21 領都リテイア
リテイアは、地方の宿場町とはまるで空気が違っていた。
巨大な城壁が都市全体を囲み、夜の闇の中でも圧倒的な存在感を放っている。
灰色の石を高く積み上げた城壁。等間隔に灯る篝火。重厚な城門。外敵を拒み、領民を守り、支配者の威光を示す。
そのすべてが、この街こそがリテイア領の中心なのだと静かに語っていた。
ティスは馬を引きながら、その城門を見上げる。
辺境の村とは何もかもが違う。
久しく離れていた故郷に懐かしさを覚える一方で、今の自分はこの街の人間ではないのだという感覚もあった。
感傷に浸っている余裕はない。
城門の前には武装した守備兵が立っていた。
槍を持つ者。弓を背負う者。夜更けになっても警戒は緩んでいない。
ティスは思わず息を詰めた。
ここで止められれば、追手を振り切った意味がなくなる。
先頭に立つ年配の守備兵が、オルティスの姿を認める。
「……オルティス様。」
驚きと緊張が入り混じった声だった。
男はすぐに姿勢を正し、深く一礼する。その横で、若い兵士が戸惑ったように口を開いた。
「隊長、この方は――」
「黙って通せ。」
低い一言が、その先を封じた。
「……分かるな。」
若い兵は口を閉ざす。
納得した様子ではない。それでも、それ以上は何も言わなかった。
ティスは小さく息を吐いた。
父の言葉は本当だった。
上層部の意向と、現場の人間の判断は必ずしも一致しない。長年積み重ねた信頼や恩義は、一夜では消えない。
少なくとも、この隊長は「ラティス家のオルティス」という一人の人間に特別な対応を取ったのだ。
オルティスは軽く頷き返し、何気ない口調で言った。
「娘だ。顔だけ覚えておいてくれ。」
隊長は、今度はティスにも静かに頭を下げた。
余計なことは聞かない。聞くべきではない話だと理解しているのだろう。
そのまま二人は城門を抜けた。石畳がまっすぐ伸びる大通り。
夜になっても人通りは絶えない。酒場から漏れる笑い声。荷を運ぶ商人。遅くまで灯をともす店々。
さらに奥には、小高い丘へ築かれた貴族街の灯火が見えていた。
ティスは思わず周囲を見回す。
懐かしい。
だが、その感情も長くは続かなかった。
領都へ入るとすぐ、オルティスは馬を降りる。
そして手綱と通行証をティスへ渡した。
「予定通り、中央詰所へ向かう。」
ティスは父を見る。
ここから先は、本当に別行動だ。
オルティスは短く言った。
「三日後だ。判断はその時にしなさい。」
アルネ家。ムライバ商会。あるいは、自分と共に辺境へ戻る道。
そのすべてを含んだ言葉だった。
ティスは静かに頷く。
だが、その返事を待つことなく、オルティスは中央区画へ歩き出した。
振り返らない。迷いもない。その背中を見送りながら、ティスはしばらく立ち尽くしていた。
数日に及ぶ旅。そして、最後の逃走。
身体は限界に近かった。今すぐ宿へ入り、何も考えず眠りたい。
自然と視線が宿街へ向く。
――その時だった。本能の前に動き続けた思考が一つの答えを出した。
宿へ泊まる。それは、自分の居場所を記録するということではないか。
ティスはゆっくり周囲を見回した。追われているのは父だ。同行者の情報はあるかもしれないが、それが娘であると伝わっているとは限らない。
この状況下なら、自分の居場所までは把握の必要はない可能性が高い。
だからこそ、このわずかな時間だけは自由に動ける。
父の情報を集めろと言ったことは、これが前提となっているはずだ。
しかし、父が拘束された後、同行者が察知されれば、そこから追跡が始まる。余計な記録は作るべきではない。
ティスは静かに考えた。
まず浮かんだのはアルネ家だった。リアーネがいる。庇護を求めるなら、これ以上ない相手だ。
だが、同時に危険でもある。大貴族家には人が多すぎる。
使用人。護衛。出入りの商人。来客。人数が増えるほど、情報が漏れる可能性も増える。
間者が紛れていても不思議ではない。悪意がなくとも、誰かが口を滑らせるかもしれない。
では、中小貴族はどうか。
それも危うい。保身。恩賞。派閥。どんな理由で情報が流れるか分からない。
そこでティスは、ようやく気付いた。
今の自分にとって危険なのは、貴族社会との繋がりそのものなのだ。
ティスは静かに懐へ手を入れる。
指先が一通の封書へ触れた。ロッカート家への紹介状。まだ深い繋がりはない。
だからこそ、誰もそこを結び付けない。
そして何より、父が信頼するリュートが託した相手だった。
ティスは封書を握り締める。
もう迷いはない。夜も深まっている。門前払いされるかもしれない。
それでも構わない。
父の運命が動き始めた今、立ち止まっている時間だけはなかった。
ティスは一度だけ深く息を吐き、静かに歩き出した。
