第2話 :冷たい雨と、熱い体温
あの激しい夢から目覚めた翌日。
仕事中もずっと頭から離れなかったのは、画面越しに出会った『天ヶ瀬涼』という名前と、夢の中で私を抱きしめていたあの人の温もりだった。
会社からの帰り道、駅へと急いでいた詩織は、肩口にぽつりと落ちた冷たい雨粒に顔をしかめた。
昨日から降り続く雨は一瞬のうちに雨脚を強め、アスファルトを打ち付ける激しい水音が街を包み込んでいく。詩織は逃げるように、近くの雑居ビルの狭い軒先へと駆け込んだ。
「冷た……」
湿り気を帯びた前髪をハンカチで拭い、浅い息を整える。
濡れた服が肌に張り付き、身体の芯から寒気が這い上ってくるのを感じた、その瞬間──。
ふと、すぐ隣に「誰か」が立っていることに気づいた。
距離にして、わずか数十センチ。
グレーのステンカラーコートを羽織った、背の高い男性。
濡れ髪から滴る雫を、細く長い指先で軽く払う仕草があまりにも静かで、寂しげで。
街灯の淡いオレンジ色の光が、彼の通った鼻筋と美しい横顔を浮かび上がらせていた。
──ドクン。
胸の奥が、激しく跳ねた。
理由なんてわからない。けれど、彼の横顔から目が離せなかった。
懐かしい。会ったことなんて一度もないはずなのに、胸の真ん中が引きちぎられるほどに切なく、愛おしい。
じっと見つめすぎただろうか。
ふいに彼が詩織の方へと視線を動かし、正面から目が合った。
「っ……!」
呼吸が完全に止まった。
街灯の光を反射して怪しく煌めく、金色がかった琥珀色の瞳。
昨日、スマートフォンの画面越しに自分を射抜いた──あのアニメーショングラフィックの瞳と、まったく同じ色だった。
心臓が痛いほどの音を立てて肋骨を叩く。
指先がじんと熱く痺れていく。
彼もまた、琥珀色の瞳を大きく見開いていた。驚きと、困惑、そして──ずっと長年探し続けていた宝物を見つけたかのような、激しい揺れがその瞳に走る。
詩織は慌てて会釈し、気まずさを誤魔化すように視線を泳がせた。
彼も小さく頭を下げたが、その視線は詩織の顔から片時も離れようとしない。
まるで、生き別れた恋人の輪郭を確かめるかのように。
「……止みそうにないですね」
低く落ち着いた、けれどかすかに震える声が、雨音を割って耳奥に落ちてきた。
その響きを耳にした瞬間、詩織の全身の皮膚に鳥肌が立った。
(……画面越しに聞こえた、あの声だ……!)
頭の中で直接響いた『やっと、見つけた』という切ない低音。それが今、目の前の男の唇から紡がれている。
「そう、ですね……。傘、忘れちゃって」
「僕もです。出るときは晴れていたので」
困ったように唇を綻ばせる彼の表情に、また胸が突かれた。
優しいのに、どこか泣き出しそうなほど寂しい笑顔。そんな笑い方をする人を、詩織は知っている。何百年も昔から、ずっと知っている気がした。
その時、ヒュッと強い風が吹き抜け、軒先の中まで冷たい雨粒が舞い込んできた。
濡れたブラウス越しに冷気が肌を刺し、詩織が思わず小さく肩をすくめた──次の瞬間だった。
「――寒いですか」
迷いのない動作で、彼が自分のコートを脱いだ。
探る間もなく、戸惑う詩織の華奢な肩へ、そっと優しくかけてくれたのだ。
ふわっ、と。
彼が纏っていた温もりと、どこか懐かしい凛とした石鹸の香りが鼻先をくすぐる。
「えっ、あの……! 大丈夫です、そんなの申し訳ないです!」
「風邪をひかれる方が困ります。僕は平気ですから」
さらりと言い放たれた「困る」という一言。
それがまるで、ずっと昔から詩織の身体を気にかけてきた身内のような当たり前さに満ちていて、胸の奥がじんと熱くなる。
コートのずっしりとした重みと、彼の体温。
男ものの大きな生地に包まれているという事実だけで、全身の血液が沸騰したように熱くなり、心臓がうるさいほど跳ね上がった。
