17 道を外す
二日目の朝。
昨夜は宿で休むことができた。
それでも、ティスは何度か夜中に目を覚ましていた。
廊下を歩く足音。隣室の物音。風に軋む窓。酒場で酔客が笑う声。
その一つひとつに意識が向き、深く眠ることができなかった。
何かが起こるかもしれない。
そんな緊張が、知らず知らずのうちに身体へ残っていたのだろう。
陽が昇りきらない頃、二人は宿場を後にした。
門を抜ける頃には人影もまばらで、朝の冷えた空気だけが辺りを満たしている。
そのまま山の方角へ馬を進める。
しばらくして、ティスはあることに気づいた。
オルティスが、何度か手鏡を取り出している。振り返ることなく、鏡越しに後方を確認していた。
その動作はあまりにも自然で、注意して見ていなければ気づかなかっただろう。
ティスは口を開きかける。だが、何も聞かなかった。
代わりに、自分も周囲へ意識を向ける。
鳥のさえずり。馬の蹄。枝葉を揺らす風。湿った土の匂い。
少なくとも自分には異変は感じられない。
誰かに見られている気配も、追われている感覚もなかった。
それでも父は、警戒を解いていない。その事実だけが確かだった。
やがて宿場が完全に見えなくなった頃、オルティスが小さく手綱を引いた。
馬首が返り、進路が東から北へ変わる。
「……え?」
思わず声が漏れた。
本来の山越えの道とは大きく外れている。
山を迂回するような進路だった。
ティスは困惑した。それでも問いは口にしない。
父が意味もなく道を変える人ではないことは、もう分かっていた。
やがて木々が途切れ、古びた街道跡へ出た。石畳はところどころ崩れ、その隙間から雑草が伸びている。
完全に打ち捨てられたわけではない。草の生え方を見る限り、人や荷車が時折行き交っているらしく、街道としての幅もまだ残っていた。
そこでオルティスは馬の速度を落とした。
早足だった歩調が常歩へ変わる。
揺れが穏やかになり、ティスはようやく肩の力を抜いた。
馬が怖いわけではない。腿も腰も、昨日からじわじわと疲労が溜まっている。
余裕ができると、昨日聞きそびれた疑問が再び浮かんできた。
「父上。」
「ああ。」
オルティスは、何を聞かれるか分かっているようだった。
「昨日の話の続きを。なぜ中央を離れることになったのか、教えてください。」
しばらく沈黙が続く。荒れた石畳を踏む蹄の音だけが、一定の間隔で響いていた。
やがてオルティスが口を開く。
「二年前、リテイア家では長男と四男による後継者争いが起きていた。」
ティスは静かに頷いた。
その出来事自体は知っている。
風が吹き、枯れ草を揺らした。
「アルネ家、ラティス家、イース家。この三家が実質的に領政を動かしていた。だが、後継者争いには誰も介入しない。それが暗黙の了解だった。」
ティスは自然と背筋を伸ばく。
政治の中枢を担うアルネ家。通商を支えるラティス家。領外との外交を司るイース家。
それぞれが役割を分担することで、領内の均衡は保たれていた。
「本来なら、その均衡は崩れないはずだった。」
オルティスは一度言葉を切る。
石畳の割れ目を避けるように馬が歩調を変えた。
「だが、イース家が四男を担ぎ上げた。」
淡々と続ける。
「四男の後ろ盾となり、実質的な傀儡政権を作る。そのつもりだったのだろう。」
ティスは無意識に手綱を握り直していた。
「私は、それに反対した。」
静かな声だった。だが、それだけで十分だった。
父が誰かの支配下に置かれた政権を受け入れるはずがない。
「その直後だ。」
オルティスの声が、わずかに低くなる。
「長男が視察先で病に伏せ、一週間も経たずに亡くなられた。」
ティスは息をのんだ。
そこまでは知らなかった。
「視察先は港湾地区。当家が以前から嘆願していた港と造船所の拡充計画、その視察名目だった。」
政治的には、いくらでも意味づけができる。
港。造船。物流。どれも莫大な利権が絡む。そして、その計画を推し進めていたのはラティス家だった。
これが真実なのであれば……
「暗殺の嫌疑を掛けられたんですか。」
