26 狩猟会
リテイア家主催の狩りは、まだ日が昇りきらない頃から始まる。
広大な森を区画ごとに切り分け、その外周を幾つもの騎士家が囲う。
数日前から事前に危険な肉食獣は調査され、排除されていた。残されるのは、追い立てられる草食獣と――今日の主役。
やがて、森の奥から重い地鳴りが響き始める。木々が揺れ枝葉が砕け散る。そして現れたのは、巨大な象にも似た巨獣だった。
灰色の分厚い皮膚。湾曲した長い牙。樹木すら押し倒しながら進むその姿は、もはや小さな自然災害に近い。
その巨獣を、貴族達と上位騎士家が連携して討ち取る。
崖下へ誘導する者。弓で動きを削る者。槍隊で進路を制御する者。
時には闘士と呼ばれる武人達が、最低限の装備だけで巨獣へ挑み、その膂力を誇示する。
巨獣が暴れれば歓声が上がり。牙を折れば喝采が響き。仕留めれば、森そのものが揺れるような歓呼が広がる。
それは狩りでありながら。同時に、政治の舞台でもあった。
誰が武勇を示したか。どの騎士家が成果を上げたか。どの貴族が誰と並び、誰と距離を取ったか。全てを、全員が見ている。
だからこそ、森の外縁警戒を任される騎士家達は、脇役だった。
ハンス・ロッカート率いるロッカート家も、その脇役らしい一角に配置されている。
役目は単純である。万が一、巨獣が包囲を突破した時に備えること。
当然、そんな事態は滅多に起こらない。故に、外縁の空気は、どこか緩い。持ち場を大きく離れなければ多少の移動は黙認される。
携帯糧食を齧りながら雑談する騎士。暇潰しに小型獣を狩る者。時折響く笑い声。普段なら、それが外縁警戒の日常だった。
ハンスは馬上から森を見つめながら、静かに眉を寄せていた。
普段であれば、エヒト家と繋がりの深い騎士家は、ある程度近い位置へまとまっていた。無論、連携を取りやすくするためだ。
しかし今回は、ロッカート家の両隣には、イース家寄りの騎士家。さらに離れた位置にも、見覚えのある紋章がある。
偶然には見えなかった。
加えて、その動きが妙だった。さっきまで視界にいたはずの騎士が、いつの間にか消えている。
逆に、油断した頃に背後や側面へ現れる。まるで斥候か、あるいは追跡専門の部隊。そんな動きだった。
他家と軽く言葉を交わすだけで、どこかから視線を感じる。森全体へ、薄い緊張が張り付いていた。
遠くで歓声が上がる。どうやら、どこかで巨獣への攻撃が成功したらしい。だが、その喧騒とは裏腹にハンスの胸中には、嫌な静けさだけが広がっていく。
これは単なる警戒ではない。もっと明確な意図がある。逃がさないための配置。
そして恐らく――相手は、こちらが今日動く可能性を読んでいる。
ハンスは、時折、深く被ったフードの女性と話をしていた。
立ち姿からして騎士ではない。だが、ただの従者とも違う空気がある。
そして何より、ハンスの態度が妙だった。普段の彼は、誰に対しても無骨で実務的だ。必要以上に感情を見せない。
だが、その女と話す時だけは違った。わずかに恭しさが混じっている。
当然、それを監視していた騎士達が見逃すはずもなかった。
日が高くなるにつれ、焦れ始めた数人がついに動く。
「失礼する」
そう言って、一人の騎士が二人の間へ割って入った。
そのまま、女のフードへ手を伸ばす。ハンスの眉が僅かに動く。だが、制止するより早く。布が払われた。
露わになったのは、鮮やかな赤髪だった。ティスの黒い髪色とは、まるで違う。
フードを取った騎士自身の表情が、一瞬で変わる。露骨な動揺。そして、期待が外れた苛立ち。
ハンスはその反応を静かに見ていた。
「ロッカート家へ出入りしている商家の娘だ。狩りを見学したいと言うのでな。」
低く、抑えた声が響く。その声には無礼を働くものへの怒りの温度が加わっている。
「客人へいきなり手をかけるとは、随分な振る舞いだが。どのようなお考えか。」
責められた騎士は謝らない。それどころか。焦っていた。ハンスはそこで確信する。
――やはり漏れている。
