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30 もう一つの顔

翌日、空はまだ白み始めたばかりだった。

厚い雲は消えず、林の中には夜の湿った冷気がそのまま残っている。

枝先から落ちる朝露。遠くで鳴く鳥の声。

そして、疲れた馬の小さな鼻息だけが静かな空間に響いていた。

カーフはゆっくりと目を開ける。

長く旅を続けてきた者特有の浅い眠りだった。

意識が完全に覚めるより先に、耳が周囲の気配を探る。

異常はない。

追手の気配も、馬の足音も、林を踏み分ける音も聞こえなかった。

その事実に、わずかだけ肩の力を抜く。

視線を横へ向けると、タープの下ではティスがまだ眠っていた。

毛布に包まり、小さく身体を丸めている。昨日は限界まで走った。張り詰め続けた緊張が、ようやく途切れたのだろう。


カーフは音を立てないよう立ち上がる。

落ち葉をどけ、湿っていない細枝だけを拾い集めた。

火打石を鳴らす。小さな火が生まれる。

夜明け直後なら、煙も朝霧へ紛れる。

今のうちに、温かい物を腹へ入れておきたかった。

革袋から干し肉を取り出し、薄く削いで鍋へ落とす。

乾燥豆。塩。香草。少量の水。

質素だが、旅慣れた者の朝食だった。

やがて湯気が立ち始める。

塩気と肉の匂いが、冷えた空気へゆっくり広がった。

その香りに誘われるように、ティスが小さく身じろぎする。

ゆっくり目を開けた。

「……いい匂い。」

寝起きの掠れた声だった。

カーフは振り返らず、小さく鼻を鳴らす。

「昨日、まともに食ってねぇからな。」

木の器へスープを注ぎ、差し出した。

「ありがとう。」

ティスは小さく礼を言って受け取る。


黒パンを浸し、一口運ぶ。

温かさが喉を落ちていくだけで、張り詰めていた身体が少しだけほどけた。

近くでは馬たちが静かに草を食んでいる。

疲労は濃い。それでも、今日も自分たちを運ばなければならない。

ティスは無意識に、その姿を目で追っていた。

しばらく無言の時間が流れる。

やがてカーフが口を開いた。

「今日の動き、もう一回確認するぞ。」

ティスは器を持ったまま頷く。


「林の外縁沿いを西へ進んで、追手の動きを確認する。」

「そうだ。」

短く返すと、火を小枝で崩しながら続けた。

「もし見つかったら、また林の中で追われる。その時はどうする。」

ティスは外套の内側へ手を入れ、煙玉を取り出した。

フォルドから渡されたものだ。

「これ。」

カーフが視線を向ける。

「林の中なら、煙だけでも時間は稼げると思う。」

さらにもう一つ取り出し、差し出した。

「分けて持って。どっちかが捕まっても、もう片方が逃げられるように。」

カーフは煙玉を受け取る。

そのまま、しばらく黙って眺めていた。


昨日までのティスなら、こんな言い方はしなかった。

守られる側だった少女が、少しずつ"逃げる側"の考え方を身につけ始めている。

その変化を、カーフも感じ取っていた。

「……一晩で、随分変わったな。」

ティスは器を両手で包み込み、小さく笑う。

「このスープのおかげかも。」

冗談とも本気ともつかない返事だった。

カーフも、わずかに口元を緩める。

ほんの一瞬だけ、空気が和らいだ。

だが、それも長くは続かない。

ここから先が、本当の勝負だった。

食事を終えると、二人はすぐに後始末へ移る。

火へ土をかけ、燃え残りを崩し、足跡も軽く均す。

痕跡は、できる限り残さない。


カーフの動きには一切の無駄がなかった。

タープを畳み、荷を馬へ括り付ける。

ティスも黙ってそれを手伝う。

旅程は四日目。

順調なら、あと一日か二日で西へ戻れる。

――順調なら。

ティスは馬の首筋をそっと撫でた。

温かい。生きている命の感触だった。

「……もう少しだけ、お願いね。」

小さく呟くと、馬は応えるように鼻を鳴らした。

やがて二人は馬へ跨がる。

朝靄の残る林の中。西を目指し、再び静かに歩き始めた。



林の外縁を辿りながら、ティスとカーフは慎重に馬を進めていた。

深く潜りすぎれば移動は遅くなる。かといって外へ寄りすぎれば、平原から姿を捉えられる。

二人は木々の密度と見通しを確かめながら、慎重に進路を選んでいく。

何度目かに林の外へ目を向けたティスは、小さく眉を寄せた。

草原を風が渡っているだけだった。

土煙もない。馬のいななきも聞こえない。追手の姿すら見当たらなかった。

静かすぎる。

そのことが、かえって不気味だった。

