23 友との再会
ティスは静かに立ち上がった。長く座り続けていたせいか、足にわずかな痺れが残っている。
部屋の隅へ置いていた外套を手に取り、肩へ羽織る。
久しぶりの外出だった。窓から見える景色だけではなく、自分の足で街を歩く。
それだけのことなのに、胸の奥が妙にざわつく。
期待。不安。警戒。様々な感情が混ざり合い、落ち着かない。
ふと、内ポケットの重みに気付く。ティスは無意識に懐へ手を入れた。指先へ触れたのは、冷たい金属。
――単筒。
リュートから渡された護身用の小型の魔具だった。
ティスはそれを取り出しかけて、止まる。
今日会う相手はリアーネだ。数少ない、本当に心を許せる友人だ。
彼女と再会するのに、武器など持っていく必要があるのだろうか。
だが同時に、冷えた金属の感触が思考を冷静へ戻していく。
今は、平時ではない。父は中央へ拘束されており、ラティス家は追われる側に回った。そして意識こそしていなかったが、自分自身も、既に政争の渦中へ片足を踏み入れている。
リアーネは信じられる。だが、“周囲”までは信じ切れない。
アルネ家には大勢の使用人がいる。護衛もいる。貴族家同士の監視もある。誰がどこで見ているか分からない。
ティスはゆっくりと目を閉じ、短く息を吐いた。
そして単筒をポケットに戻す。
護身具として使う日など来ない方がいい。だが、それを願うことと、備えを捨てることは別だった。
準備を終えると、扉の前に立っていた女が静かに振り返る。
相変わらず感情の薄い目。気配すら希薄で、少し油断するとそこに立っていることを忘れそうになる。
ティスは、その背を見ながらふと思った。この女について、自分は何も知らない。
「……あなたの名前は?」
ティスの声に女はわずかに視線だけを向ける。沈黙が数拍落ちた後、短く答えた。
「ローズマリー。」
香草の名だ。明らかな偽名。だが、ティスはそこで確信する。
特に裏の仕事をする者ほど、本名を安易に明かさない。この女は、ただの従者ではない。
おそらくは、新月の目。街の影を歩き、情報だけを売買する存在。その構成員なのだろう。
ローズマリーは、それ以上何も説明しなかった。ただ静かに歩き始める。
ティスも後を追った。
驚くべきことに、彼女の移動には一切の淀みがなかった。気付けば、ロッカート家の屋敷を出るまで、誰一人としてこちらへ注意を向けていなかった。
いや、正確には“見えていない”ようだった。ティス自身は特別な隠密技術など持っていない。
歩き方も、呼吸も、ただの貴族令嬢の範囲だ。
それでもローズマリーの後ろを歩いているだけで、自分まで街の景色へ溶け込んでいく。
まるで、存在感そのものを薄くされているような感覚だった。
騎士街を抜け、貴族区画の外縁へ入る頃には、人通りも増え始めていた。
商人。荷運び。巡回兵。本来なら何度か視線が交差してもおかしくない。だが、不思議なほど誰とも目が合わない。
ローズマリーは、歩幅すら細かく調整していた。ティスが無理なく付いて来られる速度。
だが、人の流れとは自然に噛み合わない位置。一歩ずれるだけで、人は互いを認識しなくなる。そんな奇妙な感覚があった。
やがて、一軒の小さな喫茶店が見えてくる。
『プラート』
木製の古い看板。貴族の区画の外れの路地にある、小さな店だった。
ティスの胸へ、懐かしさが込み上げる。リアーネと何度か抜け出して訪れた場所。
貴族向けの高級店ではないが、菓子と茶葉が美味しく、店主も余計な詮索をしない。
二人にとっては、数少ない“普通の友人”として過ごせる場所だった。
ティスは小さな違和感を覚える。
余りに静かすぎた。昼前なら、多少は客がいてもおかしくない。
だが、今日は人の気配が薄い。周囲の通りそのものが、不自然に空いている。
ローズマリーは店の前で足を止めると、そっとティスの背を押した。
そして耳元へ静かに囁く。
「本日は、リフィラス様がこの周辺を押さえておられる。」
ティスは目を瞬かせる。いかにもリアーネらしいと思った。彼女は普段穏やかで控えめだ。だが、一度“必要”と判断した時の行動力は凄まじい。アルネ家という巨大貴族の力を迷いなく使う。
つまり、この場は既に完全な警戒下にある。偶然の通行人も不審者も恐らく近付けない。
そこまでしてくれた。その事実だけで、胸の奥が熱くなる。
ローズマリーはそこで一歩下がった。
「私は離れる。」
それは、“会話を聞かない”という意思表示でもあった。そして懐から、銀色の細い笛を取り出す。装飾の少ない、小型の警笛。
