25 決起
その日の夜だった。静まり返った部屋の中へ、不意に乾いた音が響く。
――コン、コン。
扉を叩く音。
ティスは反射的に身体を強張らせた。この部屋へ通されて以来、初めて聞く音だった。
食事を運んでくる時でさえ、扉は静かに開くだけだった。
つまり、向こう側にいる相手は、いつもの従者ではない。
ティスは無意識に懐へ手を添える。指先が触れたのは、冷たい金属の感触。
静かな緊張が、部屋の空気を満たしていく。
「……どうぞ。」
そう声を掛けると、扉がゆっくり開いた。隙間から滑り込むように現れたのは、ハンスだった。
ハンスは部屋へ入ると、まず視線だけで周囲を確認した。それから、ようやくティスへ目を向ける。
「リフィラス様との接触に成功したそうだな。」
低い声だった。
すぐに理解する。ローズマリー経由で伝わっている。
だからこそこうして今度は自分の伝言によってハンスが訪ねてきたのであろう。
ティスは静かにうなずいた。そして、迷うことなく口を開く。
「……西へ戻りたいです。」
ハンスはすぐには答えなかった。腕を組み、しばらく考え込むように目を伏せる。
その横顔には、簡単には頷けない現実が滲んでいた。
今のリテイアは、平時とはまるで違う。オルティスの件以降、貴族街周辺の警戒は明らかに強まっている。
城門だけでなく市街地の中にまで、監視が置かれていた。
特に、領外へ出る動きにはより敏感だ。
本来なら、いくらでも理由は作れる。近隣の視察。騎士団への同行。物資輸送。
紛れ込ませる手段は誰もが頭をよぎる。だが、どんな名目であれ、不自然な動きはすぐ疑われる。
やがて、考えがまとまったのか、ハンスは低く息を吐いた。
「……手段が無いわけじゃない。」
ティスが顔を上げる。ハンスは窓の外へ一度視線を流し、それから続けた。
「三か月に一度、リテイア家主催の狩りがある。」
貴族達の娯楽。同時に、騎士達の技量確認。そして非公式な社交の場でもある。
「当然、我々も同行する。だが、うちは大抵、主隊から外れた警戒線を任される」
つまり、本隊から距離を取り、視界も散る。
「そこへ紛れ込ませられれば、脱出は可能だ。」
ティスは静かに考え込んだ。
悪くない。むしろ、かなり現実的な案に思えた。
貴族の移動が発生する以上、人馬の出入りも増える。警戒が緩む瞬間も必ず生まれる。
そして何より、“騎士家の人間が同行している”という形を取れるのが大きい。単独行動より遥かに自然だった。
「……その狩りは、いつですか?」
ティスが尋ねると、ハンスは間を置かず答えた。
「三週間後だ。」
その言葉に、ティスは小さく視線を落とした。
三週間。
長いようで、短い。逃走準備を整える時間としては十分だ。
今まで続けてきた技術書の書き写しも続けられるだろう。
だが、それだけでは足りない。
西へ戻るということは、道中で追われ、戦闘になる可能性もある。
そしてその中で生き延びるということだ。もう、“守られるだけの令嬢”ではいられない。
ティスはゆっくり顔を上げた。その瞳には、以前とは違う硬さが宿っている。
迷いは残っているが、覚悟だけは形になり始めていた。
ティスは懐へ手を入れる。
そして、机の上へ小さな灰色の魔晶石と単筒を置いた。金属音が、小さく部屋へ響く。
「父上から預かった魔晶石とリュート様から借りている単筒です。」
ティスは真っ直ぐハンスを見た。
「……使い方を教えてください。」
部屋の空気がわずかに変わった。ハンスは単筒を手に取る。重さを確かめるように眺めながら、ふっと口元を歪めた。
「なるほどな。」
低く漏れた声には、わずかな苦笑が混じっていた。
「リアン様らしい。」
ティスは何も言わない。ただ真っ直ぐ見返していた。逃げるためではなく生き残るために必要なのだと。その意思だけを込めて。
ハンスはしばらく黙っていた。やがて、小さくうなずく。
「分かった。」
短い返答だった。
だが、その声音には既に決定が含まれている。
