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29 逃走

正面から現れた騎馬は六騎。

距離が詰まったところで、ティスとカーフは反射的に荷馬車を街道脇へ寄せた。

馬を落ち着かせる。興奮した騎馬とすれ違う時は、馬同士が暴れないよう距離を取る。それ自体は、ごく自然な行動だった。

ティスは手綱を握ったまま、息を呑む。

激しい蹄の音。鞍と金具がぶつかり合う硬い音。

六騎は速度を落とさないまま横を駆け抜けていく。

一瞬、風だけが強く揺れた。外套がはためき、馬の熱気だけが通り過ぎる。

だが――止まらない。

誰一人、こちらを見ない。そのまま西へ走り去っていく。


ティスはようやく小さく息を吐いた。

何事もない。

そう思いかけた、その時だった。

「……っ。」

再び、前方へ視線を向ける。

街道のさらに先。また土煙が上がっていた。

今度は数が少ない。

だが、先ほどより妙に嫌な気配がある。

理由は分からない。

それでも、このまま進めば危険だと、本能が警鐘を鳴らしていた。


ティスは声を潜める。

「……カーフ。荷馬車を捨てて、山側へ逃げた方がいい気がする。」

カーフはすぐには答えなかった。

前を見たまま、静かに状況を整理している。

やがて低い声が返る。

「まだ早い。」

「でも――」

「今の段階じゃ、俺達が疑われてるって断定できねぇ。」

その声は、ティスへ説明しているというより、自分自身へ言い聞かせているようだった。

「ここで逃げりゃ、『逃げる理由があります』って教えるようなもんだ。」


ティスは唇を噛む。理解はできる。

荷馬車を捨て、街道を外れて山へ向かう。そんな行動を取る商人はいない。

しかも、この辺りは開けた平原だった。山裾まではまだ距離があり、身を隠せる場所も少ない。

今飛び出せば、追手の格好の餌食になる。

カーフは続ける。

「遮蔽物もねぇ。荷馬車を捨てた瞬間、追われる側になる。」

ティスは無意識に懐へ触れた。

単筒。煙玉。魔晶石。逃げ切るための備え。

だが、それらは"疑われないため"の道具ではない。

本来分かっているはずだ。戦っても終わる。逃げても終わる。

だからこそ今は、"普通の商人"でい続けるしかなかった。


前方の土煙が少しずつ近付いてくる。

乾いた風が街道を抜け、草原を揺らす。

後ろでは、あの二人組の荷馬車が一定の距離を保ったまま続いていた。

ティスは、喉の奥へ重い緊張が沈んでいくのを感じていた。

その時だった。

カーフの目が細くなる。

「……三騎か」

ティスも目を凝らす。

近付いてくる騎影は三つ。

先ほどの六騎ほど速度は出していない。


だが――中央の一騎だけ、明らかに馬格が違った。

騎乗姿勢も妙に安定している。ただの下っ端の騎士ではない。

カーフの手綱を握る手へ、わずかに力がこもる。

空気が、また一段張り詰めた。

耐えきれなくなったように、ティスは一度だけ後ろを振り返る。

その瞬間だった。

先ほど横を駆け抜けていった騎馬隊。その一団が街道を離れ、左右へ散開していくのが見えた。

ティスの背筋が凍る。

――囲まれる。

思考が、一気に繋がった。

最初から、自分達が疑われていたのだ。


前方から近付く三騎。後方にいる二人組。そして、一度通り過ぎて左右へ散った騎馬隊。

これはうまく四方から挟み、街道を進む荷馬車の逃げ場を潰す布陣である。

その時、ようやく理由まで理解した。

なぜ最初の六騎は、真正面を塞がなかったのか。

正面から止めにかかれば、突破された瞬間に騎馬は減速と方向転換を強いられる。

だが、左右へ散開し、やや後方から追い立てておけば、そのまま追撃へ移れる。

そして何より、この場所だった。

宿場の手前。

人は到着を前に気が緩む。馬も疲れ始める。逃げる側の集中力が落ちる。

あまりにも、出来過ぎていた。

ティスは小さく舌打ちした。


父なら……オルティスなら、この配置を見た時点で、もう動いていたはずだ。

いや、こうなる前に動いていただろう。

だが今、自分の隣にいるのはカーフだった。

確かにこの男は経験豊富だ。だからこそ、まだ"可能性"として見ている。

ティスの直感だけでは足りない。

説明している時間もない。信頼関係も薄い。無理にでも、この男を動かすしかなかった。

ティスは懐へ手を入れる。

冷たい金属を掴み、抜き放つ。


そして、そのまま単筒をカーフへ向けた。

手は震えていた。声にも恐怖が滲む。

「……今すぐ街道を外れてもらうわ。」

