24 選択肢
「エヒト家が取り潰しになった件は、知っている?」
ティスは静かに頷く。
「父上から聞いているわ。」
「リュート達が、西へ向かったことも?」
「……うん。向こうで私たちの家にいるわ。」
リアーネはそこで視線を落とした。
長い睫毛が伏せられる。まるで、次に口にする言葉を慎重に選んでいるようだった。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「なら、なおさらよ。」
その瞬間、ティスは胸騒ぎを覚えた。
リアーネの声色が、あまりにも真剣だったからだ。
「あなたは、西へ帰るべきね。」
ティスの表情が強張る。一瞬、言葉の意味が理解できなかった。いや、理解したくなかったのだ。
「……父上を置いて?」
思わず声が強くなる。感情が滲んでいた。
だがリアーネは、目を逸らさなかった。
「置いていくんじゃない。」
静かな声だった。けれど不思議なほど真っ直ぐで、揺らがない。
「助けるために、離れるの。」
ティスは息を呑む。リアーネはそのまま続けた。
「アルネ家としても、オルティス様を処刑させない方針に変わりはないわ。」
その言葉に嘘はない。ティスには分かった。
「状況を維持して、機会があれば助け出す。そのために今全力を費やしている。」
リアーネはそこで一度唇を結ぶ。
だが、その目が僅かに険しくなった。
「でも――今、ティスがリテイアへ残れば、あなたが人質になる可能性があるわ。」
リアーネの声が静かに落ち、ティスの肩が小さく震える。
その言葉は、あまりにも現実的だった。反論の余地はない。
もし自分が捕まれば、オルティスは自身の弱点を敵に掴まれることになる。
逃げる機会が来ても。交渉の場が訪れても。娘を切り捨てる選択など、あの父ができるはずがない。
ティスは視線を落とす。膝の上で指先が小さく震えていた。
リアーネは、その様子を見ながらも言葉を止めない。止めれば、逆にティスを傷付けると分かっているからだ。
「もちろん、アルネ家としてはあなたも守りたい。でも、同時には難しいの。」
リアーネはゆっくりと紅茶へ手を添える。その指先には震えがあった。
「アルネ家は大きすぎるわ」
使用人。従者。護衛。他家の使者。巨大な家ほど、人の出入りも増える。
そして人が多いということは、それだけ秘密が漏れる可能性も増えるということだった。
「悪意がなかったとしても、誰か一人が口を滑らせるだけで終わるわ。」
何気ない一言。偶然見かけた姿。そんな些細な情報ですら、今は命取りになる。
ティスは苦しそうに目を伏せる。
分かってしまう。リアーネが感情論ではなく、“現実”を話していることが。
しばらく沈黙した後。ティスは小さく口を開いた。
「……ムライバ商会は?」
リアーネが視線を向ける。
「父上の紹介状もあるし、商家なら手も入らないから、まだ隠れられるかもしれない」
だが、リアーネは静かに首を横へ振った。
「難しいわ。」
即答だった。迷いすらない。
「もう、商家は動き始めているわ。」
ティスは眉を寄せる。リアーネは淡々と続けた。
「リテイアは商業都市よ。オルティス様の情報は尾ひれがついてる。」
どの家が傾き始めているか。誰が失脚しそうか。商人達は、生存するためにそれを何より早く嗅ぎ取る。
「もう、ラティス家と距離を取り始めてる商会も多い。」
ティスは唇を噛んだ。リアーネはさらに言葉を重ねる。
「もちろん、ムライバ商会は大きいわ。流通網も広いし、力もある。」
紅茶を口に運び唇を湿らす。
「それでも、ムライバ商会に限らず、どこも一年後にラティス家側に立ってる保証はないわ。」
商人という存在を考えれば当然でもある。生き残るために動くこと自体は悪ではない。むしろ正しいからこそ、命を預けるには、不安定すぎる。
リアーネは真っ直ぐティスを見る。
「今必要なのは、このリテイアから離れること。そして……」
そこで一度、柔らかく目を細めた。
「オルティス様が帰って来られる場所を作ること。」
ティスは顔を上げる。
リアーネの視線が、まっすぐ自分を射抜いていた。
「だから、リュートを頼りなさい。」
ティスは思わず息を呑む。
「……でも、エヒト家は取り潰されているから、リュートだって、追われる側でしょう?」
そう。今のリュートには、権威も地位も失われている。
だが、リアーネは、はっきりと首を横へ振った。
「違うわ。」
その声には強い確信があった。
「貴族家は、権威と格式で繋がる。でも騎士家は違う。」
リアーネの声が少しだけ低くなる。
「武力、仁義、判断力。命を預けられるかどうかが重視されるわ。」
それで繋がる世界。ティスは静かに聞き入る。
「だから、家が潰れてもエヒト家と正面から敵対したい騎士なんて、ほとんどいないわ。」
リアーネは静かに断言した。
「これからティスにとって必要なのは、“権威”じゃない。生き残るための力よ。」
リアーネは静かに微笑んだ。けれどその瞳は、驚くほど真剣だった。
店内に静かな沈黙が落ちる。
ティスは何も言えなかった。
リアーネは最後に、ほんの少しだけ表情を柔らかくした。それはアルネ家の令嬢ではなく。