向かう先は、騎士家の屋敷が集まる区画だった。
領都の中心部から少し離れた一帯。
大貴族たちの豪奢な邸宅街とは違う。華美さはないが、武を担う家々が集まるその区画には、独特の張り詰めた空気が漂っていた。
石畳を踏む足音だけが、静かな夜へ響く。
実のところ、ロッカート家の屋敷がどこにあるのかまでは知らない。
だが、まったく見当がつかないわけでもなかった。
エヒト家と結び付きが深い騎士家。その情報だけでも、おおよその立地は予想できる。
ティスは周囲の建物を見渡した。
大通りには近すぎない。それでいて、人の流れは把握しやすく、自分たちは監視されにくい。
そんな場所を、信頼する騎士家へ任せる可能性は高い。
領都全体の地理は覚えている。
幼い頃、この街で過ごした時間は短くない。
母から地図を見せられ、区画ごとの特徴を教えられたこともある。
完全な手探りではなかった。候補は十軒ほどまで絞れている。
あとは、一軒ずつ確かめるだけだった。
窓の灯は少しずつ消えていく。疲労のせいか脚は重い。それでも、ティスは歩みを止めなかった。
候補と考えていた二軒目。
門へ掲げられた紋章を見た瞬間、ティスは足を止めた。
馬と弓を組み合わせた意匠。懐から紹介状を取り出し、封蝋を見比べる。
間違いない。ロッカート家だった。
ティスは小さく息を吐いた。思っていたよりも早く見つかった。
だが、問題はここからだった。この時間に突然訪ねるのは礼を失する。
しかも騎士家らしく、門番の姿も見当たらない。門の奥をうかがっても、人の気配は感じられなかった。このまま門を叩くべきか。
それとも、今夜だけ別の場所で身を隠すべきか。
そう考えた、その時だった。
「声を出すなよ。」
低い声が、闇の中から落ちてきた。
ティスは肩を震わせ、思わず声を上げかける。
しかし、その前に男が片手を軽く上げた。
月明かりの下へ、一人の男が静かに姿を現す。
壮年の男だった。広い肩幅。長年鍛え上げられた無駄のない肉体。歩き方にも隙がなく、一目で武人だと分かる。
男は周囲を一度見回してから、小声で言った。
「中へ入れ。」
当然のように門を開き、顎で中を示す。
その動きには一切迷いがなかった。
まるで、ティスが来ることを最初から知っていたかのように。
門が静かに閉じられる。
男は自然な動作でティスの馬の手綱を受け取った。
「馬小屋へ連れて行く。」
そこでようやく、ティスは目の前の人物へ思い至る。
「……ハンス様?」
男は短く頷いた。ロッカート家当主、ハンス・ロッカート本人だった。
ティスは目を見開く。まさか当主自ら迎えに出てくるとは思っていなかった。普通なら使用人か、せいぜい配下の騎士が応対するはずだ。
だがハンスは、その驚きに触れることなく歩き始める。
馬小屋へ向かう途中、ティスはようやく張り詰めていた息を少しだけ吐いた。
「……ありがとうございます。」
ハンスは振り返らない。
「礼はまだ早い。」
低く落ち着いた声だった。
ティスは少し迷ってから、胸に引っ掛かっていた疑問を口にする。
「どうして、自分がここへ来ると分かったんですか。」
ロッカート家の場所を知っていたわけではない。
まして当主本人が門の外で待っていた。偶然とは思えなかった。
ハンスは小さく鼻を鳴らす。
「リアン様のところから使者が飛んでいた。」
ティスは一瞬反応が遅れる。
リアン。そして、その名がリュートの本名であることを思い出した。
「今回は局面が大きく動くらしい。お前たちの動きは逐一耳へ入るようにしている。」
馬を歩かせながら、ハンスは続けた。
「政治も軍事も、生きた情報が全てだからな。」
兵が強くても。地位が高くても。情報が遅れれば負ける。
「騎士家が派閥を組む理由も、その多くは情報網の拡張のためだ。」
戦力だけではない。誰が何を知り、誰へ伝えるのか。その流れを共有することが、何より重要だった。
だが、とハンスは少し声を落とす。
「騎士家と貴族家の間では、基本的に情報は共有されん。騎士と貴族では根本的に欲しい情報が違うからな。」
ティスは静かに耳を傾けた。
「ただ、イース家が警戒しているのは、オルティス殿とリアン様が同じ場所にいたことだ」
本来なら接点の薄い二人。それが中央から遠く離れた辺境で結び付いてしまった。
ティスは違和感を覚える。
「でも、それなら……リュートさんが西の地に来る前からわかっていたことです。」
左遷先へ送り込めば接触する可能性くらい、誰でも考えつく。
それを承知で配置したのなら、今さら警戒するのはおかしい。
「状況が矛盾してませんか。」
ハンスは少しだけ驚いたような表情を見せた。
馬を馬小屋へ入れると、古びた椅子をティスへ勧め、自らは床へ座り込む。
