16 馬上の旅
翌朝。まだ夜の冷たさが残る時間帯だった。空は薄青く、東の空だけがわずかに白み始めている。
オルティスとティスは馬を引き、屋敷を後にした。朝露を踏む音だけが、静かな庭へ響く。
本来なら、領都までの移動は馬車を使う。御者台にはウェンが座り、荷を積み、護衛を伴う。それが貴族としての通常だった。
だが今回は違う。ウェンは連れずに馬車も使わない。必要最低限の荷しか積んでいない馬が二頭。
ティスは緊張した面持ちで鞍へまたがる。乗馬の経験はある。だが、それは「落ちずに乗れる」という程度だ。
馬の揺れに身体を合わせる感覚。手綱の重み。脚で伝える指示。そのどれもが、まだ貴族の嗜みの域を出ておらず、自分のものにはなっていなかった。
馬が少し首を振るだけで、肩に力が入る。
「力を入れすぎるな。馬が硬くなる。」
前を進むオルティスが短く言った。
ティスは慌てて肩の力を抜こうとするが、思うように身体は応えてくれない。
その様子を見ていたリュートが、小さく笑った。
「最初はそんなもんだ。」
今回、リュートは近くの森まで見送りを申し出ていた。
完全に別れるには、まだ少しだけ早い距離。その曖昧な時間が、別れの寂しさを少しだけ和らげているようにも思えた。
ティスはリュートに馬の扱いを教わりながら進んだ。
脚の使い方。視線を置く位置。手綱を引く強さ。ほんの少し気を抜くだけで馬の動きは乱れ、会話をする余裕もほとんどない。
それでもリュートは終始穏やかな表情で、一つひとつ丁寧に教えてくれた。
ポルテ草の群生地を過ぎた頃、不意にリュートが懐へ手を入れた。
「オルティス殿。これを。」
取り出した封書をオルティスへ差し出す。
「俺の元部下への紹介状だ。腕はそこまででもないが、立ち回りは上手い。きっと役に立つ。」
オルティスは封を開かず、そのままリュートへ視線を向けた。
「支払える対価なんぞないぞ」
リュートは肩をすくめる。
だが、少しだけ声を落として言った。
「……貴族から離れることも考えているだろ。」
その言葉に、ティスは思わず視線を向けた。
空気がわずかに変わる。
それでもオルティスの表情は動かなかった。ただ静かにリュートを見返すだけだった。
「政争に疲れた顔をしてるからな。」
苦笑混じりの声だった。
状況が近いからこそ、分かるものがあるのだろう。
「もし本当に別の道へ行くなら、その時は俺にも一枚噛ませてくれればいいさ。俺は仕事を作れる男じゃないからな。」
短い沈黙。
風が草原を撫で、白い花穂を揺らす。朝露が差し始めた陽を受け、小さく光った。
やがてオルティスが、手綱を軽く引きながら口を開く。
「その時があれば――な。」
リュートは、その言葉だけで満足したように笑った。
「十分だ。」
そう呟くと足を止める。森の入口は、もう目の前だった。
「見送りはここまでだな。」
ティスは馬を止め、リュートを見る。
別れの言葉を探しかけ――やめた。
木々の影が街道へ落ち始め、湿った土と葉の匂いが風に混じる。ここから先は、もう村の延長ではない。
ティスは馬上から小さく頭を下げた。
「ありがとうございました。乗り方まで教えていただいて……」
「気にするな。落馬されると後味が悪い。」
軽口のような返事だった。
笑みは浮かべているが、その声音にはわずかな気遣いが滲んでいる。
そして、そのまま視線をオルティスへ向けた。
「留守は見ておくから、帰ってきてくれよ。」
「ああ。」
短い返答。それだけで十分だった。
二人の間にある信頼が、その一言だけで伝わってくる。
リュートは腰へ手を回した。取り出したのは、細長い金属筒。片手で扱えるほどの長さしかない。鈍い銀色の表面には、細かな刻印が刻まれていた。
「持っていきな。獣避け代わりにはなる。」
