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27 静かな出立

ティスとカーフは、決して馬を急がせなかった。

速度を上げれば、その分だけ目立つ。休憩を削れば、余裕の無さが滲む。

二人は、どこまでも“普通の商人”を演じ続けていた。

街道を進み、昼は水場で馬を休ませ、夕刻には宿場へ入る。

積荷を確認し、簡単な食事を取り、宿で夜を越える。その全てが、ありふれた商人の日常だった。

誰の目にも、不自然には映らない。

だが同時に、それは大きな制約でもあった。

荷馬車では森へ逃げ込めない。細い獣道も通れない。ましてや、オルティスが見せたような、街道同士を森越しに繋ぐ攪乱も不可能だった。

つまり――行動範囲そのものが街道へ縛られる。

それでも、今はそれでいい。

リテイア側へ「まだ潜伏している可能性」を残すこと。それこそが最も重要だった。

そのため、ハンスは脱出方法まで変えたのである。

だから最初の数日は、徹底して普通でなければならない。


もっとも、その方法にも限界はある。

西の辺境は、中央ほど物流が盛んではない。大規模な商人が頻繁に行き交う土地でもない。

まして今の情勢で、西へ向かう商隊は目立つ。

何より、宿場そのものが巨大な情報網だった。

誰が来たか。どんな荷を積んでいたか。どこへ向かったか。不審と判断されれば、その情報はすぐにリテイアへ届く。

不審な動きと認識されれば、その時点で、追撃が始まる。

その予測は、ティスもハンスも一致していた。

全五日の旅程。気付かれるのは、おそらく三日目の夕刻前後。

通常の商人であれば、これ以上商圏のない西へは進まない。その時点で、不自然さがはっきりする。

そこから追撃隊が編成される。各宿場へ通達が飛び、不審者の足止めが始まる。本来なら、それだけで逃走は極めて困難だった。


だが、今回の計画には異なる要素が盛り込まれている。

リテイア家主催の狩猟会。その影響で、多くの騎士家当主や指揮権を持つ者達が中央へ集められている。

地方側の対応は鈍る。命令伝達も遅れる。即応性が落ちる。

だからこそ、この計画は速度次第で勝負になる。

三日目の深夜、荷馬車を捨て、以降は馬だけで移動する。

宿場も使わない。街道を外れ、森を抜け、平原を横切り、二日かけて辺境へ戻る。

仮に追撃隊が編成されたとしても、準備には時間がかかる。こちらの倍近い速度で、不休で追い続けてようやく追いつける計算だった。


そしてティスには、もう一つ確かな支えがあった。

懐へ触れる。

父が残した灰色の魔晶石――方位石。

魔力を流せば淡く光り、常に南を示す。

地図を失っても、夜になっても、現在地を見失わない。

その存在は、街道を離れた後でも大胆な進路を選ぶ余地を与えてくれる。

オルティスが残した備え。ハンス達が繋いだ逃走路。

これは思いつきの逃亡ではない。

最悪を想定し続けた末に組み上げられた、限りなく確実な生存のための道だった。


ティスは前を見る。

そこまで練り上げられた計画であっても、恐怖は消えない。

追われるかもしれない。

いや、それ以前に、自分の存在が知られた時、リテイアに残る父は無事で済むのだろうか。

その現実は、胸を締め付け続けていた。

それでも、自分は必ず帰り切らなければならない。

そのために今、自分は生かされているのだから。


カーフは、荷馬車を一定の速度で進め続けていた。

周囲に人の姿がない時には、なるべくティスへ話しかけるようにしている。

今でこそロッカート家付きの鍛冶師として腰を落ち着けているが、元々の彼は各地の工房を渡り歩く流れの技術屋だった。

武具を直し、農具を鍛え、時には鉱石を見極めながら土地から土地へ渡り歩く。

宿場の空気も、兵士の視線も、嫌というほど見てきた。

だから分かる。

――探している。