「なら、教育に適した人員を用意しよう。」
ティスは静かに息を呑んだ。そして、この日初めて彼女は“知識を蓄える側”から“生き残る術を学ぶ側”へと、一歩踏み出したのだった。
それから、二週間と少しの時間が過ぎた。
窓もほとんど開けられない閉ざされた部屋。
外の空気すら遠く感じる生活だったが、それでもティスにとって、その日々は決して空白ではなかった。
朝は技術書を読む。昼には羊皮紙へ必要な知識を書き写す。夜になると、実技訓練が始まる。そんな生活が、静かに繰り返されていた。
ハンスが教育役として連れてきた男は、フォルドと名乗った。
四十代半ばほどだろうか。背は高くないが、無駄なく締まった身体をしている。何より、その目つきが鋭かった。
騎士のような真っ直ぐさはない。ハンスが表の人間なら。フォルドは、明らかに裏側の人間だった。汚れ仕事にも慣れている。そういう空気が、男の全身から滲み出ていた。
正直、できれば二人きりになりたくないと思うほどに怖かった。
だが、訓練が始まると、その印象は少しずつ変わっていく。教え方は驚くほど的確だった。無駄がない。感情論もない。出来ないことを責めない代わりに、甘やかしもしない。
「単筒は“武器”だと思うな。」
初日、フォルドはそう言った。机へ置かれた単筒を指先で軽く叩く。
「こいつは“時間を作る道具”だ。」
敵を倒すためではない。距離を取るため。混乱を起こすため。逃げ切るため。
その発想そのものが、ティスにとって新鮮だった。
フォルドは単筒を分解しながら続ける。
「お嬢ちゃんが、騎士相手に正面から勝てる見込みはない。なら、撃つのはギリギリまで我慢しろ。武器を持っていることを見せて、そのうえで使わない。生き逃ビルための優位は力量を隠すことだ。」
フォルドは安全装置の位置。暴発を防ぐ確認方法。構え方。狙い方。引き金を引く時の指の使い方まで、一つずつ教えていく。
さらに、魔晶石についての知識も叩き込まれた。
用途別の種類。質の見分け方。劣化した時の特徴。そして、オルティスが残していった灰色の魔晶石についても説明が及ぶ。
フォルドは石を指先で摘まむと、小さく魔力を流した。
淡い光が内部に灯る。そのまま、石の中心に浮かぶ光がゆっくりと一定方向を向いた。
「これは、魔晶石の中でも方位を刻んだ陣が書かれているな。方位石と呼ばれるものだ。」
ティスは思わず目を見開く。
「常に南を指すよう術式が組まれてる。戦闘には使えんやつだな。」
帰るにしても、街道沿いで帰れるとは限らない。
その時に、方角を見失わないことは、そのまま生死へ直結する。
オルティスが、この石を道中でティスに渡したというのは、一人で帰る可能性をその時から考えていたということだったのだろう。
だが、訓練を進める中で、ティスは別の現実にも直面する。
――自分には、魔法の才能がほとんど無い。
それは、はっきり分かるほどだった。
魔晶石へ魔力を流そうとしても、反応が弱い。単筒もまともに起動しない。
本来なら誰でも扱えるはずの道具が、ティスの手ではただの石と金属の塊にしかならない。
ティスが唇を噛み締めていると、フォルドは鼻を鳴らすように笑った。
「そんな顔すんな。」
そして懐から、細い皮紐で括られた小さな魔晶石を取り出す。
「これは、蓄魔石という。」
魔力を事前に蓄え、必要な時に放出する補助具。ティスのように魔力が弱いものが、愛用するものだ。フォルドは紐を持ち上げる。
「こいつを手首へ巻けば、お嬢ちゃん程度の実力でも単筒は動く」
ティスは慎重に受け取った。小さいが、その存在は大きかった。完全に無力ではない。
そう思えるだけで、胸の奥が少し軽くなる。
さらにフォルドは、小袋を二つ机へ放った。
「こいつには煙玉が入っている。」
火を付けて投げるだけで魔力を必要としない。視界を遮り、追跡を乱す。単純だが、逃走には十分有効な手段だ。
そして最後に、小さな球体を指先で転がす。
「こいつが、匂い玉だ。これは貴重品だがな。」
