20 疾走
やがて山裾を下り切ると、視界が一気に開けた。
草原がどこまでも続き、その中央を一本の街道が貫いている。山際の閉塞感が嘘のように消え、空さえ広くなったように感じられた。
オルティスはそこでようやく速度を落とす。
早足から常歩へ。
荒かった馬たちの呼吸も、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
ティスは、その瞬間を待っていた。
「父上。」
オルティスが視線だけを向ける。
ティスは少しだけ間を置き、静かに口を開いた。
「……リテイアへ着いた後、自分はどう動けばいいんですか。」
恐らく、落ち着いて話を聞ける最後の時間だった。
領都へ入れば、父は報告に追われる。監視も増え、こうして自由に話せる機会はなくなるだろう。
オルティスもそのことは理解しているらしかった。
「到着後、俺は中央詰所へ向かう。」
短く告げる。その一言だけで、ティスの胸にわずかな重みが落ちた。
中央詰所。領都の騎士たちが詰める、公的な防衛施設だ。
「恐らく、そこで拘束される。」
淡々とした口調だった。
ティスの指先に、わずかに力が入る。
だが、オルティスの表情には焦りも不安もなかった。
「心配はいらん。中央詰所へ入れば、露骨な暗殺は難しくなる。報告が終わるまでは、命を繋ぎやすい。」
ティスは静かに息を吐いた。
もちろん安心はできない。イース家が体裁すら捨てるなら、その場で斬り捨てられる可能性もある。
それでも、「すぐ命を奪われる場所ではない」と父が言うだけで、胸を締め付けていた圧迫感が少しだけ和らいだ。
オルティスは続ける。
「最初の二日間は、調書と各家との面談だ。」
状況確認、報告事項の整理。時には雑談のようなやり取りも交えながら、それぞれの家が情報を集める。
「三日目に、現侯へ正式な報告を行う。」
そこまで聞いて、ティスは理解した。
その三日間、自分は自由に動ける。だからこそ、自分に任せたい役目があるのだ。
オルティスは小さく頷いた。
「お前はアルネ家を含め、できるだけ多くの家へ接触し、情報を集めろ。」
ティスは真剣な表情で耳を傾ける。
「会えた家。拒否した家。保留した家。それを整理して覚えておけ。」
一拍置いて、静かに続けた。
「それがお前自身の財産になる。」
誰が会い、誰が距離を置き、誰が態度を決めかねているのか。それだけでも、今の政局はある程度見えてくる。
ティスは黙って頷いた。
「ロッカート家にも顔を出せ。馬はあそこへ預けておくといい。」
リュートの紹介状があれば面会はできる。帰路を考えれば、信頼できる騎士家との繋がりは欠かせない。
そこまで話すと、オルティスは懐へ手を入れた。
取り出したのは、三通の封書だった。
ティスの胸が、小さくざわつく。
オルティスは何も言わず、その封書を差し出した。
ティスは両手で受け取る。封書そのものは軽い。それでも、掌へ乗った瞬間、不思議なほど重く感じられた。
「以前話した三つの道は覚えているな。」
「……はい。」
ティスは静かに答える。
オルティスは前を向いたまま言った。
「三日目までに、進路を決めておけ。」
淡々とした声だった。だが、その言葉の意味は重かった。
場合によっては、父と別れる。その可能性を、オルティスはすでに現実として受け入れている。
ティスはしばらく封書を見つめ、それから静かに外套の内側へしまい込んだ。
今、この瞬間に父のもとを離れるつもりはない。少なくとも、自分の気持ちはそうだった。
それでも理解している。これは単なる選択肢ではない。
父が、自分だけでも生き残れるように用意した――最後の退路なのだ。
日が西へ傾き始めた頃だった。
長く伸びた影が街道へ落ち、乾いた風が草原を渡っていく。
その時だった。一定だった空気の流れに、わずかな異音が混じる。
ティスは顔を上げた。
――馬蹄。
まだ遠いが、複数の馬が地面を打つ重い音が、かすかに大地を震わせていた。
振り返る。街道の向こうに砂塵が舞っている。
胸が小さく締め付けられた。
ついに追いつかれた。
オルティスは振り返らない。それでも気付いていないはずがない。
「鞭を入れろ!」
鋭い声が飛ぶ。
ティスは反射的に腹へ合図を送った。
馬が大きく前へ躍る。視界が一気に流れ始める。風圧が頬を叩き、草原が帯のように横へ流れていく。
オルティスも並ぶように加速した。
だが、ティスはすぐ理解した。差は縮まっている。
こちらは長距離移動にようやく慣れ始めたばかり。
対する相手は騎士。追跡も騎乗戦も熟知している。