「ああ。」
オルティスは否定しない。
「調査の結果、罪は認められなかった。証拠も出なかった。」
そこで一拍置く。
「だが、それで終わる話ではなかった。」
四男が侯爵となり、その後ろにはイース家がつく。当然、政敵としての構図は変わる。
「イース家からすれば、私は邪魔だった。」
その口調には怒りも恨みもなかった。ただ事実を語るだけだった。
「徐々に権限を剝奪された。」
中央での発言権。人事への介入。少しずつ、だが確実に居場所を削られていく。
「真正面から争えば、この領のそのものの力を削ることになる。」
少し間を置く。
「加えて、新しい侯の権威にも傷がつく。それは領を支える立場として望ましくない。」
それは敗北を認めたという話ではない。戦う価値がないと判断し、自ら退いた。
ティスにはそう聞こえた。
風が古びた街道を吹き抜ける。
かつて栄えた道が静かに朽ちていく景色は、どこか今の話と重なって見えた。
やがてティスは、もう一つの疑問を口にする。
「……エヒト家は、そこに関わっていたんですか。」
オルティスは小さく頷いた。
「長男の護衛を務めていたのがエヒト家だ。」
ティスは目を見開く。
「リュートさんが……?」
「元はリテイア家長女の専属騎士だった。」
いつも軽そうに笑うリュートの姿が脳裏によみがえる。
飄々として掴みどころのない男。
「その長女も五年前、事故で亡くなっている。」
ティスは静かに息を止める。
「そこへ、長男の病死が重なった。」
オルティスは前を向いたまま続けた。
「累積した責任を負わされ、エヒト家は実質的に取り潰しに近い扱いを受けた。」
だからリュートは中央にいない。だから辺境へ流れ着いた。
昨日の別れ際の姿が脳裏によみがえる。
人を見る目を持ちながら、中央を追われた男。
ようやく、その理由が一本につながった。
そして同時に、父とリュートが自然に言葉を交わせていた理由も理解できた気がする。
互いに政争へ敗れ、中央を去った者同士。その境遇が、二人の間に言葉にしなくても通じ合うものを生んでいたのかもしれなかった。
ティスは父の話を聞き終えてもしばらく口を開かなかった。
馬は一定の歩調で進み、荒れた石畳を踏むたびに乾いた蹄の音が響く。
だが、その音はもう耳へ入っていなかった。
意識は、聞いたばかりの話を何度も頭の中で組み立て直している。
長男派。暗殺の嫌疑。権力を握ったイース家。
並べれば並べるほど、父の立場は危うく見えた。
正式な罪が認められなかったことなど、政争の中では大した意味を持たないのかもしれない。
重要なのは真実ではなく、人がどう受け取るか。
そういう世界なのだと、今なら分かる。
だが──整理すればするほど、違和感も浮かんでくる。
そもそも、長男の視察は本当にラティス家の嘆願によるものだったのだろうか。
父は客観的な事実だけを語っていた。
だからこそ、その出来事が誰の意思で動いたのかまでは分からない。
暗殺に関与していないと証明された家へ制裁を加えるような統治が、本当に成り立つものなのか。
リュートの話もそうだ。本当に護衛失敗の責任だけを問われた人間なら、そもそも後継者たる長男の護衛を任されるだろうか。
それに──長男が亡くなったのは二年前。
だが、父が辺境へ来たのは数か月ほど前だ。リュートに至っては数週間前だ。
出来事と左遷までの時間が噛み合わない。
一つひとつは筋が通っている。だが、繋ぎ合わせると途端に歪になる。
父は、まだ何かを隠している。
そんな気がしてならなかった。
それでも一つだけ、確かなことがある。
今のオルティスは、決して安全な立場にはいない。
もしイース家が本気で父を排除するつもりなら。中央へ戻ること自体が罠になり得る。
まして父は、従順に頭を下げるような人ではない。
無意識に手綱を握る手へ力が入っていた。
「見えてきたな。」
父の声に、ティスは顔を上げた。
木々の向こうに、今日の宿場が見えている。
煙が立ち上り、荷車が行き交い、家畜の鳴き声が風に乗って届いてくる。昨日の宿場よりも、人の営みが色濃く感じられた。
