第10話 :嵐の前の濃密と、目覚める誇り
手首の痣から放たれた青白く澄んだ光が収まると、部屋を包んでいた刺すような冷気と苦悶の痛みが嘘のように引いていった。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
詩織は乱れた息を整えながら、リオンの胸元に顔をうずめた。
正装の上着を脱ぎ捨てたリオンの薄いシャツ越しに伝わってくるのは、やけどしそうなほどの熱い体温と、狂おしいほど激しく跳ね上がる心臓の音。
「……シオン。気分はどうですか? 痛むところは……気分が悪かったりはしませんか!?」
リオンは詩織の華奢な肩を力強く抱きかかえ、まるで壊れものを愛でるような切ない手つきで、彼女の頬や額、髪に何度も何度も熱い唇を押し当ててくる。
彼の金色の瞳は、前世で詩織を失ったあの日の地獄を思い出しているのか、激しい恐怖と愛おしさで湿り気を帯びて震えていた。
「大丈夫です……リオン。痛みは、もう消えました。……あなたが抱きしめてくれたおかげです」
「……よかった……。本当に、よかった……っ」
安堵の深い溜息とともに、リオンは詩織の首筋に深く顔を埋め、身を小さくするようにして彼女の体にすがりついた。
普段は王国最強の騎士として、現代では冷静沈着な大人の男性として立ち振る舞う彼が、詩織の前でだけ見せる無防備で激しい依存。
(この人は……こんなにも私を失うことを恐れている……)
詩織の胸がキュッと締め付けられる。
リオンの大きな手が、詩織の服越しに腰を包み込み、引きちぎらんばかりの力で自分の方へと引き寄せる。
「約束してください、シオン。……一人で戦おうとしないでください。聖女の力を思い出そうとして、自分の身体を傷つけるような真似は……俺が絶対に許しません」
「リオン……」
「俺の使命は、きみを守ることです。歴史を変えるためだとしても、きみが苦しむ姿を見るくらいなら……俺は何度だってこの身を盾にしてあいつの刃を受け止める」
耳元で響く、切実で甘い嫉妬を含んだ制約。
詩織はリオンの頭に優しく手を回し、その柔らかい髪を指先で丁寧に撫で上げた。
「ダメです……そんな捨て身な言い方は。あなたを守るために、私は聖女の力を取り戻したいんです。前世の私は……ただの少女だった私をあなたが『聖女』として引き上げてくれたのに、守られるだけで、あなたの背中を遠くから見ていることしかできなかった……」
「シオン……」
「でも、今の私は天ヶ瀬涼の恋人としての記憶も持っています。不安な夜も、現代で二人で過ごした温かい日々も覚えている。だから……今度は守られるだけじゃなくて、あなたの隣で、一緒に歩みたいんです」
詩織の凛とした瞳に見つめられ、リオンは息をのんだ。
彼の中に眠っていた「守るべき儚い存在」としてのシオンが、いまや自分と対等に運命に立ち向かおうとする「愛する伴侶」として輝いている。
その成長と美しさに、リオンの胸の奥で激しい愛おしさが爆発するように跳ね上がった。
「……きみは……どうしてそんなに強くて、美しいんだ……」
耐えかねたように、リオンの大きな手が詩織の顎を優しくすくい上げた。
「ん……っ!?」
ベッドの上に押し倒されるようにして重なる体温。
リオンの唇が、詩織の唇を容赦なく塞ぐ。
深く、熱く、舌先が絡み合うたびに詩織の頭の中が真っ白に染まっていく。
正装を乱し、肌へ直接触れる彼の大きな手が、詩織の背筋を撫であげ、腰を抱きすくめる。彼の熱い肌の温もりが、詩織の全身の感覚を甘く痺れさせていく。
「んっ……ぁ……リオン……っ」
「シオン……俺の愛する聖女……。きみの心も、身体も……俺のものだと言ってください。俺以外の男に……絶対に触れさせないと誓ってください……」
甘く強烈な過保護なまでの独占欲。
詩織は熱い吐息を漏らしながら、彼の首に強く腕を回してその口づけに応えた。
「誓います……。私のすべては……最初から最後まで、あなたのものです……リオン……」
二人の鼓動が重なり合い、深く結ばれ合う夜。
詩織の体内で眠っていた『聖女の力』が、リオンの熱い愛に導かれるようにして、静かに、けれど確実に目覚めの胎動を始めていた──。
◇
翌朝。
城の回廊には、どこか異様な不穏さが漂っていた。
本来なら数ヶ月後に起きるはずだった「惨劇の夜」──だが、歴史の歯車は、リシェインの歪んだ執着によって急速に狂い始めていたのだ。
「シオン、俺の側を離れないでください」
銀の甲冑を身に纏ったリオンは、一歩先を歩きながら、詩織の手を片時も離そうとしない。
指を深く絡め合わせ、周囲の兵士たちの視線など意にも介さず、詩織の身体を自分の引き締まった体で完璧に庇うようにして歩いていく。
その時──。
「報告いたします、リオン殿下!」
急報を携えた騎士が息を切らせて駆け込んできた。
「城の地下回廊から大聖堂にかけての防衛結界が、何者かによって打ち破られました! 城の結界の源である大聖堂が侵食され……城の周囲に無数の黒い影が迫っております!」
「なんだと……ッ!?」
リオンの金色の瞳が鋭く光る。
歴史が早まっている。
前世では、国の滅亡の直前に破られたはずの大聖堂の結界が、すでにリシェインの手によって破られてしまったのだ。
シオンがかつて祈りを捧げ、城全体を守っていた聖なる結界。
それを破壊することで、リシェインは城内に混乱を引き起こし、シオンを奪い去ろうとしているのだ。
「フフ……ハハハ……!」
回廊全体に、どこからともなく冷たい嘲笑が響き渡る。
壁の影がドロリと黒く蠢き、漆黒の剣を携えたリシェインの幻影が空中に浮かび上がった。
「準備は整ったよ、兄上。……本来の歴史などどうでもいい。今夜、この城を血と闇で染め上げ……シオンを私のものにする」
「リシェイン……ッ!!」
リオンが剣を抜き放つが、リシェインの影は嘲笑を残して黒い霧となって霧散した。
「今夜……惨劇が起きる……!」
詩織は自分の手首を強く握りしめた。
痣からは、すでに死のトラウマを撥ね退けるかのような、温かく力強い聖なる光が溢れ出していた。
運命の夜が、刻一刻と迫っていた──。




