31 突破口
五日目。
順調なら、今日中には西の僻地へ辿り着く。
リュートたちが待つ、あの乾いた土地へ。
それでも、帰還を前にした安堵は二人の胸にはなかった。
空は朝から厚い雲に覆われ、小雨が林を静かに濡らしている。
枝先から落ちる雫が葉を打ち、湿った土が雨を吸い込む匂いを漂わせていた。
冷えた風が木々を揺らすたび、雨粒が肩へ落ちる。その冷たさが、張り詰めた神経をさらに研ぎ澄ませていく。
二人は馬をゆっくりと進めた。
言葉はほとんど交わさない。
今日が、この逃避行で最も危険な一日になることを、互いによく理解していたからだ。
林を抜ければ平原が広がる。身を隠す木も岩もない。
遠くまで見渡せるその土地は、騎馬を展開するにはあまりにも都合がいい。
待ち伏せするなら、あそこしかない。
だからこそ、視線は絶えず林の外を探り、耳は風に混じるわずかな音を拾い続けていた。
馬は急がせない。途中で何度も歩みを止め、息を整えさせる。脚を確かめ、水を飲ませる。速く着くことに意味はない。
本当に必要なのは、最後の一走りを残しておくことだった。
ティスは木々の隙間から空を見上げた。
灰色の雲が低く垂れ込めている。雨脚は弱い。
だが、その分だけ景色は霞み、見通しは確実に悪くなっていた。
追う者にも。逃げる者にも。同じ条件だった。
しばらく進んだところで、カーフがぽつりと口を開く。
「……夜まで待って抜けるか。」
ティスはすぐには答えなかった。
夜なら見つかる可能性は下がる。暗闇は平原でさえ視界を奪う。
だが、その恩恵を受けるのは追われる側だけではない。
「抜けるだけなら、夜の方が可能性はあると思う。」
静かに答える。
「でも、追われたら私たちの方が不利になるわ。」
カーフが目だけで続きを促す。
「騎士は夜でも馬を走らせられる。でも私たちは違う。」
暗闇では地形が読めない。速度も出せない。一度でも馬が躓けば、それで終わる。
「かなり分の悪い賭けになると思う。」
雨音だけが返事の代わりに続いた。
やがてカーフがゆっくり頷く。
結局、昼でも夜でも危険は変わらない。違うのは、どちらの危険を選ぶかだけだった。
前を進んでいたカーフが、不意に片手を上げる。
ティスは反射的に手綱を引いた。
馬も空気を感じ取ったのか、小さく鼻を鳴らして足を止める。
雨音の向こう。林のさらに先。かすかに、何かが聞こえた。
ティスは息を潜め、耳を澄ます。
──馬だ。一頭ではない。複数。
しかも動いていない。金具が触れ合う、小さな金属音まで運ばれてきた。
ティスとカーフは視線を交わす。
どちらも口を開かない。
言葉など必要なかった。
平原へ出る、その手前。誰かが待っている。
それはもう、偶然ではあり得なかった。
ティスとカーフは少しだけ後方へ戻り馬を木陰へ繋ぐ。
そこから徒歩で林の縁へ近付く。
枝を踏まない。落ち葉を鳴らさない。呼吸すら押し殺しながら、ゆっくりと木々の隙間を覗き込む。
まずは敵の位置を知る。
それが先だった。
雨に煙る平原。その向こうに、騎馬が七騎。
ティスは目を細める。
その中の一人を見た瞬間、胸が冷たくなった。
――マルク家当主。
思わず息を止める。だが、不思議と恐怖だけではなかった。
姿が見えている。それだけでも、どこに潜んでいるか分からない敵よりは遥かにましだった。
しばらく様子を窺ったあと、二人は音もなく林の奥へ戻る。
ようやく息を吐いたカーフが、小さく舌打ちした。
「七騎か……」
腕を組み、木にもたれる。
「真正面から抜くのは無理だな。」
ティスも静かに頷いた。
数が多い。
しかも相手は騎士。力押しで突破できる相手ではない。
「数を減らせればいいんだけど。」
その呟きに、カーフが顔を上げる。
「一度見つかって、林へ引き込む。」
地面へ枝で線を描く。
「追わせてから回り込み、横を抜ける。これでどうだ?」
ティスはすぐに首を横へ振った。