雨脚が少しずつ弱まっていく。
彼が夜空を見上げ、小さく息を吐いた。
「そろそろ、行けそうですね」
「あ……コート、ありがとうございました。本当にお借りしてしまって……」
詩織は名残惜しさを押し殺しながら肩からコートを外し、両手でそっと差し出した。
受け取ろうと伸ばされてきた彼の指先。
その細い指先が──ほんの一瞬、詩織の濡れた指に触れた。
「──っ!?」
たったそれだけの触れ合いだった。
なのに、まるでバチッと強い電流が走ったかのような衝撃が、触れた皮膚から全身へと駆け巡った。
世界が静止する。
雨音も、遠くの街の喧騒も、すべてが消え去った。
視界が一瞬、激しく歪む。
目の前の雑居ビルが消え、燃えさかる城壁と、赤と灰の空がオーバーラップする。
目の前の男性の姿が、血に濡れた甲冑を身に纏い、涙を流す騎士の姿へと重なった。
『シオン……!』
脳裏で、彼の絶叫が直接炸裂する。
「……っは!?」
息を呑んで跳ね起きるように現実へと戻る。
彼もまた、触れた指を弾かれたように止め、琥珀色の瞳を恐ろしいほど激しく揺らしていた。
(この人も……今、私と同じものを見たの……!?)
心臓が破裂しそうなほど騒がしい。指先に残る彼の熱が、痺れるように疼いている。
彼も息を荒げ、何かを耐え忍ぶように拳を固く握りしめていた。
このまま離れたくない。行ってほしくない。名前も知らないはずなのに、魂が彼を求めて叫んでいる。
「あの……!」
震える声を振り絞る。詩織は自分の服の裾を強く握りしめた。
「お名前、聞いてもいいですか……?」
唐突すぎる問いかけに、彼は一瞬だけ驚いたように瞬きをした。
そして、愛おしいものを慈しむような、極上の笑みを浮かべて答えた。
「天ヶ瀬涼です」
その名前が鼓膜を揺らした瞬間──頭の奥で、何かがパチンと弾けた。
雨に濡れる石畳。
崩れ落ちた白い城壁。
自分を抱きしめる大きな手。
──リオン。
そんな愛おしい声が、自分の喉から漏れそうになるのを必死で押し殺す。
理由なんてわからない。ただその名前の響きが、涙腺の奥にじんわりと沁み込んできた。
「……わたし、雪村詩織といいます」
名乗った声は、情けないほど震えていた。
涼はその名前を確かめるように、噛みしめるように小さく深く頷いた。
「詩織さん、か」
名前を呼ばれただけなのに、全身の皮膚が痺れた。
彼の呼び方には、かすかな震えが混ざっていた。
懐かしさとも、深い痛みともつかない切ない響き──まるで、何千年も探し続けていた宝物の名前を、ようやく口にできた人のような声だった。
「じゃあ、私はこれで」
涼が軒先を出て、小降りになった雨の中へと歩き出す。
「あの……!」
咄嗟に呼び止めた声に、彼が振り返る。
詩織は何を言いたかったのか、自分でもわからなかった。連絡先を聞く勇気も出ない。ただ、このまま彼が去ってしまったら、二度と会えない気がして怖かったのだ。
立ち尽くす詩織を、涼はしばらくの間、甘く切ない瞳で見つめていた。
顔立ちに宿る琥珀色の瞳が、夜の濡れた光を受けて切なく光る。
そして、ふっと柔らかく目を細めた。
「――また、会えますよ」
その言葉は、まるで“絶対に離さない”という確信に満ちた、強い約束のように聞こえた。
彼の背中が夜の雨の中に消えていくまで、詩織は軒先から一歩も動くことができなかった。
肩にはまだ、彼のコートの温もりと石鹸の香りが残っている気がして、そっと自分の身体を抱きしめる。
(どうしよう……名前しか知らないのに)
もう一度会いたい。触れたい。あの腕の中に抱きしめられたい。
ずっと昔から彼だけを探していたような不思議な感覚が、雨上がりの空気の中にどこまでも残っていた。




