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19/32

19 遅れてきた駆け引き

四日目。

オルティスの言葉どおり、二人はまだ夜の気配が残る頃に宿を発った。

空は暗く、東の空だけがわずかに白み始めている。

宿場の灯りもまだ消え切っておらず、遠くでは酒場の笑い声が名残のように響いていた。

冷えた空気の中、ティスは眠気の残る身体で馬へ跨る。

脚も腰も重い。ここ数日の疲労は確実に積み重なっていた。

それでも鐙へ足を掛け、鞍へ腰を下ろす動作は、もう自然に身体が覚えている。

二人は静かに宿場を離れた。

湿り気を含んだ街道へ、蹄の音だけが規則正しく響いていく。

ふと、ティスは何気なく後ろを振り返った。

宿場の建物の影。細い路地の奥。はっきりとは見えない。

だが、人影のようなものが一瞬だけ横切った気がした。

胸の奥に、小さなざわめきが生まれる。


常歩のまま、一定の速さで街道を進んでいく。

ティスは少し迷ってから口を開いた。

「今日は急がないんですか。」

「まだ急がない。」

短い返答だった。

ティスは続ける。

「……人影を見た気がしました。」

オルティスはすぐには答えない。周囲へ意識を向けたまま、静かに言う。

「今は周囲を見ろ。静かにな。」

その一言で、ティスも口を閉じた。

それからしばらく、二人の間に会話はなかった。

風が草を揺らす音。馬の吐息。鳥の鳴き声。街道を打つ蹄の音。一つ一つの音が、妙にはっきりと耳へ届く。

オルティスは前だけを見ているわけではなかった。

耳で音を拾い、風の流れを感じ、草の揺れ方を眺め、周囲そのものを探るように進んでいる。

ティスにも、その理由が少しずつ分かるようになってきていた。


やがて、オルティスの左手が小さく動く。

合図だった。

次の瞬間、馬首が鋭く返される。街道を飛び出し一気に草原へ躍り出た。

「っ……!」

ティスも反射的に手綱を操り、その後を追う。

足元が変わる。踏み固められた街道ではない。柔らかな土。隠れた起伏。丈の長い草。

それでもオルティスの馬は迷わず速度を上げた。

早足から駆け足へ。風が一気に顔へ叩きつけられる。激しい揺れに身体が浮き、視界が大きく跳ねた。


その瞬間だった。ティスの馬が、乗り手の緊張を感じ取ったように、わずかに歩幅を縮める。

ティスは慌てて姿勢を整えた。脚で身体を支え、重心を鞍へ預ける。

その間にも、父との距離が少しずつ開いていく。

オルティスはすぐに気付いた。

速度をわずかに落とし、ティスが追いつけるだけの間隔を保つ。

二頭の距離はゆっくりと縮まり、やがて再び並んだ。


そこから先は、言葉を交わす余裕もなかった。

草原を切り裂くように馬を走らせ続ける。風が耳元で鳴り続ける。腿は熱を帯び、息は次第に荒くなる。

どれほど走ったのか。感覚では短くも長くも思えた。

やがてオルティスが手綱を緩める。

馬はゆっくりと速度を落とし、常歩へ戻った。

それでもオルティスの警戒は解けない。視線は絶えず草原を巡り、風向きを読み、遠くの木立を確かめ、

馬の耳の動きにまで意識を向けている。

ティスも呼吸を整えながら周囲を見回した。

街道はもう見えない。見渡す限り草原が広がり、その向こうには山裾が横たわっている。

人影はない。追ってくる気配も感じられない。乾いた風だけが草を大きく揺らしていた。

やがて山裾が近づいたところで、オルティスは馬を止める。

「ここで休ませる。」

短く告げると、自ら先に馬を降りた。


移動中以外では珍しく、オルティスが口を開いた。

「ここからは、山裾をかすめながら平地を進む。」

ティスは黙って耳を傾ける。

「そのままリテイアまで一直線だ。」

初めて、ここから先の道筋を明かした。

つまり、大きく進路を変えることはもうない。ここから先は、細かな駆け引きではなく速度勝負になる。

そう理解したところで、オルティスが続けた。

「さっき、お前が見た人影だが――恐らく、あのマルク家の間者だ。」

やはり見間違いではなかった。

ティスは無意識に手綱を握り直す。

「この数日、マルク家とは見えない駆け引きが続いていた。」

風が吹き抜ける。草がさわさわと揺れ、その音だけが二人の間を流れた。

「最初の日。こちらは『街道を馬車で進む』と伝えていた。」

ティスはすぐに思い至る。

あの日、オルティスは騎士から協力を得られたと言っていた。表向きは街道での護衛を頼んだように見える。

だが実際には――追手を主要街道へ誘導するための情報だった。

「あえて、待ち伏せさせたんですか。」

「ああ。」

オルティスは頷く。

「主要街道側へ人を配置し、待ち構えていたはずだ。襲撃にせよ連行にせよ、向こうはそのつもりで準備していたのだろう。それに馬車なら速度も限られる。こちらが動き出して彼らの警戒網にかかるまで時間がかかることで時間稼ぎにもなる。」


だが実際には違った。オルティスたちは馬で出立し、そのまま山方面へ進路を変えた。

「想定を大きく外されたことで、向こうは焦ったはずだ。」

静かな声だった。

「だから二日目は、最短ルートを全速力で我々の方面へ移動していたはずだ。」

しかし、その読みも外れる。こちらは途中で道筋を変え、旧街道へ抜けた。

二度目の空振りになっているはずだ。

ティスは小さく息を吐く。

「三日目になると、向こうも学習する。」

オルティスは続けた。

「再び進路を変える可能性を考え始める。だが決めつけて動けば、また外す危険がある。さらに、ただ捕まえられなかったというだけでは、主君のイース家にも顔向けができんだろうな。」

