22 閉塞
ロッカート家へ身を寄せてから、一週間が過ぎていた。結局、あの日以来、ハンスと直接顔を合わせることはなかった。食事は決まった時間に運ばれてくる。必要な物資も不足なく揃えられる。
だが、それだけだった。
誰かが長く話しかけてくることも、外の状況を教えられることもない。部屋から出ることすら許されていなかった。
最初の数日は、ティスもまだ耐えられた。休息は必要だったし、追跡直後という事情も理解できる。
だが、日が経つにつれ、その静けさは少しずつ精神を削り始める。
人と話せない。情報が入らない。何も分からない。それがこれほど息苦しいものだとは、ティスは思っていなかった。
オルティスが言っていた“三日”。
本来なら、その頃には判断を下しているはずだった。だが、その期限は既に過ぎている。
父が今どうなっているのかも分からない。
拘束されたのか。無事なのか。あるいは――。
そこまで考えかけて、ティスは思考を止めた。
一人でこもっているがために思考が沈みがちになる。
首を振り、無理矢理にでも、別のことへ意識を向ける。
何度も読み返していたのが、一通の紹介状だった。リュートから渡されたロッカート家宛の封書。
正確には、その内容はリュートからティスへの手紙であった。
ハンスの助言によって気が付き、ティスは封を切っていた。
普通なら、紹介状は開封した時点で効力を失う。だから本来、読むべきではない。
アルネ家宛やムライバ商会宛の書簡には、今も手を付けていない。
内容は簡潔だった。
ハンスを信じ、指示に従うこと。オルティスの状況を見ながら、必ず事態を動かす。
監禁になるが、敵意からくるものではない。君の希望をかなえる力を持つ男である。
そして最後に、短く。
――無事と再会を祈る。
その短い文面を、ティスは何度も読み返していた。
乱雑そうに見えて、妙に整った筆跡。無駄の少ない文章。まるで、リュート本人の喋り方そのままだった。
ティスは静かに手紙を閉じる。
焦りは消えない。むしろ、時間が経つほど強くなっていく。
味方が誰なのか分からない。アルネ家は今どう動いているのか。他家はどちら側なのか。
もし脱出が必要になれば、どこを通るべきなのか。
本来なら、調べるべきことはいくらでもある。
なのに、今の自分には部屋へ閉じ込められたまま何もできない。
未知の暗闇へ放り込まれ、外から何かが近付いてくる気配だけを感じ続けている。
そんな感覚だった。
だが、ティスには、一つだけ救いがあった。
食事を運んでくる女がいた。
年齢はよく分からない。若く見える瞬間もあれば、妙に老練に見える時もある。
感情の薄い目をしていて、足音もほとんど立てない。使用人というにはあまりに不思議な空気を纏っていた。
だが、ティスが欲しいものを伝えると、その女は翌日には用意してくる。
もちろん、何でもというわけではない。だが、手に入る範囲で確実に揃えてくる。
余計な詮索もしない。ただ必要な物だけを置き、静かに去っていく。
ティスは技術書を希望していた。本を持ち帰るには重すぎる。
だが、そこに書かれる知識なら違う。必要な箇所だけを整理し、羊皮紙へ書き写す。
技術書を片っ端から読み、まとめ、また読む。
気付けば、それが一日の大半を占めるようになっていた。
他に出来ることがないからこそ、逆に深く沈み込めた。時間感覚すら曖昧になる。窓の外が明るいのか暗いのかも、途中から意識しなくなっていく。
時折、ふと手が止まる瞬間がある。その時だけ、現実へ引き戻される。
父は今どうしているのか。中央では何が起きているのか……だが、答えはどこにもない。
だからティスは、再び本を開く。誰にも知られないまま、静かな部屋の中で。ただ一人、知識だけを積み上げ続けていた。
「……リアーネ」
静まり返った部屋の中で、ティスは小さくその名を零した。
羊皮紙へ落としていた視線が、ゆっくりと宙へ浮く。
リフィラス・アルネ。三大貴族アルネ家の令嬢。
初めて顔を合わせたのは、数年前の舞踏会だったはずだ。
華やかな広間。楽団の音色。貴族達の笑み。
どこか取り繕ったような雰囲気の中で、誰もが言葉を選び、腹の内を隠していた。その空間で、彼女だけは妙に自然だった。
ティスは元々、そうした場を得意としていない。笑顔を作ることはできる。礼儀も守れる。だが、“社交”そのものを楽しめる性格ではなかった。
だからこそ、不思議だったのだ。
リアーネと話す時間だけは、妙に息が楽だった。
同性だったことも大きい。顔を合わせる度、少しずつ会話が増えていった。好きな本。貴族間での噂。最近流行している菓子。時には政治の話までした。
貴族社会において、“友人”という言葉は軽いものではない。
そこには必ず家同士の関係が絡む。どれだけ個人同士が親しくとも、その外側には常に打算の影があった。
