15 それぞれの出立
村長が提示した三日という期間は、決して短くはなかった。
だが、十分な準備を整えるには、驚くほど短く感じられる時間でもある。
屋敷の一室では、その日のうちからロブとリュートが向かい合っていた。
卓の上には、簡単な地図と積荷の一覧。二人の会話は途切れることがない。
「値を聞かれたら、まず何から話す。」
「品そのものじゃなく、使う場面だな。」
「値切られたら?」
「すぐには譲らない。まず理由を聞く。」
交渉の想定問答を何度も繰り返す。
値段をどう提示するか。どこまで譲るか。断られた時は何を返すか。
組み立てては崩し、崩しては磨き直す。その繰り返しが、少しずつ現実味を帯びていった。
そこへ、ティスが静かに部屋へ入ってくる。
手には湯気の立つ紅茶。
二人の前へそっと置きながら、小さく尋ねた。
「……順調ですか。」
ロブは肩を軽く回した。
「ああ、悪くはない。」
そう答えたものの、すぐに視線を卓へ戻す。
「……いや。最初の"つかみ"が弱いかな。」
リュートも腕を組み、小さく頷いた。
「売りたい品は悪くない。」
「だが、その話を聞いてもらうための入口が足りない。」
普段、行商がほとんど訪れない村の人間に、まず足を止めてもらう。
その一瞬の興味を引くものが必要だった。
「なるほど。」
ティスは静かに頷き、しばらく考え込む。
やがて顔を上げた。
「香水は、どうでしょう。」
二人の視線が向く。
「珍しい香りなら、一度は興味を持ってもらえるかもしれません。」
実際に、自分がこの村で人々の関心を集めた方法だった。
一度成功しているからこそ、自信を持って口にできる。
しかし、リュートは少しだけ考え、ゆっくり首を横へ振った。
「悪くないが、今回は逆効果だ。」
「逆効果……?」
「高級品に見えすぎる。」
短い答えだった。
「辺境の村から見れば、香水は縁遠い品だ。無償で配れば警戒されるし、売ろうにも今回の商品とは結びつきが弱い。」
ロブも頷く。
「"自分たちにも買えるもの"と思わせる方が入りやすいですね。」
部屋に静かな沈黙が落ちた。
誰もが、次の一手を探している。
「ありきたりだが。」
リュートが口を開く。
「薬はどうだ。」
ティスが顔を上げる。
「薬?」
「ああ。効き目が分かるものは強い。誰でも熱を出したり怪我をしたりした経験はある。困った記憶に結び付くものは、人の心を掴みやすい。」
ティスの思考が止まる。
(……薬。)
記憶が引き寄せられる。
ポルテ草を採りに行ったあの日。その近くで見つけた、別の薬草。
「あります。」
思わず言葉がこぼれた。
二人の視線が集まる。
「ヒリン草です。採っておいたものがあります。」
少し息を整え、続ける。
「根は熱冷ましに。葉は傷薬になります。花も、お茶にすれば疲れを和らげることができます。」
話すほどに、用途と価値が頭の中で一本へ繋がっていく。
ロブとリュートは顔を見合わせ、大きく頷いた。
「それなら十分だ。」
リュートの声には、小さな確信があった。
「話の入口として使える。」
ロブも笑みを浮かべる。
「助かるよ。これなら警戒もされにくい。」
方向は決まった。
翌日から、三人はそれぞれの役目に取り掛かった。
ティスは乾燥させていたヒリン草を用途ごとに選り分け、小さな包みにまとめていく。
根、葉、花。使い方が分かるよう丁寧に包み直し、必要な量だけを荷へ加えていく。
その間も、ロブとリュートは交渉の練習を繰り返していた。
値段を問われた時の返答。断られた時の切り返し。相手が興味を示した時、さらに価値を伝える言葉。
互いに役を入れ替えながら、何度も同じやり取りを繰り返していく。
村でもまた、休むことなく作業が続いていた。
男たちは縄と網を仕上げ、女たちは魚籠や籠罠を編み続ける。
少しでも良いものを。少しでも多く。誰もが、自分にできることを黙々と積み重ねていた。
そうして迎えた三日目の朝。
荷車には、網、縄、魚籠、籠罠。
そして、小さく包まれたヒリン草が丁寧に積み込まれていた。