だから。

「主要ルートを押さえつつ、間者を散らし、こちらの動向を確実に補足する。」

ティスの脳裏に、今朝見た人影が浮かぶ。

「あれが……」

「恐らく、その一人だ。」

オルティスは頷く。

「役目は確認だ。人数、進路、速度。それを本隊へ伝える。奴らも四日目中には進路を絞り込みたいはずだからな。」


つまり。こちらは既に発見されている。だが、本隊はまだ追いついていない。その事実が、じわりと緊張を呼び起こす。

オルティスは娘の様子を気にすることもなく、淡々と続けた。

「このまま街道を進めば、昼過ぎには宿場へ着く。」

ティスは頷く。

「そこで休めば、追手は我々を追い越し再び包囲網を作ることになるだろう。」

まるで盤上を読み上げるような口調だった。

ティスは少し考え込む。

「……さっき街道を外れたのは、相手の予測を乱すためですか。」

オルティスは首を横へ振った。

「違う。ここまで警戒している相手だ。その程度の行動は、もう織り込み済みだろう。」

進路変更も。速度調整も。街道外しも。相手は既に学習している。

「今回の変更は、『こちらはまだ相手を翻弄できている』と理解していると勘違いさせるためだ。」

ティスは言葉の意味を理解できず、思わず父を見る。


オルティスは静かに説明を続けた。

「向こうは、こちらが昼過ぎに宿場へ入ると考える。」

ならば。明日は川を渡る。どの橋を使うか。どこで待ち伏せするか。その準備を始める。

「だが今日は、宿場へ寄らず、そのままリテイアまで走る。」

ティスは目を見開いた。

「休まずに……ですか。」

「ああ。」

短い返答だった。

宿場へ寄らない。つまり休息も補給も捨てるということだ。

ティスは草原の彼方を見つめる。追手の姿は見えない。だが距離は、確実に縮まっている。

その追跡すら計算に入れた上で、オルティスは最後の駆け引きを組み立て終えていた。


ティスはなおも考え込んでいた。

ここ数日の動きを頭の中で並べ直していく。

すると、一つだけ腑に落ちない点が残った。

「……でも。」

川辺へ視線を落としたまま口を開く。

「二日目に旧街道へ抜けた時点で、完全に補足されていてもおかしくありませんでしたよね。」

オルティスは小枝を火へくべながら答えた。

「そのために、最初の宿場で鞍を調整させた。」

ティスははっと息を呑む。

初日の夕方。馬番へ銀貨を渡し、山越え用に鞍を調整させていた。

「あれは、『こちらは山へ入る』という情報を流すためだ。」

焚き火が小さく爆ぜる。

ティスは思わず苦笑した。

「……宿場にも見張りがいたんですね。」

「この領では、宿場は流通網であり情報網でもある。」

オルティスは静かに言う。

「人の出入り、荷の量、馬の状態。宿場には自然と情報が集まる。」

騎士団が関われば、なおさらだ。

「追跡対象が最初から決まっているなら、伝達も早い。狼煙でも旗でも、目標が通過したことはすぐ伝わる。」

ティスは周囲を見回した。

ただの街道。ただの宿場。そう思っていた景色が、まるで違って見える。

最初から、自分たちは見られながら走っていた。

その上で父は、相手へ誤った情報を流し続けていたのだ。

ティスは改めて父の横顔を見る。その頭の中では、ずっと盤面が動き続けている。

