序章
雨だった。
……いや、違う。視界を濡らし、頬を温かく伝い落ちていくそれは雨などではない。
私をその腕に抱きかかえて離さない、彼の涙だった。
視界の端で、崩れ落ちた石畳の隙間から白い煙が細く立ち上っている。
かつて白亜と謳われた城壁は無残に焼き落ち、その向こうに広がる空は夕焼けでも夜明けでもない。赤と灰が濁り交じり、世界の終わりを塗り潰したような惨憺たる色をしていた。
燃え盛る木々が弾けるパチパチという高い音。遠くで崩落する瓦礫の重い轟音。
かつてこの戦場を埋め尽くしていた、金属と金属が激しくぶつかり合う凄絶な音は、もうどこにも聞こえない。
残っているのは──私の体を折れんばかりの力で抱きしめる、彼の荒い息遣いだけ。
「……逝くな……頼む、シオン……ッ!」
耳元で、破裂しそうなほど切迫した声が落ちてくる。
いつも冷静沈着で、何があっても凛と前を見据えていた彼が。
王国最強の騎士として、私をいつでも優しく守ってくれていたリオンが。
こんなにもボロボロに崩れ落ち、子どものように泣きじゃくる姿なんて──私は、初めて見た。
(ああ……泣かないで、リオン……)
声をかけようとした。けれど、声帯は固く凍りついたようにピクリとも動かない。
胸の真ん中に深く突き立てられた冷たい鉄の感触。そこから溢れ出る熱い血が、私のドレスを、そして彼の衣服を濃く赤く染め上げていく。
ドクン、ドクンと、脈打つごとに命が指先からこぼれ落ちていくのがわかる。
指先の感覚が麻痺し、視界が急速に白く霞んでいく。全身の体温が、まるで氷水に浸されたかのようにすっと抜けていく絶望的な冷たさ。
けれど──私を抱きしめる彼の腕の温もりだけは、皮膚を焼くほどに痛く、鮮明だった。
「逝くな……! 俺を一人にするな! お前がいない世界で、俺にどうやって生きろと言うんだ……! シオンっ!!」
彼の大きな手が、力無く垂れ降下りかけた私の左手を強い力で包み込む。
力強い指が、私の指の隙間に割り込むように固く絡められる。
冷え切っていく私の指先に、彼の熱い体液と、激しい体温がじんわりと染み込んできた。
死の恐怖は、不思議となかった。
胸を貫く痛みに苦しいはずなのに、彼の胸の中に抱かれているだけで、胸の奥が満たされていくような深い安息を感じていた。
こんなにも強く私を買い求め、こんなにも愛おしそうに抱きしめられて逝けるのなら──。
「ねえ……リオン……」
奇跡的に、かすれた声が吐息となって唇から漏れた。
リオンが息をのむ気配がした。涙で濡れた金色の瞳が、琥珀色の光を激しく揺らしながら、私の顔を覗き込んでくる。
「シオン! 話すな、喋らなくていい……! 今、治療術師を……!」
「ううん……聞いて……」
重い鉛をぶら下げられたかのように、まぶたがどんどん落ちてくる。
私は残された魂の最後の滴を振り絞るようにして、彼の美しい顔を見つめた。
「生まれ変わっても……」
「……シオン……?」
「きっとまた……あなたを……好きになるわ……」
それが、シオンとしての私の、最期の言葉だった。
腕の中で、私の体からすっと重力が抜けていく。
最後に耳に届いたのは、世界の終わりを嘆くような、リオンの引き裂かれた叫び声だった。
「来世でも……! 何度生まれ変わっても、俺はお前を必ず見つける……ッ!! シオンーーーーーーーッ!!!」
◇
「……っはあぁっ!?」
勢いよく飛び起きると同時に、肺いっぱいに酸素を吸い込んだ。
心臓が破裂しそうなほど暴れ狂い、肋骨を内側から激しく叩きつけている。
「はぁ、っ……はぁっ……!」
汗ばんだ前髪が額に貼りついている。
そこは崩れた城壁でも、血の匂いが漂う戦場でもなかった。
聞き慣れた目覚まし時計の電子音が規則正しく響く、私の、6畳一間の自室。
「夢……また、あの夢……」
ベッドの上に座り込んだまま、震える指先で自分の胸元に触れる。
当然、刃物で刺された傷などどこにもない。
けれど、胸の奥には確かに、焼けるような熱さと、締めつけられるような切ない痛みが残っていた。
そして、頬を撫でると──私の手首は、涙でぐっしょりと濡れていた。
目覚めたあとも、決して消えることのない涙。
冷えていく指先に残っていた、あの人の大きな手の感触と、泣き叫ぶ声が、耳の奥でいつまでもリフレインしている。
「リオン……」
会ったこともないはずの男の名前を、私は無意識に呟いていた。
手首に刻まれた、生まれつきの三日月型の小さな痣。
それを撫でながら、私は大きく息を吐き出す。
この夢を何度も見るようになってから、どれくらいの月日が流れただろう。
名前も知らないあの人の温もりと、胸を刺すような愛おしさを抱えたまま、私は今日もまた、現実という名の朝を迎える。
──だけど、この時の私はまだ知らなかった。
この切ない夢が、単なる幻などではなく、
私と“彼”の運命を再び狂わせる、恐ろしいゲームの幕開けに過ぎないことを。