量は決して多くない。だが、その一つひとつに、この村が積み重ねてきた時間と手間が詰まっている。
「頼むぞ。」
村長の低い声に、ロブは短く頷いた。
その隣には、ウォルトの姿がある。
今回の行商は、ただ品を売るためだけではない。
近隣の村が何を求め、何が通じるのか。それを見て持ち帰ることも、大切な役目だった。
村側としても、誰か人を出して生の状態を把握したいという思惑が生じる。その役を担ったのだ。
村長はゆっくりと視線をウォルトへ向ける。
「……頼んだぞ。」
今度の声は、少しだけ低かった。
言葉にしきれない不安と期待が、その一言に滲んでいる。
「仕方ないな。」
ウォルトは肩をすくめた。
「久しぶりに外へ出るのも悪くない。」
軽く笑ってみせる。
だが、その奥には責任の重さを理解している気配があった。
ロブは荷車の取っ手に手を掛ける。
以前二人で施した緩衝機構のおかげで、悪路でも荷への負担は幾分軽くなっている。
馬を使うことも考えたが、それは選ばなかった。
楽であるということ以上に、村らしくないものを持ち込み、余計な警戒心を与えることを嫌ったのだ。
ウォルトは荷の結び目や重心を一つひとつ確かめる。
ティスは、その様子を静かに見つめていた。
ウェンも、リュートも、村長も。誰一人として余計な言葉は口にしない。
やがて荷車がゆっくりと動き始めた。
荷車が軋み、車輪が土を踏みしめる音が、静かな村へ響く。
その音は少しずつ遠ざかり、やがて小さくなっていった。
(結果が分かるのは……早くても一週間。)
ティスは胸の内で呟く。
長いようで短い時間。
だが、食糧の備蓄が底を見せ始めている今、その一週間はあまりにも重い。
誰もがそれを理解している。
だからこそ、誰も口にはしなかった。
風が吹き抜ける。荷車の轍をなぞるように砂が舞い上がる。
その先に待つものは、まだ誰にも分からない。
それでも――確かに、一つの賭けは始まっていた。
それから、数日後。
屋敷に一人の男が訪ねてきた。
武装はしていない。
それでも――その身に纏う空気だけで、ただの客人ではないことが分かる。
無駄のない立ち姿。視線の置き方。一瞬の隙も見せない張り詰めた気配。
戦場を知る者だけが持つ静かな圧力が、そこにはあった。
ティスは廊下の奥から、その姿を見送る。
男は使用人の案内を受け、そのまま応接室へと入っていく。
扉が静かに閉じられた。案内していたウェンの表情には、ほんの僅かだが緊張が見える。
(……ただの来客ではない。)
そう感じるには十分だった。
ほどなくして、応接室から低い声が聞こえ始める。
何を話しているかまでは聞き取れない。
それでも、軽い世間話ではないことだけは伝わってきた。
ティスは村へ向かう足を止め、その場を離れられずにいた。
ただ静かに終わるのを待つ。
その時間が、妙に長く感じられる。
「気になるのか。」
背後から声がした。
振り返ると、リュートが壁にもたれるように立っていた。
「……はい。」
ティスは素直に頷く。
リュートは一度だけ応接室の扉へ視線を向ける。
「あれは、この辺りを治めるマルク家の騎士だ。」
短い説明だった。
「マルク家……。」
ティスは小さく繰り返す。
名前だけは聞いたことがある。この辺境では、それなりに力を持つ騎士家だと。
「中央からの使者でもある。」
リュートは続ける。
「こういう辺境の様子を見て回り、必要があれば報告する。それが仕事だ。」
ティスは静かに頷く。
「つまり……視察、ですか。」
「そんなところだ。」
リュートは肩をすくめた。
「もっとも、今のラティス家にとっては少々厄介な相手だ。」
その一言に、ティスの表情が引き締まる。
「どういうことですか。」
少しだけ間を置いてから、リュートは口を開いた。
「報告一つで、中央の見方は変わる。」
静かな口調だった。
「中央は、この土地の細かな事情までは知らない。だから向こうが見るのは、現地を見た者の報告だ。」
ティスは息を呑む。
「つまり……。」
「良く書かれれば問題ない。悪く書かれれば、それが事実として扱われる。」