だから、皆どこか一線を引く。本音を見せ過ぎない。踏み込み過ぎない。それが当たり前だった。
けれど、リアーネだけは違った。ティスが沈んでいれば、自然とそれを察する。無理に聞き出そうとはしない。ただ隣へ座り、何でもない話をする。
それだけで、不思議と気持ちが軽くなった。今思えば、あの頃から既に彼女の“力”は働いていたのかもしれない。
リアーネは貴族家の中では珍しく魔法を扱う魔術師だった。
だが、火球を放つような分かりやすい戦闘魔法ではない。人の感情を読み、自らの想いを相手へ自然に伝える力。
政治の世界では、それは恐ろしい能力だった。
人は嘘を吐き、言葉を飾る。時に、都合よく誤魔化す。だが、迷い。焦り。敵意。好意。そうした感情の“揺れ”を掴める者は、交渉で絶対的な優位を持つ。
だからこそ、アルネ家はその能力を徹底して伏せていた。公になれば危険視される。
ティスも友人として、その秘密を知る数少ない一人だった。
西へ向かう前。別れ際に、困ったことがあれば頼ってほしいと。リアーネは静かに言っていた。
たったそれだけの言葉だが、あれは社交辞令ではなかった。
ティスには分かっていた。リアーネは、本当に助けようとしていた。
だからこそ、西へ向かった後も、ティスは完全には折れなかった。
また戻れる。また会える。そう思えたからだ。
ティスは膝の上へ視線を落とす。広げた羊皮紙の文字が、少し滲んで見えた。
部屋の外は静かだった。屋敷の中ですら、人の気配は薄い。閉じ込められてから一週間以上たったであろう。
今、自分達がどれほど危険な立場にいるのか。暗闇の中へ一人置き去りにされているようだった。
だからこそ、思ってしまう。リアーネと話せれば、と。
一時間。いや、三十分でもいい。
彼女と向かい合って話せれば、絡まった糸を整理できる気がした。自分では気付けない何かを、見つけてくれる気がした。ティスは小さく息を吐く。
だが、それは叶わない願いだった。
今の自分が軽々しく接触していい相手ではない。下手をすれば、ロッカート家へまで火の粉が飛ぶ。
理解している。理解しているのに――。
「……会いたいな」
ぽつりと漏れた声は、静かな部屋の中へ溶けて消えた。
この監禁されていた期間は決して長くはなかった。
それでも “何も分からないまま待つ”という意味では、人の精神を削るには十分過ぎる時間だった。
ティスが閉ざされた部屋で知識へ逃げ込む一方、その裏ではハンスもまた静かに動き続けていた。
もっとも……その大半をティスは知らない。いや、知らされていないと言った方が正確だった。
今の領都は危うい。中央詰所へオルティスが出頭した時点で、ラティス家絡みの動きは半ば重要案件となっていた。
表立って探る。誰かと怪しい接触する。それだけで、“どこがラティス家へ肩入れしているのか”という情報になる。
だからハンスは、露骨な行動を避けていた。
それでもさりげなく、聞き取りへ同行した騎士。中央区画近辺で流れる噂。酒場で零れる愚痴。
あるいは、普段と違う警備配置。そうした断片を、少しずつ拾い集めていた。
貴族社会では、核心ほど表へ出ない。だからこそ、周辺から読む。誰が“不自然に口を閉ざしているのか”。
ハンスはそうした気配を読んでいた。
加えて、リアン――リュートから事前に渡されていた人脈図もある。
どの家が誰と繋がっているか。中立寄りか。そして、どこへ近付けば目立つか。
紙へ書かれた情報は単純な相関図だけではない。そこにはリアン自身の注釈も残されていた。
利益で行動を変えるのか、古い義理を重んじるのか、面子を優先するのか。そうした“人間性”まで含めた情報だ。ハンスはそれを何度も見返していた。
目的は一つ。ティスとアルネ家令嬢――リアーネを接触させる可能性を探るためだった。
だが、成果は鈍い。元々、貴族家は閉鎖的だ。まして今は、ラティス家と繋がりのある者達へ監視の目が向いている。
ロッカート家のような中堅騎士家が不自然に動けば、それだけで疑われかねない。
それでも、ハンスは焦っていなかった。正面から突破できる状況ではないと、最初から理解していたからだ。
だから彼は、別の手段も並行して使っていた。
――新月の目。
リテイアに根を張る諜報組織。貴族家の所属でもなければ、騎士家の所属でもない。だが、この巨大商業都市において、深く情報網を巡らせている集団だった。
リテイアでは、情報そのものが金になる。誰がどこへ出入りしたか。どの商会が何を運んだか。どの貴族が誰と会ったか。表では流れない情報ほど、高値で取引される。
当然、諜報組織など目の敵にされるのが常ではあるが、この組織には一つだけ独特な信条があった。
一度売った情報は、二度と売らない。情報そのものではなく、信頼を守るのだ。
だからこそ、危険な橋を渡る商人や貴族達から一定の信用を得ており存続しているのだ。