カーフの視線が、ゆっくりと銃口へ落ちる。

ティスは続けた。

「今、死にたくなければ……ついてきて。」

数瞬の沈黙が流れる。

だが、カーフは怒らなかった。

反発もしない。

ただ静かに手を伸ばし、銃口を下へ押し下げた。

「分かった。従おう。」

低い声だった。

そして前を見据えたまま続ける。

「荷車を切り離すタイミングは、俺に任せてもらう。」

その声には、もう迷いはなかった。


正面の騎影までは、まだわずかに距離がある。

街道には、古く傷んだ石畳の区間があった。

片輪を取られやすく、荷馬車なら速度を落とす場所だ。

カーフはそこへ視線を据えたまま、静かに距離を測っている。

そして――破損箇所へ差しかかる直前。荷車を繋ぐ固定具を、一気に外した。

同時に二人は馬腹を蹴る。

荷車から解き放たれた馬は、一気に速度を上げ、そのまま街道を飛び出して平原へ駆け出した。


直後だった。激しい破砕音が響く。

ティスは反射的に振り返る。

切り離された荷車は慣性のまま傷んだ石畳へ乗り上げ、片輪を大きく跳ね上げた。

積み荷の重みに耐え切れず、そのまま大きく横転する。

木箱が砕ける。

布袋が裂ける。

乾燥香草が風に乗って舞い上がった。

さらに、その後方。

"商人"を名乗っていた二人組が、突然の事故に驚き、暴れ出した馬を必死に押さえ込んでいる。

横転した荷車が街道を塞ぎ、その場で完全に足を止められていた。


そして、そのさらに奥。

左右へ展開していた騎馬隊も、一瞬だけ動きを乱す。

想定外の動きだったことが分かる。彼らもあわてながら包囲網を敷こうと馬を走らせる。

一方で、ティスとカーフは、平原をひたすら駆けていた。

目指すのは、前方に見える林の中。

何としてでも、あそこへ辿り着かなければならない。

背後では土煙が広がっている。

宿場側から動き出した追手。さらに、一度街道を抜けていった騎馬隊も進路を変え、一直線にこちらへ向かってきていた。


ティスは歯を食いしばる。

改めて理解する。

騎士達は、自分達より遥かに馬の扱いに慣れている。

彼らはただ追ってくるわけではない。距離。地形。進路。全てを見ながら、逃走経路を削るように動いている。

左右へ広がりながら、じわじわと逃げ場を狭めてくる。

それでも、ティスの判断はぎりぎりで間に合っていた。

もし、あの瞬間に街道を飛び出していなければ、完全に包囲されていただろう。

だが、包囲は完成していない。

前方から来ていた騎馬も、後方から回り込んでいた騎馬も、タイミングを外されたことで先回りするには難しい状況であった。


半刻ほど駆け続けると、状況は単純になっていた。

平原を逃げる二騎。それを追う騎馬隊。それだけの一直線の形だった。

ティスは荒い呼吸を整えながら、背後を振り返る。

距離はまだある。だが、確実に縮まっていた。

追手の馬は騎士用の軍馬だ。長距離移動と追跡を前提に鍛えられている。

対して、自分達の馬は違う。つい先ほどまで荷馬車を引いていた馬だ。すでに疲労が蓄積している。

このまま走り続ければ、先に潰れるのはこちらだった。

ティスは懐へ触れた。

煙玉。

もし弓の射程まで踏み込まれれば、視界を遮って時間を稼ぐことはできる。

だが、それだけだ。

平原には遮蔽物がない。煙を抜けた後も、追う側は逃走方向を見失いにくい。


何より厄介なのは、今の状況があまりにも整理されていることだった。

位置関係が単純すぎる。だからこそ、追う側は迷わない。

逃げる側だけが、じわじわと追い詰められていく。

ティスは前を見据える。

林は確かに近付いている。

だが、まだ遠い。

逃げ切れる距離には見えなかった。

風が耳元を裂く。馬の息遣いは荒くなり、蹄が地面を叩く音が絶え間なく響く。

その背後では、複数の蹄音が少しずつ近付いていた。

馬をせかし、林へ向かう。

もう、それ以外に道はない。

そして追手も、それを理解している。だから無理はしない。焦らず、ただ距離を詰めればいい。

それだけで、逃げる側は勝手に追い込まれていくのだから。


その時だった。

逃走の先。平原の草丈が高くなった辺りに、人影が一つ立っているのが見えた。

ティスの心臓が跳ねる。

――待ち伏せ。

反射的にそう思った。が、もう馬は止められない。

減速すれば、後方の騎馬に追いつかれる。

かといって迂回すれば、林へ辿り着くまでの時間が延びる。

そして何より、あえて姿を見せていること自体が不自然だった。

