18 三つの道
三日目の朝。
空は薄く霞み、夜露を含んだ風が街道を撫でていた。
宿場の門を抜ける頃になっても、陽はまだ完全には昇り切っていない。東の空が白み始めたばかりだった。
オルティスは今日も無駄な言葉を挟まず、静かに馬を進める。
ティスも、その背を追った。
蹄の音だけが、朝の静けさへ一定の調子を刻んでいく。
今日の道も、昨日に続いて走りやすかった。
森道でも獣道でもない。かつて主要街道として使われていた石畳の道だ。
昨日よりも中央へ近づく道だからだろうか。補修の跡も所々に残り、石畳こそ割れているものの、路面は比較的平らに保たれていた。
土が露出している場所はある。それでも草は短く、馬の足を取るほどではない。
馬も歩きやすさを感じているのか、耳を揺らしながら安定した歩調を刻んでいた。
ティスは馬上で小さく息を吐く。
気づけば、身体の強張りは以前ほどではなくなっていた。
最初は揺れるたび身体が浮き、手綱へ余計な力が入り、馬の動きに振り回されていた。
だが今は違う。
上下の揺れに合わせて自然と腰が動く。脚の位置も安定し、身体が勝手に馬の動きを受け止める。
無理に乗ろうとしなくなったことで、かえって馬と呼吸が合い始めていた。
不思議な感覚だった。もともと馬に触れた経験がないわけではない。
貴族として最低限の騎乗は学び、世話を手伝ったこともある。
だが、それと旅はまるで違った。
数刻をともに過ごし、呼吸を合わせ、疲れ具合まで感じ取りながら進む。
手綱を引く強さ。脚で伝える圧。視線を向ける方向。
その一つひとつへ馬が応え、こちらもまた馬が何を望んでいるのか少しずつ分かるようになる。
言葉は交わせないが、確かに意思が通い始めていた。
(……これが、騎乗。)
ティスは馬の首筋へ目を向ける。
朝日に照らされた毛並みには、うっすらと汗が滲んでいた。
遠くに連なる山並みを横目にその裾を大きく迂回しながら進んでいく。
ティスは前を行く父の背を見る。
馬は変わらぬ歩調で進み続ける。
早足。長距離移動では最も効率が良い速度だ。
常歩より速く、駆け足ほど消耗しない。
だからこそ、何時間でも続けられる。
その分、乗る側にもじわじわと疲労が積み重なっていく。
昨日までの疲れも残っていた。腿の内側も腰も重い。
それでも、もう弱音は吐かなかった。
父は一度も「大丈夫か」と尋ねない。
聞かないということは、ついて来られると判断しているということだ。
ならば、それに応えたい。
そんな意地にも似た気持ちが、胸の奥で静かに育ち始めていた。
やがて陽が高く昇った頃、オルティスが片手を軽く上げる。
停止の合図だった。二人は街道脇へ馬を寄せる。木陰があり、近くには細い水場も流れていた。
周囲を一通り見渡してから、オルティスが馬を降りる。
「少し休ませる。」
短い指示だった。
ティスも慣れた手つきで馬具を緩め始める。
最初は手間取っていた固定具も、今では迷うことなく扱える。
鞍を少し浮かせ、背へこもった熱を逃がす。汗をかいたまま走らせ続ければ、馬の背は傷つく。
先に潰れるのは人ではなく馬だ。
長旅とは、そうした小さな積み重ねなのだと、ようやく実感できるようになっていた。
馬は鼻を鳴らしながら草を食み始める。
ティスは首筋へそっと手を添えた。汗を含んだ毛並みの向こうから、温かな体温が伝わってくる。
(この子も、疲れてるんだな。)
当たり前のことなのに、その実感は新鮮だった。
ティスは首筋を優しく撫でる。馬は耳をぴくりと動かした。
その間に、オルティスは昼食の支度を始めていた。
携帯用の黒パンを短剣で切り開き、潰した芋のペーストを塗る。塩気の強い干し肉を挟み、少量の葉物を添える。
保存性と塩分を重視した、質素な旅の食事だった。
ティスは近くの湧き水へ向かい、水袋を満たす。手を浸せば、冷たい水が火照った肌を引き締めた。
軽く顔を洗い、戻る頃には、食事の準備はすべて整っていた。
二人は並んで腰を下ろす。
黒パンをかじり、水で喉を潤す。
それでも会話はない。
話は移動中だけ。
それが、この旅の決まりだった。