街道沿いへ立つ兵の数。宿場の間を走る伝令。休憩所へ長く居座る騎士崩れの男達。

表向きは平常を装っている。

だが、視線だけが違った。

何かを警戒し、誰かを探している。

そんな空気が、街道全体へ薄く張り付いていた。


途中、何度か荷馬車は止められた。

兵士達が荷を確認し、通行証を見て、行き先を尋ねる。

そのたびに、カーフは自然に答えた。

「西に香草を売りに行くんでな。辺境じゃいい薬になるし、湿気も強いから飯が傷みやすい。それに帰りに鉱石でも積めりゃ、ようやく儲けになる。」

声に淀みはない。それも当然だった。

半分は本当だからだ。

荷台には実際に香草と薬草の束が積まれている。

乾燥させた薬草は、安価ながら庶民向けの治療によく使われる。そして帰りに鉱石を仕入れ、武具へ加工して騎士家へ売る。

工房を抱える商人であれば、ありうる話だ。


全部を嘘にはしない。本物を混ぜる。

だから話に現実味が宿る。

兵士達も違和感は覚える。だが、決定的な不審までは辿り着けない。

ティスは、そのやり取りを静かに見ていた。

父オルティスとも、ハンスとも違う。

カーフのそれは、"旅人の生存術"だった。

疑われないこと。覚えられないこと。印象を残さないこと。

強くもなく、弱くもなく、ただ街道へ溶け込む。

その技術だけで、カーフは幾つもの土地を渡ってきたのだろう。

夕方には、二人は予定通り二日目の宿場へ辿り着いた。


赤く染まる屋根。炊事の煙。荷馬車の軋み。酒場から漏れる笑い声。

どこにでもある旅人達の休息地。

一見すれば、平穏そのものだった。

カーフが選んだのは、宿場の中でも安い宿だった。

街道沿いの便利な宿ではない。

宿場の内側、外壁近くに建てられた、荷運びや流れの職人達がよく使う粗末な宿である。

理由は単純だった。

金のない行商人らしく自然にふるまうためである。


荷馬車を止めると、カーフはまず馬の様子を確かめた。

汗。呼吸。蹄。

順番に見ていく。

そして馬具は完全には外さず、荷台だけを切り離した。

鞍には水袋と携帯糧食を残したままにしておく。

何かあれば、そのまま馬だけで走れる状態を維持していた。

ティスは、その手際を静かに見つめる。

無駄がない。

最初から、逃走まで含めて習慣になっている動きだった。


宿の主人も、その様子を特に気にしない。

この辺りでは追い剥ぎや野盗も珍しくない。

旅慣れた者ほど、いつでも逃げられる備えを崩さないことを知っているからだ。

部屋へ荷物を置くと、二人は食事を兼ねて酒場へ向かった。

逃亡の最中とはいえ、情報は必要だった。

むしろ、こういう時だからこそ、人の口から流れる噂が生きた情報になる。


酒場の中は騒がしかった。

蒸した芋の匂い。脂の強い焼き肉。煮込み過ぎた豆のスープ。

酒と汗と煙が混ざった空気が、店内へ重く沈んでいる。

ティスは目立たないよう、外套のフードを深く被ったまま席へ座った。

カーフは自然な様子で料理を注文すると、何事もないように鍛冶の話を始める。

「最近は質の悪い鉄が増えた。特に東側の流通は駄目だな。焼きを入れても粘りが出ねぇ。」

ティスは適当に相槌を打つ。

だが、意識の大半は周囲へ向いていた。

商人。荷運び。傭兵崩れ。宿場へ流れ着く人間達は、噂も一緒に運んでくる。

一方でカーフは、まるで気にした様子もなく話を続ける。

「鉱石ってのは、人の手だ。掘る場所より、誰が精錬するかの方が大事なんだよ。」

半分は演技。だが、半分は本物の知識の疲労だった。

完全な嘘は、人を不自然にする。だからこそ、核になる部分だけは真実を混ぜる。

ティスはそこでようやく理解した。

この世界で生き残ってきた人間達は皆、"本当らしい嘘"を扱うのが上手い。

堂々と隠し、自然に誤魔化し、必要な真実だけを見せる。

そうやって、生き延びてきたのだ。


酒場に、鎖帷子姿の男達が入ってきた。

