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20/32

20 疾走

やがて山裾を下り切ると、視界が一気に開けた。

草原がどこまでも続き、その中央を一本の街道が貫いている。山際の閉塞感が嘘のように消え、空さえ広くなったように感じられた。

オルティスはそこでようやく速度を落とす。

早足から常歩へ。

荒かった馬たちの呼吸も、少しずつ落ち着きを取り戻していく。


ティスは、その瞬間を待っていた。

「父上。」

オルティスが視線だけを向ける。

ティスは少しだけ間を置き、静かに口を開いた。

「……リテイアへ着いた後、自分はどう動けばいいんですか。」

恐らく、落ち着いて話を聞ける最後の時間だった。

領都へ入れば、父は報告に追われる。監視も増え、こうして自由に話せる機会はなくなるだろう。

オルティスもそのことは理解しているらしかった。

「到着後、俺は中央詰所へ向かう。」

短く告げる。その一言だけで、ティスの胸にわずかな重みが落ちた。

中央詰所。領都の騎士たちが詰める、公的な防衛施設だ。

「恐らく、そこで拘束される。」

淡々とした口調だった。

ティスの指先に、わずかに力が入る。


だが、オルティスの表情には焦りも不安もなかった。

「心配はいらん。中央詰所へ入れば、露骨な暗殺は難しくなる。報告が終わるまでは、命を繋ぎやすい。」

ティスは静かに息を吐いた。

もちろん安心はできない。イース家が体裁すら捨てるなら、その場で斬り捨てられる可能性もある。

それでも、「すぐ命を奪われる場所ではない」と父が言うだけで、胸を締め付けていた圧迫感が少しだけ和らいだ。

オルティスは続ける。

「最初の二日間は、調書と各家との面談だ。」

状況確認、報告事項の整理。時には雑談のようなやり取りも交えながら、それぞれの家が情報を集める。

「三日目に、現侯へ正式な報告を行う。」

そこまで聞いて、ティスは理解した。

その三日間、自分は自由に動ける。だからこそ、自分に任せたい役目があるのだ。

オルティスは小さく頷いた。

「お前はアルネ家を含め、できるだけ多くの家へ接触し、情報を集めろ。」

ティスは真剣な表情で耳を傾ける。

「会えた家。拒否した家。保留した家。それを整理して覚えておけ。」

一拍置いて、静かに続けた。

「それがお前自身の財産になる。」

誰が会い、誰が距離を置き、誰が態度を決めかねているのか。それだけでも、今の政局はある程度見えてくる。

ティスは黙って頷いた。

「ロッカート家にも顔を出せ。馬はあそこへ預けておくといい。」

リュートの紹介状があれば面会はできる。帰路を考えれば、信頼できる騎士家との繋がりは欠かせない。


そこまで話すと、オルティスは懐へ手を入れた。

取り出したのは、三通の封書だった。

ティスの胸が、小さくざわつく。

オルティスは何も言わず、その封書を差し出した。

ティスは両手で受け取る。封書そのものは軽い。それでも、掌へ乗った瞬間、不思議なほど重く感じられた。

「以前話した三つの道は覚えているな。」

「……はい。」

ティスは静かに答える。

オルティスは前を向いたまま言った。

「三日目までに、進路を決めておけ。」

淡々とした声だった。だが、その言葉の意味は重かった。

場合によっては、父と別れる。その可能性を、オルティスはすでに現実として受け入れている。

ティスはしばらく封書を見つめ、それから静かに外套の内側へしまい込んだ。

今、この瞬間に父のもとを離れるつもりはない。少なくとも、自分の気持ちはそうだった。

それでも理解している。これは単なる選択肢ではない。

父が、自分だけでも生き残れるように用意した――最後の退路なのだ。


日が西へ傾き始めた頃だった。

長く伸びた影が街道へ落ち、乾いた風が草原を渡っていく。

その時だった。一定だった空気の流れに、わずかな異音が混じる。

ティスは顔を上げた。

――馬蹄。

まだ遠いが、複数の馬が地面を打つ重い音が、かすかに大地を震わせていた。

振り返る。街道の向こうに砂塵が舞っている。

胸が小さく締め付けられた。

ついに追いつかれた。

オルティスは振り返らない。それでも気付いていないはずがない。

「鞭を入れろ!」

鋭い声が飛ぶ。

ティスは反射的に腹へ合図を送った。

馬が大きく前へ躍る。視界が一気に流れ始める。風圧が頬を叩き、草原が帯のように横へ流れていく。

オルティスも並ぶように加速した。

だが、ティスはすぐ理解した。差は縮まっている。

こちらは長距離移動にようやく慣れ始めたばかり。

対する相手は騎士。追跡も騎乗戦も熟知している。