「何かあれば吹け。一吹きすれば、すぐに駆け付ける。」
ティスは静かに受け取る。
指先へ伝わる冷たい感触。
その時だった。今までずっと無機質だったローズマリーが、ほんの少しだけ口元を緩めた。本当に一瞬だけ。
けれど確かに、人間らしい笑みだった。
「……安心しろ。」
小さく。まるで独り言のように、彼女は呟く。
「今日は、大丈夫だ。」
そう言い残し、ローズマリーは静かに人混みの中へ消えていった。まるで最初から存在しなかったかのように。
ティスは静かに店の扉を開ける。小さな鈴の音が、静かな店内へ響いた。そして、そこにいた。
「リアーネ……」
窓際の席。柔らかな光の中で、リフィラス・アルネは入口の方を見つめていた。
ティスの姿が目に入るとリアーネは思わず手で口元を覆う。
普段は感情を大きく表へ出さない。だが、その目元にはわずかに涙が滲んでいる。本当に、心配していたのだろう。
次の瞬間、リアーネは席を立つと、そのまま飛びつくようにティスへ抱き着いた。
「……よかった。」
小さな声。ティスも自然と抱き返す。
「久しぶり。三か月ぶりくらい……かな。」
そう返すと、リアーネは少しだけ身体を離した。
そして、ティスの顔をじっと見る。
「4か月と半分ぶりよ。でも、随分変わったわね。」
少し茶化すように笑う。
「顔色も違うし、身体つきも前と全然違う。」
辺境での生活は短期間であっても、確実にティスを変えていた。
ティスは少し困ったように笑う。
本当なら、もっと色々話したかった。
西での生活。香水を作ったこと。リュートのこと。だが、今はそんなに時間があるわけではない。
リアーネもそれを理解していた。彼女は静かに着席を促す。
「座って。」
ティスが席へ着くと、リアーネは真っ直ぐ見つめてきた。
「まず、何を知りたい?」
優しさをたたえたその目を見ながら、ティスは迷わなかった。
「父上の状況を。」
その言葉に、リアーネの表情が少しだけ曇る。そして静かに口を開いた。
「……良くないわね。本来、事情聴取の段階なら客室軟禁になるはずなの。」
罪状が確定しない限りは罪人扱いにはしない。貴族としての体面を保つためだ。
「でも、オルティス様の姿はそこに確認されていない。」
ティスの指先がわずかに強張る。リアーネは続ける。
「恐らく、牢へ移されているみたい。そして、そこまでやるっていうのは、逃がす気は無いって感じね。」
横領。反逆。外患誘致など、いざとなればどうとでもできる。
だが、とリアーネは小さく首を振る。
「それでも、オルティス様を簡単には処刑できないでしょうね。もしも処刑すれば、それはもう“圧政”の象徴になってしまうから。」
ラティス家も長く中央を支えてきた名家だ。
その重臣格を、無理矢理潰す。それは多くの貴族達に危機感を与える。
「仮の処刑へと進めば、反乱が起きる可能性も考えないと。」
リアーネの声は変わらず静かだった。だが、その言葉は冷静だが残酷だった。
「今の中央は、火薬庫みたいな状態なの。」
少しの火花で崩れる。誰もがそれを理解している。だからこそ、逆に動けない。
ティスは苦しそうに息を吐く。
「父上を……助け出したい。」
それが本音だった。もう政争などから離れて、静かに暮らしたい。
だが、リアーネは、その言葉へ静かに首を横へ振った。
「助けること自体が困難ね。それに、もし仮に助け出せてもその時点でラティス家は反逆を問われるわ。」
当然そうなれば、家名を失う。それは、今存在しているわずかな現場での配慮すら失う。それはつまり、完全に“狩られる側”になるということだった。
「今まで以上に、暗殺へ怯えながら生きることになる。」
ティスは唇を噛む。リアーネも苦しそうだった。
「アルネ家もね。簡単には助けられないわ。」
今の状況でどちらかへ明確に肩入れすれば、それだけで政局が崩れる。
「うちも、父上が失脚して、今は叔父上が当主をしているの。政治も経済も、ギリギリで保ってるわ。」
既にアルネ家は弱みを見せている状態だ。そんな中でも、イース家が完全に暴走しないよう抑えつつ、均衡を保つことができている。
それが、どれだけ難しい事かをティスは理解していた。
「……それでも、何か方法はないの?」
ティスの祈るような声だった。
リアーネは静かにティスを見つめていた。
外から差し込む柔らかな昼の光が、白磁のような彼女の横顔を淡く照らしている。




