですけど」
詩織は膝の上で固く握りしめた拳を見つめながら、意を決して口を開いた。
「どうして……あんな絵が描けるんですか? あの崩れた城も、あの空の色も……私、ずっと昔から、夢で何度も見ていたんです。ゲームが発売される、ずっと前から……!」
震える声でそう告げた詩織を、涼はずっと見つめていた。
金色の瞳の奥で、激しい愛おしさと切なさ、そして溢れんばかりの感情が揺らめいている。
「私も……同じです」
「え……?」
「私もずっと昔から、あの景色を夢に見続けていました。……いいえ、夢だけじゃない」
涼が身を乗り出す。彼の大きな手が、ソファーの上に置かれた詩織の左手の上に、そっと重ねられた。
「っ……!」
バチッと弾けるような熱。
濡れた指が触れ合ったあの夜と同じ、皮膚を伝って魂まで直接振動させるような強い刺激。
涼の体温が、詩織の冷え切った手にじんわりと染み込んでくる。
指の関節を包み込む彼の掌の大きさと力強さに、詩織の心臓は狂ったように暴れ出した。
「私がこのゲームを作ったのは、ヒットさせるためでも、ビジネスのためでもありません。……シオン、あなたを探すためだったんです」
「……シオン……?」
思わず溢れた、前世の呼び名。
涼の金色の瞳に激しい感情が走り、彼は手を離そうとはせず、むしろ逃さないようにと指の力を強めた。
「あの日、雨の軒先であなたに触れた瞬間、確信しました。……私が何百年も探し続けていたのは、あなただ」
「天ヶ瀬さん……私、何を言われているのか……」
「ゲームの中で主人公たちが交わすセリフは、私が記憶の断片を元に作った創作です。でも──」
涼の顔が、さらに至近距離まで近づいてくる。
彼の金色の瞳に、動揺し涙を溜めた詩織の顔がはっきりと映り込んでいた。
彼の温かい吐息が頬を撫で、凛とした香水の匂いが鼻腔を支配する。
「息を引き取る直前、あなたが私の耳元で……誰にも聞こえないくらい小さな声で囁いてくれた、本当の最期の言葉があります」
「っ!?」
息が止まった。
胸の奥が、激しく疼く。
「『生まれ変わっても……きっとまた、あなたを好きになる』」
涼の口から紡がれた、完全なるあの日の言葉。
「ゲームのどのシーンにも、設定資料にも……どこにも書いていない。死にゆくあなたと、あなたを抱きしめていた私だけが知っている……本当の言葉です」
「リ……オン……」
ついに詩織の目から涙が溢れ出した。
涼は詩織の手を強く引き寄せると、自分の額を、詩織の額へとそっと押し当てた。
息が詰まるほどの至近距離。二人の荒い吐息が交じり合い、触れ合う額から震える体温がそのまま流れ込んでくる。
「シオン……。やっと、やっと会えた……! 今度こそ……二度とあなたを失いたくない……ッ!」
苦しいほどの抱擁。
彼の手が背中に回り、折れそうなほど強く抱きしめられる。
彼の胸板の厚み、激しく鼓動する心臓の音。そのすべてが「ここにいる」と叫んでいた。
(ああ……この人だ。この腕の強さも、この熱さも……全部、私が何百年も愛し続けていた人だ……!)
詩織もまた、彼の背中に手を回し、涙を流しながらその背中にしがみついていた。
だが──二人を包む激しい温もりと歓喜を切り裂くように。
突然、部屋の照明がパチパチと不自然に点滅を始めた。
「っ……!?」
壁に掛けられた『黄昏の聖女』のメインビジュアルの絵。
その額縁のガラスの向こうで、燃えさかる城の絵の奥から──異質な「黒い影」が、ぬっと浮かび上がってきたような気がした。
氷のように冷たい視線が、抱き合う二人を部屋の隅から見つめている。
「……涼さん?」
異変に気づいた詩織が怯えた声を上げると、涼は瞬時に詩織を自分の背中へと庇い隠した。
その金色の瞳から甘さが消え、鋭い警戒の光が宿る。
「……邪魔が入ったみたいですね」
涼の低い声。その横顔には、かつて王国最強と謳われた騎士の、凛とした冷徹な表情が戻っていた。