馬蹄が、確実に近づいてくる。後方から怒鳴り声が響いた。停止命令か、降伏勧告か。

風と蹄音にかき消され、その内容までは聞き取れない。だが、仮に聞き取れたとして、従う理由などなかった。

その瞬間、耳元を鋭い風切り音が抜けた。

思考が止まる。

何が起きたのか理解するより先に、背筋へ冷たいものが走る。

矢だ。

一本目は大きく逸れ、ティスの横を抜けていった。

威嚇。そう判断した直後、再び怒声が響く。

そして二本目。

今度はさらに近い。威嚇ではない。本気で射始めている。

ティスの喉が強張った。

落馬すれば終わる。追いつかれる。あるいは、このまま射抜かれる。

そう思った瞬間だった。

後方で白い閃光が炸裂した。視界の端が一瞬だけ真っ白に染まる。

続いて轟音。空気そのものが破裂したような衝撃が草原へ響き渡った。


馬の悲鳴。怒号。隊列が一気に乱れる。

さらに一本、矢が飛ぶ。

だが先ほどまでとは違う。大きく逸れ、草地へ突き刺さった。

ティスは横を見る。オルティスの手には、小さな単筒。もう片方には革袋。魔晶石の欠片が入っていた袋だった。

先日買い集めたもの。そして形は、リュートから渡された単筒によく似ている。

オルティスの表情は変わらない。

混乱した、その一瞬だけを利用するように速度を維持する。

二頭はただ前だけを目指した。

長い時間ではないが、馬は全力で走り続ける。

脚越しに馬の熱が伝わる。泡立つ汗が首筋を濡らしていた。

それでも止まらない。主人を運ぶためだけに、懸命に脚を動かし続けていた。


やがてオルティスが手を上げる。減速の合図だった。駆け足から早足へ。さらに速度を落としながらも、オルティスはすぐには気を緩めない。

何度も後方へ目を向ける。

風。草の揺れ。馬の鼻息。耳を澄ませ続けた後、ようやく小さく息を吐いた。

「……当面は追って来られんだろう。」

その声を聞いて、ティスもようやく息を吐き出す。

全身が重い。腕も脚も痺れている。気付けば、手綱を握る手は汗で濡れていた。

「あの速度で混乱すれば、数騎は落馬したはずだ。暗くなり始めているからな。立て直すにも時間がかかる。」

淡々とした声。その静けさが、かえって現実味を帯びていた。

駆け足での落馬。しかも薄暗くなり始めた街道。確かに無事では済まないだろう。

二頭はそのまま常歩へ落とし、ゆっくりと進み始めた。

これ以上速度を上げないのは、馬が限界に近いからだ。



長時間の移動。連日の早足。そして最後の全力疾走。肩は汗で濡れ、呼吸も深い。

それでも二頭は、一歩ずつ前へ進み続けていた。

夜風が吹き抜ける。

緊張が少しだけほどけ、ティスはようやく周囲を見る余裕を取り戻した。

平原の彼方。夜の闇の中に、無数の灯が浮かんでいる。最初は星かと思った。

だが違う。

「あれが……」

「リテイアだ。」

オルティスが短く答えた。

領都リテイア。


地方都市とは比べものにならない規模を持つ中心都市。

その灯は、夜の平原からでもはっきりと見えるほど巨大だった。

ティスは静かに息をのむ。

ようやく辿り着いた。だが、本当の戦いはここから始まる。

しばらく灯を見つめた後、ティスは小さく口を開いた。

「……どうやって中へ入るんですか。」

オルティスが視線だけを向ける。

「敵対している人たちがいるなら、城門で止められる可能性もありますよね。」

追手を振り切っても、入口で捕まれば意味がない。

だがオルティスは、珍しく口元をわずかに緩めた。

「手はある。」

懐から一枚の証書を取り出す。

商業組合の印が押された通行許可証だった。

「商人用の通行許可証だ。」

ティスは目を瞬かせる。

「そんな物まで……」

「通商管理も仕事の一つだったからな。複数持っていても不自然ではない。」

潜り込む準備まで、最初から終えていた。

ティスは苦笑しそうになる。

追跡。補給。侵入経路。父は見えない相手のことも条件に入れながら、きちんとこの数日の動きを設計し行動している。

オルティスは証書を懐へ戻した。

「もっとも、恐らく普通に通れる。」

「そうなんですか。」

「ああ。上と現場では判断基準が違う。守備兵の全員がイース家に従っているわけではない。」

ラティス家。アルネ家。古くからの騎士家。長年積み重ねられた力関係は、一朝一夕では消えない。

「私の顔を見れば通す兵も多い。」

ティスは静かに頷いた。

中央は敵地に近い。だが、完全な敵地ではない。

夜の平原を二頭の馬がゆっくり進んでいく。

領都の灯は、少しずつ大きくなっていた。

長い逃避行は終わる。そして始まるのは――中央で、生き残るための戦いだった。

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