28 不穏な形
西の地へ向かう旅、三日目の朝。
空はまだ白み始めたばかりだった。
窓の外には薄い霧が残り、宿場の輪郭をぼやけさせている。湿った朝の空気は冷たく、夜の気配をわずかに引きずっていた。
だが――リテイアへ向かった時のような切迫感はない。
日の出前に飛び出す必要もなく、二人は静かに支度を進めていた。
カーフは無言で馬を荷車へつなぎ直す。
革帯の張り具合を確かめ、蹄鉄を軽く叩き、脚に異常がないかを見ていく。
その動きに焦りはない。
旅慣れた行商人、そのものだった。
ティスは糧食をまとめる。
固い黒パン。塩気の強い魚の油漬け。
西側の街道では珍しくもない、保存性を重視した食事だった。
昨日、カーフから聞かされた言葉が脳裏をよぎる。
――つけられているかもしれない。
その一言は、まだ胸の奥へ重く沈んでいた。
水袋を締め直す。荷崩れしそうな縄を確かめる。馬具を見直す。
やるべきことへ意識を向けている間だけは、不安を押し込めることができた。
それはカーフも同じなのだろう。
表情は変わらない。
だが、必要以上に荷台を見回り、同じ箇所を何度も確かめている。
まだ問題は起きていない。
そう互いに言い聞かせるように、二人は黙々と準備を続けた。
やがて荷馬車を引き、宿場の門へ向かう。
朝の宿場は静かだった。
夜通し酒を飲んでいた者達はまだ眠り、代わりに旅人達がゆっくりと動き始めている。
遠くで馬が鼻を鳴らし、どこかで桶へ水を汲む音が響いていた。
その時だった。
「おや、あんたらも西か?」
不意に声が掛かる。
ティスは反射的に振り向いた。
二人組の男だった。
年は三十前後。
荷車を引いているが積み荷は少ない。服装も粗野ではあるものの、不自然というほどではない。
街道ではよく見かける行商人に見えた。
男達は気安い調子で続ける。
「俺達も西行きでな。一つ先の宿場まで同行できる相手を探してたんだ。」
ティスは一瞬だけ、カーフへ視線を向けた。
カーフはすぐには答えない。
本音を言えば、同行者など増やしたくはなかった。
誰かと行動を共にすれば、会話が必要になる。不用意な一言で、正体へ近付かれる危険もあった。
だが同時に、商人同士が助け合うこと自体は極めて自然なことでもある。
中央から離れるほど街道の治安は悪くなる。
車輪が割れる。馬が脚を痛める。
そんな時、近くに別の商隊がいるかどうかで、生死は大きく変わる。
だからこそ、同じ方向へ進む行商人同士が寄り合うことは珍しくなかった。
ここで露骨に断れば、かえって目立つ。
短い沈黙の後、カーフは穏やかに頷いた。
「俺達も同じだ。途中までなら構わねぇよ。」
男達は、ほっとしたように笑う。
「助かる。最近は物騒でな。」
「まったくだ。」
軽いやり取りを交わし、四人は並ぶように街道を進み始めた。
街道には、荷馬車の車輪が土を踏みしめる音だけが響く。
乾いた車輪の軋み。馬の鼻息。一定の間隔で続く蹄の音。
空は高く晴れている。
だが、その穏やかさとは裏腹に、空気は妙に張り詰めていた。
先を進むのはティス達の荷馬車。その後ろを、二人組の行商人が追従している。
横並びにならないだけ、まだましだった。
前後に距離があるおかげで、小声程度なら会話ができる。
ティスは手綱を握ったまま、小さく口を開いた。
「……厄介なことになったね。」
カーフは前を見たまま、低く返す。
「かなり、だな。」
昨夜よりも、明らかに警戒の度合いが増している。
「後ろの二人は、商人にしちゃ身体が出来すぎてる。」
ティスは小さく息を呑んだ。
確かに違和感はあった。荷を扱う商人にも力は必要だ。
だが、あの二人は少し違う。首の太さ。重心の低い歩き方。その立ち姿には、戦い慣れた者特有の癖があった。
カーフは短く続ける。
「昼に分かる。」
「昼?」
「手を見る。商人か兵かは、それで大体分かる。」
ティスはわずかに視線を落とした。
武器を扱う者の手。鍛冶をする者の手。馬を扱う者の手。
長年続けた仕事は、必ず身体へ痕跡を残す。
ティスは静かに頷いた。
今日が分岐点になる。二人とも、それを理解していた。
本来なら、この時点で西側へ連絡を入れられれば理想だった。
リュートへ。あるいは、エヒト家へ繋がる誰かへ。
西から迎えが来れば、一気に安全圏へ入れる。