視線を集めるためか。進路を誘導するためか。あるいは横へ逃がすためか。どれも十分にあり得た。


ティスは冷たい汗を流しながら、隣のカーフを見る。

突破する。

短い視線だけで意思を伝える。

カーフも小さく頷いた。

馬は速度を落とさない。そのまま一直線に駆ける。

距離が縮まる。

立つ人影が、少しずつ輪郭を持ち始めた。

外套。痩せた身体。力みのない立ち姿。

そして――顔が見えた瞬間、ティスは目を見開いた。

フォルドだ。

ロッカート家で、単筒と魔晶石の扱いを教えていた男。

接した時間は短い。それでも、あの男の異質さは強く記憶に残っていた。

獣のような目。汚れ仕事に慣れた空気。一切の無駄がない動き。


ティスは、理解する。

ハンスは最初から、この事態を想定していたのだ。

リュートから託されたティスを、非戦闘員だけで西へ返すはずがない。

必ず、見えないところに備えを置いている。そしてフォルドもまた、単なる教育係ではなかった。

すれ違いざま、ティスとカーフは同時に後方を振り返る。

追手は、もう近い。

すぐ後ろに二騎。さらにその後方に四騎。本来なら九騎いたはずだった。だが、三騎が見えない。


ティスは再び前を向く。

林が迫っていた。木々が増え始め、地面にも起伏が混ざる。

あと少し。

あそこへ入れば視界を切れる。

馬の息は荒い。もう限界が近い。長時間の走行で、疲労は隠しようがなかった。

それでも二人は、必死に馬を前へ進める。


後方から、激しい馬のいななきが響く。

何かが起きた。重い衝突音。怒号。だが、振り返る余裕はない。

枝葉をかき分け、馬ごと林へ飛び込む。

平原の景色は木々に遮られ、視界が暗く沈んだ。湿った土の匂い。折れた枝の音。馬の荒い呼吸。

後ろでは、なお怒号が響いている。だが、その音も次第に遠ざかっていった。

ティスは息を切らしながら、前だけを見据える。

まだ終わってはいない。それでも少なくとも――包囲だけは、突破した。



ティスとカーフは、林へ入ってからも何度も後ろを振り返っていた。

枝葉の揺れる音。馬の足音。風に紛れるわずかな気配。

少しでも異変を拾おうと神経を張り詰めながら、木々の間を進んでいく。

止まるわけにはいかなかった。

林の外縁では意味がない。もし追手に別働隊がいれば、浅い場所などすぐに見つかる。

木々が密集し、視界が完全に切れる場所まで入り込まなければならなかった。


ティスの脳裏には、先ほどの光景が焼き付いている。

フォルドが、自分たちを逃がした。

想定外だった。だが、隣を歩くカーフは妙に冷静だった。

「……フォルドは、目撃者を残しておかねぇだろうな。」

まるで当たり前のことのように言う。

ティスは思わず顔を向けた。

カーフは前を向いたまま続ける。

「ロッカート家の立場を悪くする真似はしねぇ。」

その意味を理解した瞬間、ティスの背筋を冷たいものが走った。

人を逃がすために、人が消える。証拠を残さないために、口を塞ぐ。

そんな世界が、本当に存在している。

しかも今、自分はその渦中にいた。


ティスは無意識に、自分の手を握り締める。

震えていた。

平原を駆けている間は、考える余裕などなかった。

だが今は違う。足を止めたことで、現実だけが鮮明になっていく。

カーフはそんなティスを横目で見ながら、周囲へ視線を巡らせた。

「今日はここで休む。」

低い声だった。

「木も深い。姿は隠しやすい。」

空は赤黒く染まり始めている。


本当なら、もっと奥まで進みたい。

だが完全に夜になれば、今度は野営の準備そのものが難しくなる。

馬も限界に近い。無理をすれば、明日走れなくなる。

ぎりぎりの判断だった。

カーフはすぐに動き始める。

馬を木へ繋ぎ、荷を下ろし、小さなタープを張る。

その動きに迷いはない。

旅慣れた者の手際だった。

さらにティスのために、布と草を重ねて簡易の寝床まで作っていく。

地面の湿気を避けるためだ。虫除けの意味もあった。


ティスも、自分にできることを探すように馬へ近付く。

水袋から水を飲ませ、汗で濡れた首筋を優しく撫でる。

馬たちも疲れ切っていた。それでも最後まで、自分たちを運び続けてくれた。

ティスは何も言わず、その額を撫で続ける。

何かをしている間だけ、恐怖を忘れられた。


やがて二人は、黒パンと干し肉だけの簡素な食事を口にした。

硬い。味気ない。それでも腹へ入れるしかない。

逃げ続けるには、体力が必要だった。

本来なら、獣避けに小さな火を焚きたいところだ。

だが今は無理だった。