カーフも同じことを考えているのだろう。

普段より口数が少ない。

時折、馬を止めては地面へ目を落とし、踏み荒らされた跡がないか確かめていた。


やがて林の中へ小さな沢が現れる。幅は狭いが、水は澄んでいた。

「休ませよう。」

短く言うと、馬たちは待っていたように水辺へ寄り、勢いよく水を飲み始めた。

ティスも膝をつき、水を掬って口へ運ぶ。

冷たい水が喉を通り抜けた瞬間、自分が思っていた以上に消耗していたことを知る。


「……当たりだな。」

少し離れた場所で、カーフが呟く。

近付くと、低木には赤黒い実が鈴なりになっていた。

カーフは一粒潰して口へ放り込み、少し味わってから頷く。

「毒はねぇ。甘い方だ。」

ティスも恐る恐る口へ入れる。

疲れた身体へ、穏やかな甘さが染み渡った。

しばらく二人は無言で実を摘む。

逃亡の途中だということを忘れるほどではない。

それでも、このひと時だけは不思議なくらい穏やかだった。


やがてカーフは空になった革袋へ実を放り込み、水を少し加えて揉み始める。

「何してるの?」

「酒になるからな。」

あまりに自然な返事に、ティスは目を丸くした。

「そんなので作れるの?」

「立派なもんじゃねぇがな。それっぽくはなる。」

そう言って革袋を軽く揺する。

「西へ着いたら開けるか。」

ティスは笑った。

「祝杯?」

「……まあ、そんなとこだ。」

逃げ切れる保証などない。それでも、"着いた後"の話をする。

それだけで少しだけ気持ちが軽くなった。


ティスは木へ背を預けながら尋ねる。

「カーフって、何でも知ってるよね。」

「旅してりゃ嫌でも覚えることばかりだ。」

肩をすくめる。

「土地が変わりゃ食い物も違う。保存の仕方も違う。酒なんて特にそうだ。」

「豆や芋で酒を作る土地もあるって、本で読んだことがあるけど。知ってる?」

「ああ、あるな。」

カーフは笑う。

「ただ、飲めるのと美味いのは別だ。」

ティスは思わず吹き出した。

「土地が変われば、水も空気も違う。同じようにやっても、同じ物にはならねぇ。」

ティスは静かに頷いた。

書物の知識は正しい。けれど、それだけでは足りない。

土地には土地の理屈があり、現場には現場の答えがある。

今までも何度も思い知らされていた。

「さて、そろそろ行くぞ。」

二人は荷をまとめ、馬へ跨る。

沢のせせらぎを背に、再び西へ向かって歩き始めた。



気が付けば、空は茜色へ染まり始めていた。

あと数刻もすれば日が落ちる。

それでも、この一日。追手の姿はついに現れなかった。

平原を何度ものぞき込んだが、土煙は上がらず、人影も見えない。風が草を揺らし、鳥が空を横切るだけだった。

カーフは空を見上げ、日の傾きを確かめると、短く言った。

「今日はここまでだ。」

二人は昨日と同じように林の奥へ入る。

外から見通されず、それでいて、いざとなればすぐ動ける場所。

そんな場所を選ぶのも、旅慣れたカーフには当たり前のことだった。

木と木の間へ手際よくタープを張り、荷を降ろしていく。


今日は無理に馬を走らせていない。

そのおかげか、二頭の息遣いには昨日ほどの苦しさはなかった。

ティスは首筋を撫でながら、小さく息を吐く。

逃げ続けていたのは、自分たちだけではない。

この馬たちもまた、命を削るように走り続けてくれていた。

荷を整理し終えたカーフは、必要な道具だけを手の届く場所へ並べる。

少し早めに休む。

疲労を抜くためでもあるが、それだけではない。


明日どう動くか。西へ進むのか。南へ下るのか。それとも、もう一日様子を見るのか。

その判断を冷静に下せるだけの余裕を残しておくためだった。

夕食は、いつもと変わらない。

黒パンと干し肉。

火は焚かない。煙ひとつでも、自分たちの居場所を教えることになる。

ただ今日は、小川のほとりで摘んだ赤い実が残っていた。

ティスは黒パンへ添えて口へ運ぶ。

甘酸っぱさが乾いた口の中へ広がり、味気なかった食事に、ほんの少しだけ彩りを与えてくれた。

「……全然違うね。」

思わず漏れた言葉に、カーフが小さく笑う。

「旅ってのは、そういう小さい事で変わるもんだ。」

その一言が、不思議と胸へ残った。


温かい食事。少し甘い果実。柔らかい寝床。

ほんの些細な違いが、人の心を折れにくくする。

林の奥では虫が鳴き始めていた。

空はゆっくりと群青へ沈み、木々の輪郭も闇へ溶けていく。

木へ背を預けたままカーフが、ぽつりと問い掛ける。

「……この状況、どう見る。」