肩幅が広く、日に焼けた腕をしている。手にした槍を壁へ立てかけ、革鎧についた乾いた泥を払いながら席へ着いた。

おそらく、どこかの騎士家に属する兵達だろう。

彼らは酒を注文すると、気の抜けた調子で愚痴をこぼし始めた。

「あの若様、口だけは立派なんだよな。」

「馬の脚も見れねぇ癖によ。」

「南の見張りなんざ、暇で骨が腐る。」

周囲から笑いが漏れる。

他愛のない話だった。

ティスは蒸した芋を崩しながら、何気ない様子で耳を傾ける。

封鎖。追撃。検問強化。

そういった言葉は、まだ聞こえてこない。


胸の奥に張り付いていた緊張が、ほんの少しだけ緩みかけたその時。

「マルク家の連中、かなり揉めてるらしいぞ。」

別の男が、酒杯を揺らしながら言った。

「オルティスを逃がした件だろ?」

「ああ。狩猟会にも顔出してねぇって話だ。」

ティスの指先が、ほんの一瞬止まる。

「で、今は娘の方を探してるとか。」

「西へ戻るところ押さえりゃ、失点取り返せるって腹なんじゃねぇの?」

「必死だな。」

「失敗したら首飛ぶ世界だ。そりゃ死に物狂いにもなる。」

笑い混じりの声。


だが、その言葉には紛れもない現実があった。

ティスは俯いたまま、ゆっくりとスープを口へ運ぶ。

向かいでは、カーフが何事もなかったように肉を切っていた。

だが、空気が僅かに変わったことを、ティスは感じ取っていた。

カーフも同じ話を聞きながら考えている。

そして、同じ結論へ辿り着いているはずだった。

――追跡ではなく、西の地にすでに警戒網が敷かれている可能性がある。

食事を終えると、二人は代金を払い、そのまま宿へ戻った。


夜風は冷たい。

宿場の灯りは暖かいはずなのに、どこか遠く感じられた。

歩きながら、ティスは違和感を覚える。

カーフが静かすぎる。

店を出た後も、香草の値段だの鉄の質だのと、商人らしい雑談を続ける男だった。

それなのに今は、必要以上に口を閉ざしている。その視線だけが絶えず周囲を巡っていた。

ティスは何も聞かなかった。

聞けば、その瞬間に緊張が形になってしまう気がしたからだ。


やがて宿へ戻る。部屋へ入り、扉が閉まる。

木扉の軋む音が、妙に大きく響いた。

しばらく沈黙が落ちる。

やがてカーフが、低い声で口を開いた。

「……つけられてたかもしれねぇ。」

ティスの呼吸が浅くなる。

「断定はできねぇ。」

カーフは窓の隙間へ目を向けたまま続けた。

「だが、酒場を出てから同じ影を二回見た気がする。」

旅慣れた人間特有の感覚だった。

誰が見ているか。どんな歩き方をするか。偶然の重なりか、それとも意図か。そうした違和感には敏感になっている。

ティスも周囲を警戒していた。

それでも、まったく気付けなかった。


「……追手ですか?」

静かに問い返す。

「まだ分からん。」

カーフは即答しなかった。

「向こうも確証はねぇはずだ。だが、疑われ始めてる可能性はある。」

その言葉は重かった。

一度"怪しい商人"として認識されれば、もう普通には戻れない。

カーフは腰を下ろし、水袋から一口飲む。

「だからこそ、予定は崩さねぇ。」

低い声だった。

「焦って動いた方が終わる。」

ティスは小さく頷く。

今は、"普通"でいることだけが命綱だった。


その夜、二人はそれぞれ寝台へ横になった。

だが、深く眠ることはできなかった。

外では風が鳴っている。時折聞こえる馬のいななき。遠くで誰かが笑う声。酔った旅人の足音。

宿場としては、いつも通りの夜だった。

ティスには、その全てが追手の気配のように思えた。

目を閉じても、意識だけが冴え続ける。

――本当の勝負は、明日から始まる。

そんな予感だけが、静かに胸へ沈んでいた。

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