「追ってくるのは二騎くらいだと思う。」
枝で描かれた線を指先でなぞる。
「そんな状況で飛び出しても、結局挟まれるわ。」
カーフは黙る。
ティスもカーフの案が悪いとは思っていない。
取れる選択肢が少ない中では有効に働く可能性はある。だが、決め手には欠けていた。
ティスは平原へ目を向けたまま考え続ける。
やがて、小さく呟いた。
「……狼煙は?」
カーフが眉を動かす。
「狼煙?」
「向こうは私たちを追ってるというより、西へ逃がしたくないんだと思う。だから、あの人たちは煙を上げる理由はない。」
一拍置く。
「でも、こっちが上げたら違う。」
カーフもその先を読んだ。
「援軍を…リアン様を呼んでると思わせるか。」
ティスは頷く。
本当に来る必要はない。相手がそう思い込めば、それでいい。
「相手は、煙のもとを必ず確認に来る。それなら、うまく分断できるかもしれん。」
カーフは短く呟き、それから静かに続けた。
「もしも敵が一騎なら、俺がやってみよう。」
ティスは思わず顔を向けた。
「え?」
「様子見に来るのが、一騎なら数を減らすべきだ。」
声は驚くほど静かだった。
「戻らなけりゃ、向こうも次の手を動かさざるをえない。」
その口調には、できるかどうかを迷う色がない。
ティスは黙り込んだ。
理屈は分かる。だが、前提が多すぎる。
「一人で来ること。」
指を一本立てる。
「戦って倒し切れること。」
もう一本。
「それで増援まで引き出せること。」
カーフは苦く笑った。
「やってみなきゃ分からん。」
その言葉に、ティスは小さく息を吐く。
視線が足元へ落ちた。
林の縁を這う蔦が目に入る。村で教わった縄の編み方が気を苦をよぎる。
ティスはしゃがみ込み、蔦を手に取る。
長さを確かめる。強度を見る。これなら使える。
「……罠を作ろう。」
カーフが視線だけを向けた。
「足を取るだけでいい。」
ティスは蔦を握り直す。
「一瞬でも止まれば、それで勝機は上がるわ。」
カーフは何も言わなかった。
ただ、小さく頷く。その返事だけで十分だった。
そこから先は、ほとんど言葉を交わさなかった。
カーフは狼煙の材料を集めるため、林の中を歩き回る。
湿った葉。朽ちかけた枝。苔を含んだ腐葉土。
乾きすぎれば炎ばかりが立ち、湿りすぎれば火が消える。その加減を見極めながら、必要なものだけを選び取っていく。
一方、ティスは蔦を編み続けていた。
一本を撚り、結び、また編む。単純な作業だった。
それでも指先はすぐ擦れ、泥が入り込み、手のひらは赤くなっていく。
止まれば余計なことを考えてしまう。だから手だけを動かし続けた。
やがて二人は合流し、林の中を歩きながら罠を仕掛けていく。
木々の間へ低く張った縄。
枝をしならせ、その先へ葉を束ねた落下罠。
どちらも粗末なものだった。
馬の脚を止める。視界を遮る。その一瞬を作るためだけの仕掛け。
本格的な罠には程遠い。
馬が止まる。視線が逸れる。呼吸が乱れる。その隙さえ生まれればいい。
準備を終える頃には、日はゆっくりと西へ傾き始めていた。
二人は林の陰で黒パンを割り、干し肉を口へ運ぶ。
ティスは何度も自分の手を見下ろした。
震えている。怖くないわけがない。
これまでは逃げるだけだった。
だが今回は違う。自分たちから仕掛ける。誘い込み、足を止め、場合によっては命を奪う。
その現実だけが、胃の奥へ重く沈んでいた。
食事を終えると、カーフが立ち上がる。
「始めるぞ。」
ティスは黙って頷いた。
火打石を打つ。火花が散る。
もう一度。さらに一度。
やがて小さな火が生まれ、湿った葉を被せる。
白い煙が、ゆっくりと空へ昇っていった。
二人はすぐ馬へ跨がり、林の中を大きく迂回する。
枝葉の隙間から覗けば、七騎の騎士がそのまま待機している。
まだ、狼煙には気が付いていないようであった。
風向きのせいか、煙は林の奥から自然に立ち上っているように見えた。