「今日の移動は終わりだ。」
オルティスは淡々と言う。
そして、少しだけ間を置いた。
「聞きたいことがあるなら、また明日話そう。」
それだけだった。
ティスは口を閉じる。
焦って問い詰めても答えは返ってこない。
父はいつも、話す順番を決めている。見せる情報と伏せる情報を整理してから動く人だった。
二人はそのまま宿場へ入った。
旅人。商人。荷運び。傭兵崩れらしい男たち。
誰も二人へ特別な視線を向けてはいない。
それでも今のティスには、その"普通"さえ信用し切れなかった。
父の警戒が、自分にも少しずつ染みついてきている。
オルティスは迷うことなく宿を選ぶ。やはり入口に最も近い建物だった。
「一部屋でいい。」
主人は銀貨を受け取り、愛想よく頭を下げる。
「食事はどうされます?」
「不要だ。準備はしてある。」
必要以上に言葉を交わさない。
部屋へ入り荷を下ろす。窓は一つ。裏手は細い路地へ通じ、外階段も近い。
ティスが室内を見回る間にオルティスは扉や窓の建て付けを手際よく確かめていた。昨日も同じことをしていた。
だが、その意味が今は分かる。
荷を整理したオルティスは、山越えのために用意していた外套を脇へ寄せた。
ティスは思わず眉を寄せる。
昨日は山越えの準備をした。だが、実際には山を迂回した。
そして今、その外套は不要になっている。
父の行動が、まるで読めない。
「明日は山へ入るんですか?」
問いかける。
少しでも父の考えを知りたかった。
先が見えないまま進むことは、ティスにとって何よりも負担だった。
オルティスは一瞬だけ視線を向ける。
「どうだろうな。」
それだけだった。
肯定も否定もしない。
ティスは静かに息を吐く。
答えが得られないなら、自分にできることをするしかない。
疲れの溜まったふくらはぎから太腿の内側へ手を当て、ゆっくりともみほぐす。
理屈は知らない。
それでも、疲労が和らぐことだけは経験で知っていた。
やがてオルティスが立ち上がる。
「食料と水を買ってくる。部屋にいなさい。」
昨日と同じ言葉。
だが、今は少しだけその意図が理解できる。
「……分かりました。」
ティスは素直に頷いた。
扉が閉まり、部屋へ静けさが戻る。窓の外では、宿場の喧騒が少しずつ夜へ溶け込んでいた。
ティスは外套の内側へ手を入れる。取り出したのは、リュートから託された単筒だった。
金属の冷たさが掌へ伝わる。細かな擦り傷。刻印の縁に残る摩耗。
新品ではない。実際に使われてきた道具であることは一目で分かった。
ティスは布を取り出し、静かに表面を拭く。
理由は自分でも分からない。ただ、そうしたくなったのだ。
しばらく手入れを続けていると、扉が開いた。
戻ってきたオルティスの手には、小さな布袋が握られていた。
机へ置き、中身を出す。
転がったのは、白く半透明の小石だった。
「……魔晶石?」
ティスは思わず目を細める。
加工品ではない。
砕けた欠片──屑石と呼ぶべきものだ。それでも内部には、かすかな光が揺れている。
オルティスは小さく頷いた。
「よく分かったな。」
「昔、市場で見かけたことがあります。」
オルティスは一つ摘み上げる。
「質は低い。だが、使い道はある。」
そう言って三つをティスへ差し出した。
受け取ると、見た目より少し重い。ひんやりとした冷たさだけが伝わる。
魔晶石は触れた者の魔力を吸う。
そう教わってきた。
だが、自分には何の変化も感じられなかった。
魔力が極めて少ないことは、自分でも分かっている。
ティスは石を見つめる。
「これは、何の呪印が刻まれた石なんですか?」
オルティスは少しだけ黙った。
そして静かに言う。
「……いずれ分かる」
それ以上は語らない。
だが、その声には確信があった。
ティスも、それ以上は尋ねなかった。
今、このタイミングで渡したこと自体に意味がある。
そんな気がしたからだ。石を懐へしまう。
単筒と魔晶石。二つの重みが、外套の内側で静かに並んだ。
窓の外では、夜の帳がゆっくりと宿場を包み始めていた。