ティスは不思議そうに首を傾げた。フォルドは口元だけで笑う。
「人間には大したことねぇが……馬には効く。」
刺激臭で馬を怯ませる。進路を乱し、追手の速度を落とすための道具だった。
どれも派手ではない。剣のような力強さも。魔法のような華やかさもない。だが、“逃げる”ことに特化している。
フォルドは最後に壁へ寄りかかりながら言う。
「二週間程度じゃ、この辺が限界だ」
それは事実だったが、ティスにとって、それでも十分大きかった。
今までは守られ、逃がされるだけだった。
けれど、未熟でも、小さくても。自分自身の手で、生き残るための術を持ち始めている。その実感があった。
決行の日は、もう目前まで迫っていた。
そして、決行の日。まだ夜の冷気が屋敷の中へ残る夜明け前だった。
ティスの部屋へ、静かなノックが響く。
緊張のあまり、眠りは浅かった。目を閉じても、橋の追加、追手。
そして今後の父の処遇。様々な思考が頭を巡り続けていた。
ティスはすぐに身体を起こす。
「……どうぞ。」
短く返すと、扉が開いた。
入ってきたのはハンスとその後ろにもう一人、人影がある。
ティスは自然と視線を向ける。
見覚えのない男だった。三十代後半ほど。
痩せ型で、騎士のような筋肉で体を大きくしたような感じではない。腰には革袋。工具が入っているのか、歩くたび小さく金属音が鳴る。
そして何より目についたのは、その手だった。
指先には細かな切り傷。焼け跡。金属を扱い続けた人間特有の手。
男は軽く頭を下げる。
「カーフだ。」
低く、抑えた声だった。
ハンスが後を引き継ぐ。
「うちの専属の鍛冶師だ。」
ティスはわずかに目を見開いた。
鍛冶師。だが、このタイミングで合わせるのは、ただ武具を打つだけの男ではないのであろう。
ハンスは静かに続ける。
「腕は確かだ。馬具、武器、魔具。ひと通り扱える。今回、お前と一緒に動かす。」
ティスは改めてカーフを見る。
カーフは肩を竦めた。
「壊れた単筒の応急修理に馬具も見る。まぁ、逃げる途中で不具合が出ると厄介だからな。」
ぶっきらぼうな口調だった。だが、不思議と嫌な感じはしない。必要なことだけを言う。そういう人間なのだと分かった。
ティスは静かに頭を下げる。
「よろしくお願いします。」
「おう。」
短い返事。それだけだった。
その後、三人は部屋の小机を囲む。ハンスが地図を広げた。
リテイア周辺の川・橋・森。そして狩場と街道。いくつもの印が書き込まれている。
「予定通り、今日の狩りで動く。」
ハンスは地図の一点を指した。リテイアより北側に広がる森。
「ロッカート家は外縁の担当だ。中央の貴族連中から距離を取れる。」
主催側の視線から外れやすく人数も少ない。混乱へ紛れ込む余地がある。
「狩りが始まれば、各家は広範囲へ散る。その途中でお前達を離脱させる。」
ティスは真剣な表情で聞いていた。
ハンスはさらに続ける。
「問題は橋だ。」
西へ戻るには、川を越える必要がある。
当然、橋には監視が置かれている。通常なら、今の状況で不用意な通行は難しい。
「騎士家の巡回権限を使う。加えて、人通りの多い時間帯も選べば、可能性が上がる。」
完璧な安全など存在しない。だが、現時点では現実的な手段であることは間違いなかった。
さらに、ハンスは森と橋の中間の地点を指す。
「ここは、うちとと付き合いのある家だ。最悪、数日は匿える。体勢を立て直す準備もできる。」
完全なプランとはとても言えない。だが、細いながらも道は繋がっている。
ティスは一つずつ頭の中で整理しながら情報をインプットしていく。ふと、小さく笑った。
その変化へ、ハンスが視線を向ける。
「……どうした?」
ティスは少しだけ迷うように目を伏せる。だが、やがて口を開いた。
「実は、別の脱出方法も考えていました」
部屋の空気がわずかに止まる。カーフが片眉を上げた。ハンスは腕を組み直す。
「聞こう。材料は多い方がいい。」
ティスはゆっくり顔を上げた。