しばらく考えたあと、ティスは静かに口を開いた。

「追跡を諦めたんじゃないわ。」

少し間を置いて続ける。

「待ち伏せに切り替えたんだと思う。」

カーフが視線だけを向ける。

「根拠は?」

ティスは地面へ指を伸ばした。

「西へ帰るには、最後は街道へ戻るしかないから。」

指先が一本の線を描く。

西へ続く道。中央ほど整備されてはいない。

雨が降ればぬかるみ、荷馬車が立ち往生することもある。


それでも、西へ入るなら避けては通れない道だった。

その光景と重なるように、リュートと別れた日の記憶が浮かぶ。

あの時は父がいた。

迷っても。間違えても。最後にはオルティスが修正してくれる。

そんな安心が、確かにあった。

今は違う。

胸の奥が鈍く痛んだ。


ティスはその感情を押し込めるように続ける。

「相手は追跡と封鎖を分けて考えるはず。」

地面へもう一本、線を加える。

「一番困るのは、私たちが西へ帰ること。」

さらに枝分かれするように線を描く。

「次に困るのが、宿場へ紛れ込まれること。」

宿場には人が集まる。

商人。旅人。荷運び。一度紛れ込めば、少人数では探し出せない。

だから先に押さえる。


「……両方やるなら、一つの家じゃ足りねぇな。」

カーフが腕を組む。

ティスは小さく頷いた。

「だから今日は追跡をやめて、近くの宿場を押さえに向かったんだと思う。」

「それか、イース家を頼ったって可能性もあるな。」

「うん。」

素直に認める。

「でも、まだ私たちの行動範囲が読めるうちは、できるだけ功績を独占したいはず。」

マルク家からすれば、まだ完全に見失ったわけではない。

だからこそ、手柄を他家へ渡したくない。

そんな心理が働くとティスは考えていた。


しばらく黙っていたカーフが、小さく息を吐く。

「……つまり、明日はぶつかる可能性が高い。」

「避けられないと思う。」

短い沈黙が落ちた。

風が枝葉を揺らし、どこかで馬が小さく鼻を鳴らす。

カーフは地面へ描いた線をゆっくり手で消した。

「向こうも、こっちが西へ帰るなら、必ず通る場所はわかってるってことか。」

森を抜けた先には、長く草原が広がっている。

木も岩場も少なく、身を隠す場所はほとんどない。

道は自然と一本へ絞られ、騎馬を展開するにはこれ以上ない地形だった。

二人とも、その先に待っているものを思い描いていた。


「匂い球と煙玉。この二つを使って横を抜けるしかないと思う。」

煙で視界を奪い、匂いで馬を乱す。

その一瞬だけで包囲の隙間を抜ける。

戦うつもりはない。必要なのは勝利ではなく、生き延びることだった。

カーフは黙って煙玉を見つめていたが、やがて荷物の奥へ手を伸ばした。

布に包まれていた長物を静かに引き抜く。現れたのは、一振りの鉄槌だった。

ティスは思わず目を留める。

鍛冶仕事に使う槌だと思っていた。

しかし、どこか違う。柄は短く、片手で振り回しやすい長さに収められている。頭部は前へ重心が寄り、側面には無数の打痕が残っていた。

鉄床を叩いてできる傷ではない。

何かを――いや、誰かを打ってきたような痕だった。


カーフは油布で鉄槌をゆっくり拭い、そのまま柄を軽く握り直す。

その手つきには迷いがない。

何度も繰り返した者だけが持つ自然さだった。

ティスはようやく理解した。

この男は、旅に慣れているだけではない。

危険な土地を渡り歩き、必要なら武器を手に生き延びてきた人間なのだ。

野盗か、傭兵か。相手が何であれ、無傷では済まない世界を歩いてきたのだろう。

「護身用だ。」

視線を上げないまま、カーフがぽつりと言う。

ティスは静かに頷いた。

それ以上は聞かなかった。聞けば、きっと余計なものまで知ってしまう気がした。


カーフは鉄槌を手の届く場所へ置き、小さく息を吐く。

「明日は早い。もう寝ろ。」

いつもと変わらない声。けれど、その響きだけは少し違って聞こえた。

ティスが知っていたのは、鍛冶師としてのカーフだった。

鉄を語り、土地を知り、旅の知恵を惜しみなく教えてくれる男。

だが今、その奥にあるもう一つの顔が垣間見えた気がする。

もし追手に追いつかれたなら。自分を逃がすためにこの男は迷わず前へ出る。そんな確信にも似た予感が、静かに胸へ残った。

ティスは小さく息を吐き、毛布へ身体を沈める。

林は深い静寂に包まれていた。だが、その静けさの底では、確実に次の戦いが近づいていた。

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