そう言って、ティスへ差し出す。
ティスは戸惑いながら受け取った。見た目以上に重い。金属特有の冷たさが掌へ伝わる。
「これは……?」
「芽理の宮の単筒だ。簡易式の魔具だな。」
ティスは、まじまじと眺める。見たことのない構造だった。工芸品とも武器とも違う。どこか無骨さがある。
「どう使えばいいんですか?」
恐る恐る聞き返す。リュートは自分の指で引き金部分を軽く叩いた。
「ここを引くだけでいい。中に仕込まれた魔晶石が、使用者の魔力を吸って撃ち出す。」
「魔力を……吸う?」
リュートは頷く。
「狙いは大雑把でいい。近距離なら、素人が使っても獣を怯ませる程度にはなる。」
ティスは魔法を扱う人間ではない。だが、魔力消耗による不快感が起きるくらいは知識として知っている。
「使いすぎるとめまいと吐き気が来るな。身体が重くなったら、弾切れだ。」
リュートはさらりと言うが、内容は軽くない。
ティスは改めて単筒へ視線を落とした。これは便利な道具ではある。だが同時に、自分自身を削って使うものでもあるのだ。
「機会があれば本番が来る前に確認しておくんだな。」
リュートが言う。
「魔力って、回復するんですか?」
ティスの問いに、リュートは頷いた。
「寝ればある程度は戻るが、回復速度は個人差が大きい。」
そこまで言ってから、リュートはティスの外套へ視線を向けた。
「内ポケットに入れとけ。腰に差すより取り回しがいい。」
「わ、分かりました。」
ティスは素直に単筒をしまい込む。
金属の重みが、胸元に残る。思っていた以上にはっきりとした存在感だった。
リュートは二人を見渡し、軽く片手を上げる。
それだけを交わし、オルティスは馬の腹を軽く蹴り、馬が前へと進む。
ティスも慌てて後を追った。
木々の影が深くなる。二頭の馬は、そのまま森道へ消えていった。 リュートはしばらく無言でその背を見送る。
リュートと別れたあと、二人はそのまま森の中を進んでいった。
頭上を覆う木々が空を細く切り取り、朝の光が葉の隙間からまだらに差し込む。湿った地面には、揺れる木漏れ日が淡く映っていた。
道は決して整備されていない。
前を行くオルティスの背を追いながら、ティスは慎重に馬を進める。馬の呼吸。蹄が土を踏む音。枝葉の擦れる音。森の中では、そのどれもが不思議なほど大きく響いた。
この森と山を越え、さらに平原を抜け、川を渡れば領都だ。
順調に進めば、およそ五日の旅になる。
馬上の揺れに身体を合わせながら、ティスはふと思い出したように口を開いた。
「向こうへ着く頃には、ロブさんの行商も結果が出る頃ですよね。」
「ああ。」
オルティスは短く答える。
「うまくいくと思います?」
少し間が空いた。
森の奥で鳥が羽ばたく音がする。
「成功する以外の選択肢はないだろうな。」
迷いのない断言だった。
ティスは思わず目を瞬かせる。
「そこまで言い切れるんですか?」
「あのリュートが人選をしたからな。」
馬の歩調は変わらない。
「ロブという男は民間出身だ。実際に商売にも身を置いたことはあるだろう。」
ティスは小さく頷いた。
確かにロブには独特の安心感があった。
押しつけがましさはない。それでいて気づけば自然と会話の輪へ引き込まれている。相手の懐へ入り込むあの距離感は、貴族の会話術とはまるで違う。
あれが商人として培われたものなら、納得できた。
だが、別の疑問も浮かぶ。
「……リュートさんって、そんなに人を見る目があるんですか?」
オルティスは小さく息を吐いた。
「エヒト家は、リュートの代までは大きな家ではなかった。」
森道に蹄の音だけが響く。
「奴は個人の戦闘能力ばかり注目されるが、本質はそこではない。」
淡々とした口調だったが、その言葉には珍しく評価が滲んでいた。