もっとも、絶対ではない。偶然同じ情報の調査依頼が飛び、事故もありうる。それでも“比較的マシ”だから使われる。裏社会とは、そういう世界だった。
ハンスはその新月の目へ、大金を積んだ。ひとつの家が1年は食べるに困らない金額。ロッカート家のような中規模の騎士家としては工面に苦労する金額だ。
だが、ハンスは投資と捉え、その費用をねん出したのだ。
目的は二つ。
一つは、リアーネへ秘密裏に招待状を届けること。そしてもう一つ。ロッカート家が新月の目に依頼した情報そのものを買い取ったのだ。
そして、その新月の目の構成員は、既にティスのすぐ近くにもいた。
毎日、食事を運んでくる女。感情の薄い目をした、無口な従者。
ティスは漠然とロッカート家に関わる人物だと思っているが、実際には違う。彼女こそ、新月の目の人間だった。
ロッカート家に監禁されてしばらくした朝だった。
静まり返った部屋へ、いつものように足音が近付いてくる。規則正しく無駄のない歩幅。
ティスは机へ向かったまま、ゆっくり顔を上げた。
扉が開くと入ってきたのは、やはりあの女だった。
感情の薄い目。抑揚のない動き。銀の盆へ載せられた朝食を、いつもの位置へ静かに置いていく。そこまでは普段通りだった。
だが、ティスはわずかに眉を動かす。女が下がらなかった。
普段なら食事を置いた直後、何も言わず部屋を出る。
なのに、今日は違う。女はそのまま部屋の奥まで歩み寄ると、懐へ手を入れ、一通の封書を取り出した。そして、無言のまま差し出す。
「……え?」
ティスは戸惑いながら受け取った。上質な紙だった。封蝋には見覚えがある。アルネ家の紋章。
だが、それ以上に指先へ伝わる上質な紙の感覚で分かる。これは急造された偽物ではない。実際に、貴族家で使われている正式な便箋だ。
ティスは思わず女を見る。だが女は何も説明しない。それどころか、扉の側へ下がったまま静かに立っている。
まるで、“ここで読め”とでも言うように。
ティスは小さく息を呑み、慎重に封を切った。
そして、中の文字を見た瞬間、目を見開く。
「……リアーネ」
その筆跡を、見間違えるはずがなかった。流れるように整った文字。柔らかいのに芯がある。何度も見てきた字だった。ティスは急いで文面へ目を通す。
親愛なるティスへ
貴女が無事にリテイアへ辿り着いたと聞き、胸を撫で下ろしました。
丁寧で、美しい文体。だが、その奥には隠しきれない安堵が滲んでいた。
本来であれば、正式な形でお招きしたいところですが、今はそれも難しい状況です。ですので、もし貴女さえ良ければ――
そこで一度、文章が改行されている。
昔、二人で抜け出した時に立ち寄った喫茶店を覚えていますか?本日の昼から夕刻まで、あちらで待っています。無理にとは言いません。ですが、もし会えるなら――とても嬉しく思います。
ティスの脳裏へ、すぐに景色が浮かんだ。
貴族街から少し離れた、小さな喫茶店。茶葉の香りが心地よくて、リアーネが妙に気に入っていた場所だ。護衛を撒き、こっそり二人で立ち寄ったことがある。あの場所を知っているのは、ごく限られた人間だけだった。
最後の一文だけ、少し文字が乱れていた。普段のリアーネなら、まず崩さない部分だ。だからこそ分かる。急いで書いたのだと。
ティスはしばらく声を失ったまま、手紙を見つめていた。
何度も読み返す。偽物には見えない。筆跡も言葉選びも。何より、あの喫茶店を指定できる時点で本人の可能性が極めて高かった。
だが同時に、理解できない。今の状況で、ロッカート家がアルネ家へ接触できるはずがない。
まして、こんな短期間で。ティスが困惑したまま顔を上げると、女は初めて口を開いた。
「どうしたい。」
感情のない声だった。ティスは迷わなかった。
「……会いたい。」
その答えに、女は静かに頷く。
「なら、私が案内しよう。」
だが、そこで、女の目がわずかに鋭くなった。
「だが、条件がある。」
ティスは自然と背筋を伸ばす。女は淡々と続けた。
「今日、リフィラスと交わす内容を他の者へ話さないことだ。」
ティスは一瞬、言葉に詰まる。
「……でも。」
ハンスには世話になっている。現状を共有すべきではないのか。そう言いかけた瞬間、女は先に口を開いた。
「ロッカート家が“知り得ない情報”を持つこと自体がかえって危険を呼び込む。」
ティスは黙った。確かに、その通りだった。今のロッカート家は、あくまで“静観している中堅騎士家”でなければならない。
アルネ家から出た情報を把握していれば、逆算される。誰と繋がる、どこから漏れたのか。その疑念を持たれるだけでも危険だった。
そして、そのような気づかいをするのは、おそらくリアーネからの伝言だからであろう。
ティスはしばらく考え込む。だが、やがて小さく頷いた。
女はそれを見ると、少し満足げにうなずいた。
ただ一言だけ。
「準備しろ。」
そう告げた。




