第1話:画面越しの熱量と、狂い始める日常
昼休みのカフェテリアは、いつも通り賑やかだった。
大きなガラス窓から差し込む午後の光がテーブルを温かく照らし、目の前に置かれたグラスの中で、アイスティーの氷がからりと涼しい音を立てる。
どこにでもある平穏な昼下がり。
けれど、その氷の触れ合う乾いた音が、なぜか今日の詩織の胸の奥には、冷たい刃物のように鋭く突き刺さった。
今朝見た夢の余韻が、未だに身体の奥底に重く沈殿している。
(……リオン)
あの炎と血の匂い。死の淵で自分の指の隙間に割り込んできた、激しく震える大きな手の熱。
目覚めてから数時間が経った今でも、左手の手首に刻まれた三日月型の痣が、まるで火傷でもしたかのように熱く疼いていた。
「詩織、聞いてる? これ、今SNSでめちゃくちゃ話題になってるやつ!」
弾けたような明るい声とともに、向かいに座る同僚の莉子がスマートフォンを突き出してきた。
夢の残像から強引に引き戻された詩織は、まばたきを繰り返しながら画面に目をやる。
画面に躍っていたのは、繊細かつ重厚なタッチで描かれた一枚の美しいイラストだった。
崩れ落ちた石畳。夕暮れの茜色に染まる崩壊した城塞。そして──その中央で、こちらを射抜くような強い眼差しで立つ金色の瞳の青年。
タイトルロゴは『黄昏の聖女』。
「乙女ゲーム? 珍しいね、莉子がこういうアプリ薦めてくるなんて」
詩織は動悸を悟られないよう、できるだけ声を平坦に保って尋ねた。莉子は普段、パズルゲームやカジュアルな育成ゲームしかやらないはずだった。
「違うんだよ詩織、これただの恋愛ゲームじゃないの。ストーリーが本格的すぎるっていうか……とにかく演出がヤバくてバズってるの。だってね、攻略対象と結ばれても──」
莉子がふっと声を落とした瞬間、周囲のカフェテリアの賑やかな喧騒が、まるで水中に沈められたかのように遠ざかった。
「……主人公、絶対に死ぬの。しかも毎回、攻略対象の腕の中で」
カチャン、と大きな音がした。
詩織の手から落ちたフォークが、パスタの皿に当たって乾いた音を立てたのだ。
「……え?」
指先が急速に冷えていく。血の気が引き、視界が一瞬ぐらりと揺れた。
「でもね、それがめちゃくちゃ泣けるの! 『来世でも、俺はお前を必ず見つける』って男主人公に抱きしめられて、血まみれで死んでいくシーンがネットで神演出だってバズっててさ。……詩織? 顔真っ青だけど大丈夫?」
『来世でも、俺はお前を必ず見つける──』
莉子の口から飛び出したその言葉が、詩織の胸の真ん中を深く貫いた。
(夢の中で……血まみれの私が息絶える瞬間、あの人が泣きながら叫んでいた言葉と、まったく同じ……)
ドクン、と心臓が跳ね上がる。
耳の奥で、カラスの鳴き声のような不快な警鐘が鳴り響く。呼吸が浅くなり、指先がじんと熱く痺れ始めた。
(夢で……何度も私が、あの人に言っていた言葉と同じ……)
偶然? 単なる流行りのゲームのセリフ?
そんなはずがない。胸の奥を焼き尽くすようなこの強烈な苦しさと愛おしさは、ただの偶然で説明がつくものではなかった。
「あ……うん、ごめん。ちょっと急に立ちくらみがしただけ。……ねえ、そのゲームの開発者って、誰なの?」
必死で震える声を抑えながら問いかける。
莉子はスマホを操作し、公式サイトの概要欄を開いて見せた。
「名前は……天ヶ瀬涼。インタビューも顔写真も一切なし。理由を語らない謎の新鋭クリエイターだって」
天ヶ瀬、涼。
その名前が耳から脳へと届いた瞬間、胸の奥がぎゅっと、引きちぎられるような痛みで締めつけられた。
会ったことも、聞いたこともないはずの名前。
それなのに、どうしてこんなにも息が苦しくなるのだろう。ずっと昔から、命を削って探し続けていた存在に、突然出くわしてしまったかのような恐怖と歓喜。
「詩織、プロローグだけでもやってみなよ。無料版あるし、すぐ終わるから」
莉子に促されるまま、詩織は自分のスマホを取り出し、吸い寄せられるようにそのアプリをダウンロードしていた。
黒い画面の中央で、ダウンロードのプログレスバーが伸びていく。
その数分間、詩織の心臓はうるさいほど激しく肋骨を叩き続けていた。
『インストールが完了しました』
画面をタップすると、アプリが起動する。
静かな、けれどどこか絶望を孕んだピアノの美しい旋律がスピーカーから流れ出した。
タイトル画面──アプリのトップページに広がっていたのは、まさに今朝、詩織が夢で見た「あの惨劇の跡地」そのものだった。
燃えさかる城。赤と灰の空。
知らない景色のはずなのに、皮膚が灼熱の熱気と血の匂いを記憶している。
息ができない。胸の奥が、そっと、激しく疼く。
詩織の手が震えていた。画面の下部に表示された『はじめから』という赤いボタン。
それに触れた瞬間──。
パチ、と小さな放電のような音が聞こえた気がした。
画面が不自然に激しくフラッシュし、暗転する。
スマートフォンから発せられたとは思えないほど濃厚な「冷気」が、画面のガラス越しに詩織の指先へと流れ込んできた。
(っえ……なに……!?)