ロッカート家がティスを匿っている可能性。それ自体は、既にイース家側へ伝わっていた。
ただし、確証が無かったからこそ、今日まで監視を続け、この狩りの場で証拠を押さえようとしていたのだ。
騎士の一人が、苛立ったように舌打ちする。そして、背後の部下へ短く命じた。
「西側街道を封鎖しろ。」
空気が変わる。ここでティス本人を押さえられないなら。既に逃げた可能性へ賭けるしかない。最悪を考え損失の可能性を限りなく抑える次善の策だ。
川を越える橋。そこを押さえれば、逃走していた場合でも捕捉できる。
狩りの最中に大規模な兵を動かせば、他家から不審に思われる。
彼らにとっては、あくまで秘密裏に処理をした。そう考えているからこそ、目立たせずに小さく兵力を橋の袂へと送ろうとしていた。
ハンスは怒りを滲ませたまま、内心では冷静に状況を整理していた。
この状況は、自分が読み切ったわけではない。
夜明け前、ティスが口にした“別の脱出案”。今、まさに彼女の想定していた通りに事態が動いていた。
「勝手な行動は慎め。」
ハンスが鋭く言い放つ。
「我々の任務は外縁警護だ。持ち場を離れて兵を動かすなど、本来許可されるものではない。」
さらに一歩踏み込む。
「まして、この狩りへ参加している家々の顔触れを考えれば――ここで無用な騒ぎを起こすこと自体、恥であろう。」
正論だった。
しかも、ハンス・ロッカートという男が口にするからこそ重い。
彼は表向き、派閥で動く男ではない。立場よりも任務と主家の利益を優先する。だからこそ、その叱責には現実的な圧があった。
騎士達は露骨に苛立ちながらも、強引には押し切れない。西へと進もうとしていた兵も仕方なくというそぶりを見せながらも戻ってくる。
そのほんの僅かな停滞。だが――今この瞬間に限れば、それこそが最も価値ある時間だった。
ハンスは、西の空へ視線を向けた。
日は空高く上り、食事の炊き出しのようないい香りが流れる。狩りは、すでに後半へ移っていた。
表向きの流れは順調だ。巨獣の討伐も進み、各所から断続的に歓声が上がっている。
だが、その音とは別にハンスの中では、別の計算が進んでいた。
――動いている。
一度は言葉で制して動きは止まっていたが、明らかに周囲にいたはずの人員の数が減っている。
やはり、目立たないようにしながらも、街道封鎖に向かって人員が流れてしまっている。
ハンスは小さく息を吐いた。
ティスがここにいるという証拠もロッカート家に匿われていたという確証もない。
もし確信していたのであれば、もっと鋭く動くはずだ。つまり、今はまだ、情報が曖昧な段階にある。疑いだけが先行している状態だ。
ハンスはゆっくりと呼吸を整える。
ならば、既に“間に合った”のであろう。
特定されていない限り、橋を越えて西側に兵を動かす可能性は極端に低い。
仮に、その動きをすれば何のために兵を動かしたかの事由が問われることになる。
その時、森の中心から、ひときわ大きな歓声が上がる。大きな鐘の音が鳴り響き、空気が震える。巨獣が討たれ、この狩りの終盤を告げる音だった。
ハンスは森の奥へ視線を向ける。予定通りだ。ここから先は、貴族達が中央へ戻る流れになる。
戦果の確認。簡易的な宴。功績の誇示。そして一時的な緊張の緩和。
今の歓声は、その切り替えの始まりを意味していた。
ハンスは周囲を見渡す。騎士達は移動のために片づけを始めている。
「準備しろ。移動する」
短く指示を出す。誰も異論はない。
外縁警戒は形式上まだ続く。
この場にとどまるのが表向きの規則ではある。実際には、中心へ戻り宴の末席に加わるのが自然な流れだ。
ハンスはそれに従う形を取る。あくまで“想定通り動いている騎士”として。
荷がまとめられ、隊列が緩やかに動き始める。他の騎士家も同じように中央へ流れていく。遠くで、勝利の余韻がまだ響いている。
何も起きていない狩りの終わり。
彼らにとっては、いつも通りの光景であった。
一方で、ティスたちは既にリテイアを脱していた。