聞こえるのは風の音。草を食む馬の咀嚼。遠くで鳴く鳥の声。
静かな昼だった。
その静けさの奥で、ティスの胸には昨日から消えない疑問が残り続けている。
――父は、何を切り札に中央へ戻ろうとしているのか。
その答えだけは、まだ見えていなかった。
昼食を終えると、二人は再び馬に跨った。
今度は早足ではなく、常歩で進む。歩幅を揃えるようなゆるやかな速度は、馬の負担を抑えるだけでなく、自然と会話を交わせる余裕も生み出していた。
山裾をなぞるように続く街道を、風が静かに吹き抜ける。草原は波打つように揺れ、遠くでは鳥の鳴き声が響いていた。
ティスはしばらく口を開かなかった。
昨日から聞き続けてきた話が、頭の中で少しずつ繋がり始めている。だからこそ、今は漠然と疑問を重ねるよりも、本当に知るべきことを尋ねたかった。
やがて意を決し、前を向いたまま問いかける。
「父上は、今回の報告の結果をどう予測しているんですか。」
オルティスはすぐには答えなかった。
街道の先を見据えたまま、しばらく風の音だけが二人の間を流れる。
やがて静かに口を開いた。
「まず、領都へ到着する前に暗殺される可能性がある。」
あまりにも淡々とした口調だった。
一瞬、意味を理解できず、ティスは言葉を失う。
「……そこまでですか。」
「ああ。」
返事は短い。
「ただし、報告の場にさえ出れば、表立って事は起こせん。」
正式な報告の席で、西の流刑地の現状を報告する。それだけの話だ。
そこで露骨な排除に動けば、イース家は政敵だけでなく他家からも疑念を招く。新体制そのものの求心力を損なう危険がある。
「結論としては、大きな問題もなく任地へ戻れ、という形になるだろう。」
ティスは静かに頷いた。
「……問題は、その後ですね。」
「そうだ。」
オルティスの視線は前から動かない。
「イース家にとっては、私が手の届くところにいながら無事に帰るのは、面白くないだろうな。」
正式な場を終え、無事に帰される。
それはつまり、政敵がまだ生きているという事実を残すことになる。
「だから領都を出た瞬間から追撃が始まる。」
ティスの指先に力が入る。握った手綱がわずかに軋んだ。
「リュートさんの紹介状は……」
「ロッカート家か。エヒト家閥の中堅騎士家だ。組織戦に長け、街道沿いの護衛網にも一定の発言力を持っている。」
ティスは小さく息を吐く。
騎士家が味方につくだけで、安全性は大きく変わる。自警団や貴族の護衛とは、戦闘力も統率も比較にならない。
だが、オルティスは続けた。
「もっとも、それで全て解決するわけではない。」
風が二人の間を抜けていく。
「イース家にも与する騎士家はいくつもある。彼らにも政治は無関係ではない。身を守るためには判断を変える必要もある。」
追撃をかわす助けにはなる可能性はある。しかし、過信するほどの切り札ではない。
その現実が、かえって状況の厳しさを物語っていた。
ふと、ティス自身が村で当初はうまくいくことを前提として行動して失敗したことが浮かぶ。
仮に逃走劇に発展することがあればその考えのままでは大きな危険が伴う。
ティスは、村へ使者として現れた男を思い出す。
「……使者として来ていた男も、中堅騎士家でしたよね。マルク家でしたっけ。」
「ああ。領都を出れば、我々の前面を押さえ、主要街道を封鎖する。静かに挟撃を狙うだろうな。」
領都へ向かう途中で仕留められれば、それで終わる。失敗したとしても、帰路には備えを整えて待つ。
最初から、その前提で動いている。
ティスはしばらく黙り込んだ。
政治という言葉だけでは、とても片付けられない。命を奪うことまで織り込まれた駆け引き。
それが貴族社会なのだと、改めて突きつけられる。
そして、もう一つの疑問が胸に浮かんだ。
「……なぜ、私の同行を許可されたのですか。」
率直な問いだった。
ここまで危険なら、自分を村へ残すという選択肢もあったはずだ。
いや、父は一度動向を断っていた。本気であれば、村のことと結び付けティスを置いてくることもできていたはずである。
オルティスはわずかに目を細める。