スマホが熱いのではない。冷たいのだ。まるで氷の塊を握らされているかのように、指先の感覚が麻痺していく。
周囲のカフェテリアの景色が重く歪み、莉子の「詩織?」という声が、はるか遠くの異次元から聞こえるかのように遠ざかっていく。
暗転した画面の奥から、焼けるような夕日を背にした青年が浮かび上がった。
画面いっぱいに映し出される、金色の瞳。
琥珀色の光を宿したその双眸が、グラフィックの領域を超えて、まっ直ぐに──画面の外にいる詩織自身を射抜いていた。
次の瞬間、スピーカーからではなく、詩織の「頭の中」に直接、低く切ない声が響き渡った。
『──やっと、見つけた』
「っ!!」
呼吸が完全に止まった。
胸の奥が焼けるように熱くなり、涙腺の奥がじんわりと疼く。
画面越しであるはずなのに、そこに“本物の彼”がいる感覚が凄まじいリアリティをもって迫ってくる。触れたら彼の体温を感じられそうで──伸ばした指で、画面の中の彼の美しい輪郭を撫でまわしたいという強烈な衝動に駆られた。
(どうして……? これ、ただのゲームじゃない……! まるで、私がここにいることを分かっていて話しかけてる……!?)
ゾクゾクとした恐怖と、それを遥かに上回る狂おしいほどの愛おしさが全身の血液を駆け巡る。
指先から侵入してきた冷気が腕を伝い、心臓へと達しようとしたその時──詩織は逃げるように、弾かれた手でスマートフォンを伏せた。
「はぁっ、はぁっ……!」
机の上に伏せられたスマホ。詩織の肩は激しく上下していた。
「詩織!? ちょっと、本当に顔色ヤバいよ!? 救急車呼ぶ!?」
莉子が立ち上がり、心配そうに詩織の肩を揺さぶる。
その体温に触れて、ようやく現実世界の感覚が少しだけ戻ってきた。
「だ、大丈夫……! 大丈夫だから……ちょっと、風邪気味みたい。ごめん莉子、今日少し早退するね」
「え、うん……無理しないでね?」
荷物を掴み、逃げるようにカフェテリアを飛び出した。
◇
その夜。
詩織は部屋の電気もつけず、ベッドの上で丸くなっていた。
机の上に置かれたスマートフォン。その画面は暗いままだったが、いつあの金色の瞳が浮き上がってくるかと思うと、怖くて触れることができなかった。
けれど、頭から離れない。
あの声。『やっと、見つけた』という、切なく掠れた低い響き。
そして、画面越しに伝わってきた、あの異常な「冷気」と「気配」。
(天ヶ瀬涼……。あのゲームを作った人は、一体何を知っているの……?)
疲れ果てて目を閉じると、吸い込まれるように深い闇へと落ちて行った。
その夜見たら夢は、いつもと違っていた。
これまでは遠くから見ているだけだった惨劇の景色の中──詩織は、リオンの腕の中にいた。
「シオン……! 逃げろ……! あいつに……あの男に近づくな……ッ!」
血を吐きながら、自分を強く抱きしめるリオン。
彼の熱い息遣いが、首筋にハッキリと感じられる。夢なのに、抱きしめられている肋骨の痛みが本物のように身体を圧迫していた。
「リオン……あいつって、誰……!?」
叫ぼうとした瞬間、リオンの瞳が悲しく揺れ、彼の唇が詩織の耳元に寄せられた。
「……待っていてくれ、シオン。今度こそ……俺が、お前を連れ戻す」
愛おしさと、激しい執着を孕んだ低音。
その声が耳穴を塞ぐように響いた瞬間、詩織の全身を、あの画面越しに感じた「熱」が貫いた。
(リオン……! リオンっ!!)
叫びながら跳ね起きた時には、窓の外は冷たい雨が降り始めていた。
シーツを握りしめる詩織の手首で、三日月型の痣が、まるで意志を持っているかのように、妖しく赤く明滅していた。