本来の計画では、狩りへ向かうロッカート家の隊列へ紛れ込み、そのまま外縁警戒の混乱に乗じて離脱するはずだった。
だが、ティスは別の道を選んだ。
オルティスが残していた、商人用の通行証。それを使い、西門から正面突破する。ハンスの案と対比すれば、危険な賭けだった。
だが同時に、相手も知りえない通行証の存在と予想もしない正面突破。
それは、最も“あり得ない”逃走方法でもあった。
ティスは、相手の方が準備をする人的にも時間的にも余裕があるはずだ。意識外の選択こそが最良になりうると判断したのだ。
二頭立ての馬車には、木箱と布袋が積まれている。
一部には軽い荷物が入っているが、中身の大半は空だ。
御者台にはカーフ。ティスは荷の確認役を装い、深く外套を被っていた。
城壁が近づくにつれ、ティスの呼吸は浅くなる。
西門。以前、父と共に戻ってきた門だった。
門前には普段より明らかに兵が多かった。狩猟で人が出払っているため、本来ならもっと警備は薄いはずだった。それでもこれだけ残している。
――やはり、動いている。
イース家側も既に何かを察知している。確信はないまでも、この警備が緩いからこそ監視を強めるというのは警戒心を隠していないということだ。
ティスは視線を落としたまま、静かに周囲の気配を探る。門兵達の視線。槍の向き。馬の落ち着かなさ。
些細な音だけが、妙にはっきり耳へ入ってきた。
「止まれ」
門兵の声。馬車が止まる。
カーフが通行証を差し出した。兵士はそれを受け取り、眉をひそめる。
「……発行が半年前か」
ティスの指先が、外套の内側で小さく強張った。
「使用記録も無いな」
当然の疑問だった。普通の商人なら、もっと頻繁に出入りしている。半年間使われていない通行証など、不自然に決まっている。
兵士の目が細くなる。
「荷を改め――」
「待て。」
低い声が割って入った。門兵達の姿勢がわずかに変わる。
見覚えのある隊長格だ。
ティスは反射的に息を止める。
以前、オルティスと共にリテイアへ入った夜。西門で応対した年配の守備兵だ。若い兵がなおも食い下がる。
「ですが、隊長――」
「商人にも色々いる。」
隊長は静かに遮った。
「外を回る者もいれば、領内だけで商売する者もいる。許可だけ取って、長く使わん者も珍しくない。」
淡々とした口調。だが、その声には微かな圧があった。若い兵士は口を閉ざす。
隊長は通行証を返しながら、ほんの一瞬だけティスへ視線を向けた。
そして、指先を小さく動かす。それは、無事を祈る。という所作であった。ティスは表情を変えない。ただ、小さく頭を下げた。
門が開く。車輪が石畳を軋ませる。ゆっくりと何事もないように馬車は西門を抜けていった。城壁を越える。
その瞬間、ティスはようやく、肺の奥まで空気を吸い込んだ。
振り返りはしない。振り返れば。父がいる街を見てしまう。
戻りたくなる。だから、ただ前だけを見る。
橋に差し掛かった時にも同じように検問を張っていたが、通行証一つで特に大きな問題は発生しなかった。
リテイアを出るときに身分を確認されているものに対しては、あまりにずさんな対応をしていた。
やはりというべきか、目的意識が希薄な兵士の仕事ぶりは怠惰を極めていた。
そのため、日が昇り少ししたころには、既に最大の難所と考えていた橋は越えている。
ここから先は平原地帯。街道沿いを進み続ければ、五日ほどで西へ戻れる計算だった。
空は高い。風も穏やかだった。拍子抜けするほど、順調だった。
だからこそ、ティスの胸から不安だけが消えなかった。あまりにも、何も起きなさすぎる。
カーフが前を見たまま、小さく呟く。
「嬢ちゃん。」
ティスは顔を上げる。
「追われる時ってのはな。」
カーフは手綱を軽く引きながら続けた。
「追手が見えてる時より、見えてねぇ時の方が厄介なんだ。」
ティスの不安を見越したのか、彼の声は胸の中に響く。ティスは何も答えなかった。
その言葉が、妙に現実味を持って胸へ沈んだからだ。西への道は、まだ始まったばかりだった。