馬蹄が、確実に近づいてくる。後方から怒鳴り声が響いた。停止命令か、降伏勧告か。
風と蹄音にかき消され、その内容までは聞き取れない。だが、仮に聞き取れたとして、従う理由などなかった。
その瞬間、耳元を鋭い風切り音が抜けた。
思考が止まる。
何が起きたのか理解するより先に、背筋へ冷たいものが走る。
矢だ。
一本目は大きく逸れ、ティスの横を抜けていった。
威嚇。そう判断した直後、再び怒声が響く。
そして二本目。
今度はさらに近い。威嚇ではない。本気で射始めている。
ティスの喉が強張った。
落馬すれば終わる。追いつかれる。あるいは、このまま射抜かれる。
そう思った瞬間だった。
後方で白い閃光が炸裂した。視界の端が一瞬だけ真っ白に染まる。
続いて轟音。空気そのものが破裂したような衝撃が草原へ響き渡った。
馬の悲鳴。怒号。隊列が一気に乱れる。
さらに一本、矢が飛ぶ。
だが先ほどまでとは違う。大きく逸れ、草地へ突き刺さった。
ティスは横を見る。オルティスの手には、小さな単筒。もう片方には革袋。魔晶石の欠片が入っていた袋だった。
先日買い集めたもの。そして形は、リュートから渡された単筒によく似ている。
オルティスの表情は変わらない。
混乱した、その一瞬だけを利用するように速度を維持する。
二頭はただ前だけを目指した。
長い時間ではないが、馬は全力で走り続ける。
脚越しに馬の熱が伝わる。泡立つ汗が首筋を濡らしていた。
それでも止まらない。主人を運ぶためだけに、懸命に脚を動かし続けていた。
やがてオルティスが手を上げる。減速の合図だった。駆け足から早足へ。さらに速度を落としながらも、オルティスはすぐには気を緩めない。
何度も後方へ目を向ける。
風。草の揺れ。馬の鼻息。耳を澄ませ続けた後、ようやく小さく息を吐いた。
「……当面は追って来られんだろう。」
その声を聞いて、ティスもようやく息を吐き出す。
全身が重い。腕も脚も痺れている。気付けば、手綱を握る手は汗で濡れていた。
「あの速度で混乱すれば、数騎は落馬したはずだ。暗くなり始めているからな。立て直すにも時間がかかる。」
淡々とした声。その静けさが、かえって現実味を帯びていた。
駆け足での落馬。しかも薄暗くなり始めた街道。確かに無事では済まないだろう。
二頭はそのまま常歩へ落とし、ゆっくりと進み始めた。
これ以上速度を上げないのは、馬が限界に近いからだ。
長時間の移動。連日の早足。そして最後の全力疾走。肩は汗で濡れ、呼吸も深い。
それでも二頭は、一歩ずつ前へ進み続けていた。
夜風が吹き抜ける。
緊張が少しだけほどけ、ティスはようやく周囲を見る余裕を取り戻した。
平原の彼方。夜の闇の中に、無数の灯が浮かんでいる。最初は星かと思った。
だが違う。
「あれが……」
「リテイアだ。」
オルティスが短く答えた。
領都リテイア。
地方都市とは比べものにならない規模を持つ中心都市。
その灯は、夜の平原からでもはっきりと見えるほど巨大だった。
ティスは静かに息をのむ。
ようやく辿り着いた。だが、本当の戦いはここから始まる。
しばらく灯を見つめた後、ティスは小さく口を開いた。
「……どうやって中へ入るんですか。」
オルティスが視線だけを向ける。
「敵対している人たちがいるなら、城門で止められる可能性もありますよね。」
追手を振り切っても、入口で捕まれば意味がない。
だがオルティスは、珍しく口元をわずかに緩めた。
「手はある。」
懐から一枚の証書を取り出す。
商業組合の印が押された通行許可証だった。
「商人用の通行許可証だ。」
ティスは目を瞬かせる。
「そんな物まで……」
「通商管理も仕事の一つだったからな。複数持っていても不自然ではない。」
潜り込む準備まで、最初から終えていた。
ティスは苦笑しそうになる。
追跡。補給。侵入経路。父は見えない相手のことも条件に入れながら、きちんとこの数日の動きを設計し行動している。
オルティスは証書を懐へ戻した。
「もっとも、恐らく普通に通れる。」
「そうなんですか。」
「ああ。上と現場では判断基準が違う。守備兵の全員がイース家に従っているわけではない。」
ラティス家。アルネ家。古くからの騎士家。長年積み重ねられた力関係は、一朝一夕では消えない。
「私の顔を見れば通す兵も多い。」
ティスは静かに頷いた。
中央は敵地に近い。だが、完全な敵地ではない。
夜の平原を二頭の馬がゆっくり進んでいく。
領都の灯は、少しずつ大きくなっていた。
長い逃避行は終わる。そして始まるのは――中央で、生き残るための戦いだった。