相手はどこで焦るのか。どこで判断を誤るのか。どこで追いつくのか。その全てを先回りして考えている。


オルティスは火の中へ小さな炭を放り込んだ。

赤く熱を帯びた炭が、じわりと輝きを増す。

ティスはその様子を見つめながら尋ねる。

「この焚き火も、追跡対策ですか。」

「ああ。」

オルティスは頷く。

「追う側は、炭の温度で通過時間を読むことがある。」

火だけなら、おおよその経過時間は分かる。だが炭を加えれば、見た目以上に熱が残る。

「経験の浅い相手なら、それだけで時間を読み違える。」

ティスは小さく息を漏らした。

「そんなところまで見るんですね。」

「ああいう、小賢しい者ほどな。」

オルティスは淡々と言う。

「だが、リュートなら火だけでは判断しない。」

草の倒れ方。馬糞の乾き具合。泥の付き方。蹄跡の崩れ方。そうした痕跡を総合して見る。

「だから炭だけでは騙せん。」

ティスは静かに頷く。

父は、ただ逃げているのではない。

相手がどう考え、何を信じ、どこで焦るのか。その思考そのものを操りながら走っている。

その駆け引きも、もう終盤だった。川辺を渡る風が、焚き火の煙を細く揺らす。

オルティスは煙の流れを一瞥すると、静かに立ち上がった。

「休憩は終わりだ。」

鞍へ手を掛けながら続ける。

「ここからは、あまり休めなくなる。」

その声音には、これまでよりわずかに緊張が滲んでいた。


川辺で十分に休ませたことで、馬たちの呼吸は落ち着きを取り戻していた。

水を飲み、草を食み、汗もある程度引いている。疲労が消えたわけではない。それでも、長距離を走り続けるための戻し方としては十分なのだろう。

オルティスは馬の脚元を一度確認すると、無言で鞍へ跨った。

ティスもそれに続く。

ここまでの道は、山裾に沿って緩やかな登りが続いていた。そのぶん馬の脚にも負担が掛かっていたのだろう。

だが、ここから先は違う。地面は少しずつ下りへ変わり、木々もまばらになっていく。


視界が開け、遠くの空まで見渡せるようになった頃、オルティスが手綱を軽く動かした。

馬が速度を上げる。常歩から早足へ。規則正しい上下動が再び身体を揺さぶる。

ティスも腹を軽く蹴り、すぐに後を追った。風が頬を叩く。数日前なら、それだけで身体が強張っていた。

だが今は違う。揺れに合わせて腰が自然に動く。鐙へ体重を預け、脚で馬体を挟む。必要以上に手綱を引くこともない。馬の動きへ逆らわず、自分の身体を預ける。

すると、不思議なほど揺れが小さく感じられた。

馬もまた、それに応えるように一定の歩調を刻んでいく。

気付けば、オルティスの馬とほとんど並ぶ位置を保てていた。

以前なら、少し速度が上がるだけで置いていかれていた。

今は違う。追いつこうと力むこともなく、自然とその位置を維持できている。

ティスは揺れる景色の中、小さく息を吐いた。

――慣れてきている。身体が覚え始めている。その実感は、ほんの少しだけ胸を軽くした。

だが同時に思う。まだ父には及ばない。

荒れ地でも草原でも、速度を変えても姿勢一つ乱さない。その背中は、なお遠かった。

だからこそ。ティスは手綱を握り直し、その背を見失わないよう静かに馬を走らせた。

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