少しだけ沈黙が流れた。そして静かに口を開く。
「……エヒト家は、もう解体されている。」
ティスは目を見開いた。
「リアン様が率いていた騎士団は解散した。領地も没収され、事実上の取り潰しだ。」
淡々とした口調だった。
だが、その内容はあまりにも重い。
「今のリアン様には、リテイア領内で務められる仕事がない。」
家名は残っていても、騎士家としての実態は失われていた。
「リアン様は個人としても指揮官としても優秀だ。だからこそ領外へ出ることも許されず、常に監視されていた。」
逃がさない。だが殺しもしない。飼い殺しにするための監視。
「追い詰められた末に、リアン様はそこを抜け出した。」
ハンスは少しだけ目を伏せる。
「連れて行けたのは従者二人と、甥一人だけだ。」
ティスは息を呑んだ。
辺境で見た人数が少なかった理由。あれは最初から少人数だったのではない。
逃げ切るために連れ出せた、最低限の人数だったのだ。
「イース家から見れば問題はそこだ。」
声が低くなる。
「監視網を突破され、思惑を……いや、面子を潰された。」
本来なら封じ込めたままで終わるはずだったエヒト家。
それが辺境でオルティスと接触し、再び動き始めた。
「だから中央に呼び戻し、事態を収められるのはリアン様ではない。オルティス殿だった。という話だ。」
ティスは静かに息を吐いた。
西の村の報告。それは表向きの理由にすぎない。中央が本当に知りたかったのは、辺境で何が起きたのか。
そして、オルティスとリアンが何を話したのか。ようやく、その全体像が見え始めていた。
やがて、ハンスは静かに立ち上がった。
「状況が落ち着くまで、お前にはここで動かずにいてもらう。」
ティスは反射的に顔を上げる。
「……軟禁、ですか。」
「いや。もう少し自由は少ない」
ハンスは首を横へ振った。それが当然の処置であるかのように告げられる。
ティスは少しだけ言葉を探した。
「でも、自分には父上からの指示が――」
アルネ家への訪問。他家との接触。情報収集。三日という限られた時間の中で、それらを行うよう命じられていた。
しかし、ハンスは静かに首を振る。
「オルティス殿か、リアン様が、お前に何か伝言を残しているはずだ。」
ティスは思わず眉を寄せる。
「伝言……ですか。」
ハンスは頷いた。
「その意味を、よく考えてみなさい、」
その言葉で、ティスは懐へ意識を向けた。
触れたのは、ロッカート家への紹介状。
そういえば、この屋敷へ入る時、その紹介状は一度も求められなかった。
ハンスは最初から、自分が誰なのか知っていた。
つまり、この紹介状はロッカート家へ入るためのものではなかった。
リュートから、自分へ託された何か。まだ気付いていない意味が、そこに隠されている。
ティスが考え込んでいる間に、ハンスはそれ以上何も語らなかった。
「来なさい。」
短く告げると、そのまま屋敷の奥へ歩き出す。
ティスも黙って後に続いた。
屋敷の造りは質実剛健だった。大貴族のような豪奢さはない。飾りも最小限。必要なものだけが整然と置かれ、武人の家らしい実用性が感じられる。
案内されたのは屋敷の中心部ではなく、建物の外れにある一室だった。
人の気配も少ない。普段から使われていない部屋なのだろう。
ハンスは扉を開ける。
「ここは空き部屋という扱いにしてある。」
室内は簡素だった。寝台と机、小さな棚があるだけ。
生活するには十分だが、人を迎えるための部屋ではない。
「従者もここには立ち入らん。食事などは限られた者だけが運ぶ。」
少し間を置き、付け加えた。
「ノックはしない。」
ティスは小さく目を瞬かせる。
「……え?」
「誰かがここを使っていると知られないためだ。」
その一言で全てを理解した。
この部屋を守るのではない。この部屋に人がいるという事実そのものを隠すのだ。
ハンスは最後に、これまでで最も強い口調になった。
「部屋から決して出るな。」
ティスは息を飲む。
「窓にも不用意に近付くな。灯りも必要以上につけるな。」
万が一、外から人影でも見られれば、それだけで隠している意味がなくなる。
「今のお前は、存在を知られないこと自体が身を守ることに繋がる。」
静かな言葉だったが、その重みは十分に伝わった。
ティスはゆっくりと頷く。
「……分かりました。」
ハンスはそれ以上何も言わず、小さく頷き返した。
そして静かに部屋を出る。扉が閉まる。
廊下を遠ざかる足音がやがて消え、屋敷は静寂に包まれた。
ティスはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
領都へ辿り着いた。だが自由になったわけではない。むしろ今、自分は初めて完全に外の世界から切り離されたのだった。