「集団戦で盤面の均衡を保つことに長けている。前へ出すべき戦力と伏せるべき戦力を見極める。その判断が異様に早い。」
ティスは黙って耳を傾ける。
風が木々を揺らし、葉擦れの音が二人の間を流れた。
「場当たり的に動いているように見えることも多い。だが実際は違う。常に盤面全体を見て、最も崩れにくい形へ寄せ続けている。」
木漏れ日が一瞬だけオルティスの横顔を照らした。
「筆頭騎士になれた理由もそこだ。」
少し置いて続ける。
「貴族や騎士家だけを見て動く男ではない。民間からも人材を拾い、見込みがあれば惜しまず育てる。」
ロブの姿が頭に浮かぶ。
そういえば、従者のルナも何か特別な才を見込まれているのかもしれない。
「結果として、あいつを慕う優秀な人材は多い。……まあ、今はその立場を追われているがな。」
静かな言葉だった。
だが、その一言の重さは十分に伝わった。
ただ強いだけではない。人を見抜き、人を育て、人を適材適所へ置く。
だからこそ――先ほど交わされた会話が、ティスの脳裏によみがえる。
貴族から離れるつもりだろ。
あれは単なる推測ではなかったのではないか。
そして、父はなぜ中央を追われたのか。
ティスは前を行くオルティスの背を見つめた。
父もまた、リュートに劣らぬ力を持っている。
先を読み、裏を読み、不利な交渉でも望む形へ導いてしまう。そして何より、相手が自然とそう動いてしまう空気を作り出す。
そんな人間だった。
しばらく口を開けなかった。
馬の揺れに身を任せながら、ただ父の背を見つめる。
静かな背中だった。何を考えているのか分からない。家族であっても、その胸中を覗くことはできない。
まるで、必要以上のものを削ぎ落として歩き続ける人間のようだった。
やがてティスは小さく息を吸う。
「……父上。」
「なんだ。」
「父上は、どこまで先を読んで動いているんですか。」
オルティスはすぐには答えなかった。
森の先へ続く細い道を見つめ、枝葉の揺れや周囲の気配を静かに確認している。
やがて口を開いた。
「別に未来が見えているわけではない。」
拍子抜けするほど穏やかな声だった。
「大半は予測だ。外れることもある。」
そう言いながらも、その視線は絶えず周囲を巡っている。
会話をしていても、思考のすべてをこちらへ向けているわけではない。
「それでも、中央を追われたのは、予測の範囲内だったのですか。」
ずっと心の中で気になっていたことが思わず口から洩れる。
「明日からは工程の半分を常足、残り半分を早足で進める。領都へ着くまでに馬へ慣れておけ。」
急に話題が変わり、ティスは目を瞬かせた。
「今のままでは、速度を上げた時に崩れる。」
「……はい。」
反射的に返事をする。
だが、頭の中には先ほどの問いが残ったままだった。
「質問の答えは、その常足の時に話す。」
「宿では駄目なんですか?」
オルティスは首を横に振る。
「今は情報そのものが我々の命を左右する。どこで誰が聞いているか分からん。」
風が森を渡り、枝葉がざわりと鳴った。
「話すなら移動中が一番だ。」
ティスは思わず辺りを見回す。
静かな森だった。聞こえるのは鳥の声と蹄の音だけ。だからこそ、もし別の音が混じればすぐに分かる。
父は最初から、その前提で動いている。
「……分かりました。」
オルティスはそれ以上何も言わず、一定の歩調のまま森の奥へ馬を進めていった。
森は、想像していた以上に深かった。
木々は空を覆い隠すように枝を伸ばし、陽の位置さえ分かりにくい。湿った土の匂い。苔むした岩。踏み固められていない地面。
獣道に近い細い道を選びながら、オルティスは迷いなく馬を進めていく。
ティスは何度も枝を避け、根へ足を取られそうになる馬をなだめながら、その背を追った。