だが、自分達には通信手段がない。
人を走らせるしかないこの世界では、情報の遅れがそのまま命取りになる。
ティスは、ふと《新月の目》のことを思い出した。
情報を扱う者達。秘密裏に連絡を通す仕組み。
もし――遠距離でも安全に情報をやり取りできる技術があれば。
政治も。軍事も。商業も。世界そのものが変わる。
逃走の最中だというのに、ティスの思考はそんな未来へ向かっていた。
やがて日が高くなり、一行は昼の休憩を取ることになった。
街道脇の草地へ荷馬車を止める。
馬達は疲れたように鼻を鳴らし、ゆっくりと首を下げた。
同行している二人組も少し離れた場所で馬を休ませ始める。
わざわざ一緒に食事を取る必要はない。
商人同士とはいえ、旅人は互いに適度な距離を保つものだった。
ティスは荷台から黒パンを取り出し、水袋の口を開けた。
その間、カーフは小さな布袋を一つ手に取る。
「様子を見てくる。」
短く言い残し、後方の荷馬車へ歩いていった。
ティスは何気ない顔を装いながら、その背を横目で追う。
カーフは二人組へ気軽に声を掛けた。やがて小さな笑い声が上がる。
どこにでもある商人同士のやり取りだった。
その流れのまま、カーフは自然な動きで布袋を差し出す。相手も気軽に受け取った。
少なくとも、遠目にはそう見えた。
やがてカーフは、何事もなかったように戻ってくる。
「……どうだった?」
ティスが小声で尋ねる。
カーフはすぐには答えなかった。
まず荷馬車を動かす。
何事もなかったように街道へ戻り、後方の二人組との距離を自然に保つ。
車輪が土を踏む音だけが、規則正しく響く。
それからようやく、カーフは低く口を開いた。
「手にマメがあった。」
ティスの視線がわずかに動く。
「好意的に見りゃ鍛冶職人の手だ。だが――」
そこで言葉を切り、小さく息を吐いた。
「槍か剣を握ってる手にも見える。少なくとも商人じゃねぇし、職人なら商人と噓をつく理由もねぇな。」
ティスは黙り込む。
胸の奥へ、冷たいものが沈んでいく。
「それに、荷車へ近付いた時の反応が妙だった。」
「あの二人?」
「ああ。」
カーフは前を見たまま続ける。
「商人同士なら、荷を見るのはそこまで不自然じゃねぇ。」
旅の途中ではよくあることだった。
何を積んでいるのか。どこの品なのか。いくらで売るつもりなのか。
そんな話は、商人達にとって自然な話題になる。
だが、あの二人は違った。
カーフが荷台へ視線を向けた瞬間――空気が張った。
拒絶したわけではない。だが見られたくないものを見られているような緊張感。それが伝わったのだ。
「同業の警戒じゃねぇ。……積み荷が空なのを見られたくねぇ、そんな感じだった。」
カーフは静かに言い切る。
ティスは視線を落とした。
頭の中で、最悪の形が組み上がっていく。
もし、本当にあの二人がマルク家の人間なら。
この同行そのものが監視目的になる。
西へ向かう商人へ接触し、ティスを探している可能性。
あるいは、次の宿場で待ち伏せが準備されている可能性。
だが、まだ状況証拠しかない。
オルティスなら、この段階では決して動かない。
ティスは、はやる気持ちを押さえ込んだ。
結局、現時点では相手もこちらの核心へ届いていないと考えるべきだ。
だからこそ、実力行使には踏み切ってこない。
それが今の状況だった。
さらに数刻進む。
街道は山裾を大きく回り込むように続いていた。
左手には緩やかな斜面。右手には乾いた草原。空は高く、風は乾いている。
見た目だけなら、穏やかな旅路だった。
そして――。
「……っ」
ティスが目を細める。
正面。
遠くの街道の先で、土煙が上がっていた。
馬が複数で駆けている時に生じる土煙だ。
カーフも同時にそれを視認する。
その瞬間、二人の間から、わずかな余裕が消えた。
後方には正体不明の二人組。
前方からは、高速で接近する何者か。
カーフは速度を変えない。
変えれば、それだけで不自然になる。
それでも、手綱を握る手にはわずかに力がこもっていた。
やがて土煙の向こうから、騎馬の影が見え始める。
一騎。二騎。いや――六騎だ。
ティスの喉が小さく鳴った。追手か。それとも、別の急報を運ぶ使者か。
答えは分からない。ただ、距離だけが急速に縮まっていく。
乾いた風が、街道を吹き抜けた。