十分ほどが過ぎた。一人の騎士が煙へ気付き、林を指差す。
周囲の視線が一斉に集まる。短いやり取り。そして、一人だけが馬を下りた。
徒歩で林へ入ってくる。
ティスの背筋を冷たいものが走った。
──まずい。用意した罠は馬を想定したものだ。
縄も。枝葉も。徒歩の相手にはほとんど意味がない。
もし接敵すれば、あとは地力になる。
騎士は鎧をまとい、実戦を積んだ相手。
自分たちは逃げるための知恵を積み重ねてきただけだ。
正面から戦えば勝ち目はない。
だが、皮肉なことに。今この瞬間は、残った六騎の意識が林へ向いていた。
つまり──こちらから飛び出せば、自ら包囲の中へ飛び込むことになる。
沈黙が流れる。
どう動くのが正解か。その迷いを断ち切ったのは、カーフだった。
ティスへ一度だけ視線を向ける。
それだけで意図が伝わる。
徒歩で入ってきた騎士を迎え撃つ。
カーフは身を翻し、狼煙の方角へ静かに走り始めた。
狼煙を上げた場所へ辿り着いた頃には、すでに騎士がそこへ到達していた。
男は立ちのぼる煙を見上げながら、鋭い視線で周囲を探っている。
カーフはティスへ一度だけ視線を送り、小さく手を振った。
――ここで待て。
ティスは無言で頷き、木陰へ身を沈める。
一方、カーフは槌を片手に、騎士の背後へゆっくり回り込んでいく。
落ち葉を避ける。枝を踏まない。呼吸すら殺すように距離を詰める。
あと一歩。
その瞬間。湿った草が、小さく鳴った。
騎士が振り返る。
同時にカーフが踏み込んだ。槌が唸りを上げる。
だが騎士は半身だけでそれを躱し、その勢いのまま身を低く落として転がる。
反動で立ち上がると同時に剣を抜いた。
鎧を着ているとは思えない動きだった。
速い。無駄がない。
ティスは木陰から息を呑む。
騎士は間髪入れず踏み込む。
カーフも退かない。腰を捻り、横薙ぎに槌を振るう。
重い金属音が林へ響いた。
騎士は剣で受けた。
衝撃に押されながらも半歩踏み込み、体をひねって勢いを殺す。
そして、そのまま剣が振り下ろされる。
カーフは身体を逸らしたが、刃は肩口を掠め、布が裂ける。
そのまま転がり、立ち上がりながら槌を振り上げる。
狙いは剣を握る手。しかし、それも空を切った。
再び距離が開く。
互いに構えたまま動かない。
騎士の目が細くなる。
型が読めない。正規兵ではない。だからこそ、長引かせるべきではない。
そう判断したのだろう。
騎士は鋭く指笛を吹いた。
長く。短く。仲間への合図だった。
カーフの表情がわずかに変わる。もし援護が来れば、逃げることも戦うことも叶わないであろう。
その瞬間、乾いた破裂音が林へ轟いた。
ティスの単筒だった。
騎士の視線が反射的に音の方へ向く。
次の瞬間。頭上の枝が跳ね上がり、束ねられていた葉が一斉に降り注いだ。
林の視界が白く揺れる。
騎士は即座に飛び退いた。
銃声。頭上からの落下。さらに樹上にも伏兵がいる可能性。
一瞬で状況を組み立て、距離を取ったのだ。
「カーフ! 逃げるよ!」
叫びが林へ響く。
カーフは弾かれたように駆け出した。
木々を抜け、馬へ飛び乗る。ティスもすぐ後を追う。
二人は林の中を大きく迂回し、そのまま西側へ抜けた。
ちょうどその頃、指笛を聞いた増援の騎士たちが林へ踏み込もうとしていた。
だが二人は、その横をすり抜けるように飛び出す。
一瞬だけ生まれた空白。
その隙を逃さず、馬を全力で駆けさせた。
風が頬を叩く。ティスは振り返る。追ってくるのは二騎。
さらに林から引き返してくる騎士が二騎。
四騎。
本来なら七騎に追われていたはずだった。
命を懸けたやりとりで相手の数を半分に減らせれば、それは十分すぎる戦果だ。
ここを抜ければ、西は近い。
リュートたちの待つ土地へ帰れる。
だがティスは理解していた。
ここから先が、本当の最後だ。生き残るか。捕らえられるか。
その境界は、もう目の前まで迫っていた。