来る時は馬車だった。街道沿いの、もっと開けた道を通ってきたはずだ。
だが今回は違う。父は意図的に街道を避けている。
ティスは揺れる馬上で考えた。
整備された街道とこの森道。
馬への負担は、どちらが大きいのかは分からない。
だが、父が意味もなく選択を変える人ではない。
ならば、街道を使わない理由がある。あるいは、この森を通ること自体に意味がある。
頭の中で一つずつ整理していく。
街道は人目につく。誰が、いつ通ったのか把握されやすい。暗殺や襲撃を考えるなら、待ち伏せする側も場所を絞りやすい。
その一方で森道は、不規則な地形と狭い道幅、悪い視界が相手の動きを制限する。大人数では動きにくい。
そして何より――馬を扱う訓練になる。整備された街道だけを走れるのと、悪路でも馬を操れるのとでは意味が違う。
そこまで考えて、ティスは小さく息をのんだ。
もし父が、自分に馬を乗りこなさせようとしているのだとすれば。
それはつまり――領都に着いたあとか、あるいは帰路のどこかで、自分一人で馬を走らせる状況を想定しているということになる。
手綱を握る手へ、無意識に力が入った。
馬が小さく鼻を鳴らす。
「力を入れすぎるな」
前から声が飛ぶ。
「……はい」
慌てて肩の力を抜く。
それでも胸のざわつきは消えなかった。本当に危険なのは、領都へ向かう道中なのか。それとも、戻る時なのか。
問いかけたい気持ちはあった。
だがオルティスは何も語らない。
一定の歩調を保ったまま、静かに森を進んでいく。
その背には一切の無駄がなかった。進む速度も、休憩を取る間隔も。まるで、この道を何度も通ってきたかのようだった。
その日は、ほとんど会話もないまま進み続けた。
やがて木々が途切れ、視界の先に小さな宿場が見えてくる。日差しは最も高く、馬の息も少しずつ上がり始めていた。
ティスは小さく息を吐く。
どうやら無事に辿り着けたらしい。
宿場へ入ると、オルティスは迷うことなく入口に最も近い宿へ向かった。
「ここにする。」
短く告げ、そのまま部屋を押さえる。宿を見比べる様子すらない。
さらに馬番へ銀貨を数枚渡した。
「明日、山を越える。鞍の固定と荷崩れしないよう調整を頼む。」
男は銀貨を指先で確かめると、すぐに頷いた。
「日があるうちに終わらせます。」
「頼む。」
馬番はそのまま作業へ向かっていった。
まだ夕暮れまでは時間がある。
リテイア領では、各地の流通と情報網を維持するため、小規模な宿場が点在している。
人口は五十人にも満たない場所がほとんどだ。
それでも、ティスたちが出立した村と比べれば施設ははるかに充実している。
治安維持のための騎士の詰所。食糧を支える畑。いくつかの宿。領内へ情報を伝えるための馬小屋。人通りは多くないが、小さな店も並んでいた。
部屋へ入り荷をほどくとオルティスは携帯糧食と水を買いに出ようとする。
ティスも反射的に立ち上がった。
「自分も――」
「いや。部屋から出るな。休んでおけ。」
言葉を遮るようにオルティスが言った。これまでより、はっきりと強い口調だった。
「私も買い物に同行を。」
「だめだ。」
即答だった。
「今は余計な接触を減らす。」
それだけ言い残し、オルティスは部屋を出ていく。
扉が閉まり、静寂が戻った。
部屋は狭い。簡素な机と椅子。藁を詰めた寝台。乾燥で隙間の入った壁からは、外の物音がかすかに漏れてくる。
貴族が泊まるには質素すぎる部屋だった。父は間違いなく何かを警戒している。
だが、その何かを教えるつもりは、まだないらしい。
薄暗くなり始めた窓の外を眺めながら、ティスは無意識にコートの内側へ触れた。
そこには、リュートから託された単筒が、静かな重みを残していた。