「お前には三つの道を用意している。」
ティスは思わず父を見る。予想していた答えではなかった。
「一つ。私と共に西へと戻る道だ。」
淡々とした声が続く。
「現状を理解した上で、それでも進むなら止めはしない。」
追撃も、政争も、暗殺も。その全てを受け入れた上で歩む道だった。
「二つ。アルネ家に客人として身を寄せる道。」
ティスは静かに耳を傾ける。
三大貴族の一角。その庇護を受けられるなら、少なくとも命を守ることはできる。
「現体制は、長くても十五年前後だと見ている。」
その見立てに、ティスは小さく目を見開いた。
「その間、生き延びろ。情勢が変われば、再び貴族として立つ道もある」
逃げるのではない。時を待つ。それもまた、一つの戦い方だった。
オルティスはわずかに間を置く。
「三つ。ムライバ商会へ入る道だ。」
「商会ですか。」
「ああ。」
静かに頷く。
「昔から付き合いがある。商人としての地力は高い。」
草原を渡る風が、二人の間を吹き抜ける。
「入り込み、商いを学べ。必要なら、そのまま独立して商家を立てればいい。」
その言葉を聞いた瞬間、ティスの脳裏に村での日々が浮かんだ。
売れるものを探し、人と関わり、時間を売るという考え方。
父から間接的に教わったことの一つ一つが、ここへ繋がっていたのだと気づく。
三つの道。
どれも生き残るための選択肢だった。
だからこそ、ティスは静かに問いかける。
「……私が二つ目か三つ目を選んだ場合、父上はどうするんですか」
その問いに、オルティスはすぐには答えなかった。
馬の蹄が石畳を規則正しく打つ。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「やることは変わることはない。」
その返答は、これまでになく曖昧だった。
ティスは少しだけ意外に思う。父なら、既に答えを決めていると思っていた。
「イース家の動きに違和感がある。」
オルティスは前を見たまま続けた。
「元来、あの家は外交と調整で勢力を築いた家だ。」
武力でも財でもない。積み重ねてきた信用と権威。それこそがイース家の土台だった。
「本来なら、露骨な強硬策は取ることは、方針と大きく異なることだ。」
だが現実には違う。
長男派への圧力。暗殺嫌疑。権限の剥奪。そして帰路での襲撃を前提としたような動き。どれも、本来のイース家らしくない。
「権威に傷が付く危険を承知で動いている。」
静かな声だった。
「ならば、それ以上の利益があるはずだ。」
ティスも考える。
そこまでの危険を冒してまで得たいもの。
やがて、一つの可能性が浮かんだ。
「……リテイア家の簒奪ですか。」
オルティスが珍しく小さく笑う。乾いた、短い笑いだった。
「それは難しい。」
あまりにも即答だったため、ティスは少し拍子抜けする。
「リテイア家そのものの地力が強すぎる。」
統治家として積み重ねてきた権威。私兵。長年築かれた諸侯との関係。
三大貴族が実権を握るとはいえ、それらを丸ごと奪うのは現実的ではない。
だが、オルティスは少しだけ声を落とした。
「他領へ侵攻し、勝てる算段があるなら話は別だ。」
ティスは眉を寄せる。
「戦争……ですか。」
「勝利による利益が十分に大きいなら、その前段階として政争で主導権を握る意味が生まれる。」
ティスは思わず苦笑した。
「……現実的じゃありません。」
リテイア領は通商に強いが軍事国家ではない。しかも有力な騎士家であるエヒト家まで中央から外れている。
戦を始めるような体制には、とても見えなかった。
しかしオルティスは否定しない。
ただ静かに前を見据えたまま言う。
「その"予測外"を起こせるのが外交だ。」
風が草原を渡り、街道脇の草を大きく揺らす。
「内政は積み重ねだ。商人は明日を読む。」
一拍置いて、オルティスは続ける。
「だが外交は違う。他者には見えていない条件が、一つ加わるだけで情勢は反転する。」
ティスは静かに息を飲む。
「だから情報を集める。そして、その情報から何をすべきかを考える。」