昔、一緒に抜け出して菓子を食べていた頃の、“リアーネ”の顔だった。
「西へ帰って。」
優しい声だった。
「リュート達と生きれる場所を。オルティス様が帰って来られる場所を作るのよ。」
リアーネとの会話を重ねるうちに。ティスの中でも、少しずつ答えは形を持ち始めていた。
――西へ戻る。
それが今、自分にできる最善なのだと。必要なのは、“ここへ残る覚悟”ではない。“離れる覚悟”なのだと。
けれど、理解できることと、受け入れられることは違う。胸の奥が重かった。
ティスは視線を落とし、静かに考え込む。
西へ戻るにしても、一人では不可能だ。まずロッカート家の協力が必要になる。馬も返してもらわなければならない。移動経路も考える必要がある。
そして何より――川。西へ戻るには、大きな河川を越えなければならない。橋の数は限られている。当然、見張りもいるだろう。
今ならティスがリテイアへ入ったこと自体、秘匿できている可能性が高い。
ティスが黙り込んでいると、リアーネがそっと小さな袋を差し出した。
「……これ。」
ティスは少し遅れて受け取る。布袋の中から、甘い香りが漂った。焼き菓子だった。
見た瞬間、記憶が蘇る。二人でこっそりこの店で笑いながら食べた菓子。
リアーネは少しだけ微笑む。
「好きだったでしょう?」
その声音は、ほんの少しだけ昔へ戻っていた。
「持って帰って、後で食べて。」
けれど、ティスは静かに首を横へ振った。
「……今、一緒に食べたい。」
その言葉に、リアーネの表情がわずかに揺れる。
驚いたように目を瞬かせ。それから、小さく笑った。
「そうね。」
どこか泣きそうな笑顔だった。
二人は袋を開ける。焼き菓子を半分に割り、静かに口へ運んだ。懐かしい味だった。柔らかな甘さ。少しだけ焦がした香ばしさ。
何も変わっていない。変わっていないはずなのに。どうしてこんなにも苦しいのか。
ティスは黙ったまま菓子を見つめる。リアーネは、そんな彼女を安心させるように言葉を重ねた。
「人的にも、物資的にも支援できる方法は探すわ。」
ティスは頷く。
「……うん。」
声が少し掠れていた。
「ありがとう。」
それだけしか言えない。
本当はもっと話したかった。昔みたいに、どうでもいい話をして笑いたかった。
けれど、言葉を増やすほどに別れが近付いてしまう気がした。
焼き菓子を食べ終える頃。ティスは静かにぽつり。ぽつりと。音もなく涙を零していた。
リアーネが目を見開く。そして次の瞬間。彼女自身の頬にも、一筋の涙が落ちていた。
西へ赴いた時、ティスは、全てを失ったと思っていた。中央での立場。未来。貴族としての生活。
けれど、西には父がいた。長く付き添った執事のウェンやメイドたちがいた。小さくても、確かに“帰る場所”が傍にあった。
だが今は違う。大切なものが少しずつ崩れていく感覚だけは、どうしても消えなかった。
悔しくて、苦しくて、何もできない自分が情けなくてティスの頬に涙が伝う。リアーネもまた、何も言えなかった。
二人とももう子供ではない。泣いたところで状況が変わらないことくらい分かっている。それでも、今だけは、感情を押し殺せなかった。
やがて、長い時間をかけて、二人の呼吸が少しずつ落ち着いていく。ティスは目元を拭った。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……西へ戻るわ。」
声にはまだ迷いが残っていた。けれど、その奥には、確かな決意もあった。
リアーネは静かに頷く。
「うん。」
それから、ほんの少しだけ微笑んだ。
「無事でいて。」
短い言葉だった。
けれど、また会いたい。生きていてほしい。どうか死なないで。そんな願い全部を押し込めたような声だった。
リアーネはゆっくり席を立つ。そして振り返らないまま、店の出口へ向かった。扉が開き、淡い陽光が差し込み。静かに閉じる。
店内へ静寂が落ちた。
ティスはしばらく、その閉じられた扉を見つめ続けていた。やがて、ティスも遅れて店を出る。
外の空気は少し冷たかった。二度ほど深呼吸をする。涙の熱を押し流すように。
「終わった?」
ティスが振り向くといつの間にかローズマリーが立っていた。
相変わらず気配がない。まるで最初からそこにいたようだった。
ティスは小さく頷く。ローズマリーは何も聞かない。慰めもしない。ただ静かに歩き始める。
その背を追っているうちに、気付けばロッカート家の屋敷へ戻っていた。
そして、元の部屋の前まで案内される。
ローズマリーが立ち去ろうとした、その時。ティスは彼女を呼び止めた。
「……待って。」
ローズマリーが静かに振り返る。
ティスは少し迷う。だが、すぐに決意したように口を開いた。
「ハンス様と話したいって……伝えてくれる?」
西へ戻るなら動くのは一刻も早い方がいい。ローズマリーは一瞬だけティスを見つめた。
その目は、まるで何かを測るようだった。だがすぐに、小さく頷く。
「分かった。」
短い返答。それだけ残して。ローズマリーは再び、音もなく闇の中へ溶けていった。