煙も光も、自分たちの居場所を知らせてしまう。

追手が近くにいる可能性を考えれば、危険すぎる。


だから林の中には、夜の闇だけが静かに満ちていく。

風が枝を揺らす。遠くで獣が鳴いた。

湿った土の匂いが濃く漂う。

ティスは膝を抱えるように座り込み、暗く沈む森を見つめていた。

不意にカーフが口を開く。

「……嬢ちゃん。」

ティスは顔を上げた。

カーフは干し肉を噛みながら、淡々と言う。

「今日、お前が街道を飛び出さなかったら終わってた。」

ティスは目を瞬かせた。

カーフは続ける。

「俺は、あの段階じゃまだ疑い切れてなかった。」

悔しさも、言い訳もない。

ただ事実だけを口にしていた。

「だが、お前は気付いた。」

ティスはすぐには返せなかった。

恐怖で動いただけ。そう言いかけて、言葉を飲み込む。

違う。あの瞬間、自分は考えていた。

配置。動き。包囲。全てを繋げて、あの判断を下したのだ。


カーフは小さく息を吐く。

「噂に聞くオルティス様の娘だな。」

その言葉に、ティスの胸がわずかに熱くなった。

林の夜は深い。その暗闇の中で、ティスは静かに目を伏せる。

だが、カーフの表情はすぐに険しくなった。

「……とはいえ、このまま西へ向かうのは危険だ。」

経験から導き出した、冷静な判断だった。

「西へ向かっていることは割れてると考えるべきだ。なら、一度南へ逃げようか。」

ティスは黙って耳を傾ける。

カーフは地面へ枝で簡単な地図を描きながら続けた。

「山へ入り、二、三週間潜伏する。追う側もいつまでも兵は張り付けられねぇ。熱が冷めた頃を見計らって、西へ戻る。」

理にかなった提案だった。

生き延びることだけを考えるなら、その方がはるかに安全だった。


だが、ティスは小さく首を横へ振った。

「……逆だと思う。」

カーフの手が止まる。

ティスは言葉を選ぶように続けた。

「マルク家は、今すぐ成果が欲しい。」

オルティスを取り逃がした。

その失態を埋めるためにも、自分だけは捕らえなければならない。

「だから今は、まだ情報を広げていないはず。」

カーフが眉を寄せる。

ティスは膝の上で手を握り締めた。

「功績を他へ渡したくない。だから少人数だけで追ってる可能性が高い。」

功を焦る者ほど、情報は抱え込む。ティスはそう読んでいた。

「でも、時間が経てば変わる。捕まえられなかった時の責任が大きくなるからね。」

その時には、もう手柄争いでは済まない。

大規模な捜索隊が動く。

街道は封鎖され、宿場へ通達が飛び、山狩りも始まる。

逃げ道そのものが消えてしまう。

「今なら、まだ穴がある。」

小さな声だった。

だが、その言葉には確かな意思があった。


カーフはしばらく黙り込む。

風が木々を揺らし、遠くで小動物が草を駆ける音が響く。

やがて深く息を吐いた。

「全部、推測だ。」

少し硬い声だった。

「状況証拠を繋げてるだけで、確証はねぇ。」

否定ではない。命を懸けるには、まだ曖昧すぎる。そう言っているのだ。

ティスも、それは分かっていた。

「……うん。」

小さく頷く。

「だから明日は確認しましょう。」

ティスは顔を上げた。

暗闇の中でも、その瞳だけは真っ直ぐだった。

「林の外縁沿いを西へ進む。」

深く潜るのではなく、外の様子を見ながら移動する。

「もしそこで、大規模な捜索隊や街道封鎖の動きが見えたなら――その時は南へ下る。」

そこで一度言葉を切る。


そして静かに続けた。

「その場合は、そこで別れて……」

カーフの視線が鋭くなる。

「……お前だけ西へ行く気か。」

「巻き込みたくない。」

迷いのない即答だった。

これは逃亡だ。誰かが自分を庇えば、その誰かも狙われる。

フォルドがそうしたように。

ロッカート家が危険を背負ったように。

だから、これ以上犠牲を増やしたくなかった。


カーフはしばらく黙っていた。やがて、小さく鼻を鳴らす。

「……明日の様子次第だ。」

それだけだった。

賛成も、否定もしない。

現実だけを見て判断する男らしい返事だった。

ティスも、それ以上は何も言わなかった。

会話が途切れる。

林の夜気は冷たい。疲労は限界に近い。それでも眠気は訪れなかった。

耳を澄ませば、追手の足音が聞こえる気がする。枝が鳴るたび、誰かが近づいてくるように思えた。

それでも――その夜、追手が現れることはなかった。

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