父は目の前の政争だけを見ているのではない。領全体。さらに、その外側にある国々まで視野へ入れて、この状況を見ている。
貴族とは、領の未来を考える者。その責務を、今も捨ててはいない。
だから危険を承知で中央へ向かう。だから最後まで、自らの役目を果たそうとしている。
ティスは改めて父の横顔を見る。
相変わらず感情は読み取れない。焦りも、恐れも見えない。
ただ、その視線だけが遥か先を見据えていた。
まるで、まだ誰も気付いていない嵐の訪れを、一人だけ知っている人間のように。
話を続けているうちに、気付けば遠くに宿場が見えてきた。
まだ日は高い。陽が昇ってから、それほど時間は経っていない。
三日目の宿場だった。
ティスは小さく息を吐く。
乗馬そのものには慣れてきている。早足の揺れにも、長距離移動の感覚にも。だが、疲労が消えるわけではない。
腿の内側や腰には重さが残り、手綱を握る指先にも、知らぬ間に力が入り続けていた。
宿場へ入ると、オルティスは今回も入口に最も近い宿を選んだ。
もはや理由を尋ねることはない。
出入りの監視。異変への対応。そして、いざという時の退路。その全てを考えた結果なのだと、ティスにも分かるようになっていた。
馬を預けると、オルティスは馬番へ銀貨を数枚多く渡す。
「飼い葉を多めに頼む。身体も流してやってくれ。」
男は銀貨を見るなり表情を改めた。
「へい。湯を使った方がよろしいかと。」
「ああ。疲労が溜まっている。しっかり頼む。」
「承知しました。」
馬番は二頭を引いて馬屋へ向かっていく。
連日の移動で、人だけでなく馬にも疲れが蓄積していた。
今日は早足で走る時間も長かった。汗を流さず一晩休ませれば、翌日の動きにも影響する。
その後ろ姿を見送りながら、ティスは静かに思う。
父は、人だけを見ているわけではない。馬の状態も、道の良し悪しも、休憩の間隔も、必要な荷も。旅そのものを一つの仕事として管理している。
それは単なる旅慣れとは違う。
部屋へと入ると、オルティスはすぐに荷を広げ始めた。
干し肉。黒パン。干し果実。水袋。
携帯糧食を一つずつ確認し、明日使う分だけを取り出していく。
だが、今日は一つだけ違うことがあった。
これまでは宿へ着くと、必ず不足した物を買い足しに出ていた。
しかし今日は、その様子がない。
ティスは手元を見ながら尋ねた。
「今日は買い出しに行かないんですね。」
「必要な分は、もう揃っている。」
短い返事だった。
それだけ言うと、今度は荷紐の締め具合まで確かめ始める。
明日の支度を、今のうちに済ませているようだった。
やがて一通り確認を終えると、オルティスは窓際へ歩み寄る。
宿場の通りを一瞥する。行き交う人影。灯り。馬屋の位置。通りへ出入りする旅人。
視線は短く動くだけだったが、一つ一つを確かめているようにも見えた。
しばらくして、静かに口を開く。
「明日は日の出前に出る。」
ティスは少しだけ目を見開く。
「そんなに早くですか。」
「ああ。」
それ以上の説明はなかった。
だが、理由は分かる。人が動き始める前に宿場を離れる。追跡される時間を減らす。
そして領都まで残り二日。目的地へ近づくほど、進路は限られていく。待ち伏せる側にとっても、狙いやすくなる。
そのことを、父は最初から計算しているのだろう。
オルティスは卓上の灯りを少し落とした。
部屋がゆっくりと薄暗くなる。
外からは酒場の笑い声が聞こえる。どこかで馬がいななく音。宿場はいつも通りの夜を迎えつつあった。
その喧騒とは対照的に、部屋の中だけは静まり返っている。
ティスは寝台へ腰を下ろした。
無意識に外套の内側へ手を伸ばす。
指先が触れたのは、リュートから渡された単筒と、父から渡された魔晶石だった。二つの重みを確かめるようにそっと握りしめ、ゆっくりと手を離す。
予定通りまでは領とまでは残り二日。その先に待つものを思えば、不安が消えることはなかった。
それでも、身体は正直だった。積み重なった疲労が、思考より先に意識を奪っていく。
ティスは静かに横になり、そのまま深い眠りへと落ちていった。