淡々とした説明。そこには感情よりも経験が滲んでいた。
ティスの指先が、わずかに強張る。
「……そんな。」
思わず漏れた声だった。
理不尽だと思った。
だが、リュートは驚く様子もない。
「珍しい話じゃない。」
苦笑するように言う。
「地方貴族なら、こういう連中との付き合いは避けて通れない。」
ティスは言葉を失った。
自分が知らなかった世界。政治とは、こういうものなのか。胸の奥が静かに冷えていく。
「もちろん、機嫌を取ろうとする者もいる。」
リュートは続ける。
「金を積んだり、縁談を持ちかけたりな。」
ティスの表情がさらに強張る。
「それも長続きはしない。一度弱みを見せれば、次はもっと大きな要求になる。断れば、それまでだ。」
どちらを選んでも苦しい。
ティスの思考が止まりかける。
(どうすれば……。)
その問いを見透かしたように、リュートは小さく笑った。
「だから正面からやるしかない。」
静かな声だった。
「事実を見せ、余計な疑いを持たせない。それが一番強い。」
そして応接室へ視線を向ける。
「君の父上は、その手の駆け引きが上手い。」
その言葉だけは、どこか確信に満ちていた。
二刻ほど経った頃だった。
応接室の中から椅子が引かれる音が聞こえる。長い話し合いだった。
途中で声を荒らげることもなく、終始静かに続いていたのだろう。
ティスは扉から少し距離を取り、姿勢を正した。
やがて――扉が静かに開く。
先に姿を現したのは、あの男だった。
鋭い視線が、一瞬だけティスへ向く。
ほんの一瞬。だが、その一瞬だけで測られたような感覚だけが胸に残る。
男は何も言わず、そのまま廊下を歩いていく。
ウェンが静かに後ろへ続く。
見送りのため。
それだけではない意味も含んでいるように見えた。
やがて二人の姿は廊下の角を曲がり、静かに見えなくなった。
少し遅れて――オルティスが姿を現した。
応接室の扉が静かに開き、ゆっくりと廊下へ歩み出る。
その表情は、いつもと変わらない。
「……お父様。」
ティスは小さく声をかけた。その声には、わずかな不安が滲んでいる。
オルティスは娘へ視線を向けた。
「聞いていたのか。」
「えぇ。話の内容までは聞こえませんでしたが。」
取り繕うことなく答える。
オルティスは小さく頷いた。
「そうか。」
一拍置いてから、静かに続ける。
「安心しなさい。」
その声音には迷いがなかった。
「……中身を聞いても?」
今度はリュートが口を開く。
踏み込みすぎず、それでも必要なことは聞く。そんな距離感だった。
オルティスは短く頷く。
「村を見れば分かること以外は、何も話しておらん。」
その一言に、空気がわずかに止まる。
「そんな内容で帰ったのか?」
リュートの問いには疑念が混じっていた。
当然だった。
オルティスは淡々と答える。
「代わりに、こちらからリテイアへ赴く約束をした。」
ティスが顔を上げる。
「報告は、直接行えばよい――とな。」
リュートの目が細くなる。
「……それで納得したと?」
「道中の安全についても協力することで納得してもらった。」
簡潔な返答。
リュートはしばらく黙ったまま考え込む。
そして、小さく口を開いた。
「何を渡した。」
真っ直ぐな問いだった。
「何もなしで動く連中じゃない。」
言外の意味は明白だった。
オルティスはわずかに視線を向ける。
「そうだな。」
静かに頷く。
「リュートの言う通り、ああいう者は何もなく動くことはない。」
一拍。
「だが、今の中央は落ち着いてはおるまい。だから、“道中の安全”がカードになったのだ。」
それだけだった。それ以上は語らない。
ティスには、その意味を最後まで理解することはできなかった。
だが――リュートだけは、小さく息を吐く。
「……なるほど。」
その声音には納得が混じっていた。
二人の間では話が通じているようだった。
ティスは視線を行き来させる。
政治の話は、まだ遠い。それでも一つだけ分かることがあった。
(ひとまず……乗り切った。)
リュートは苦笑混じりに肩をすくめる。
「……厄介なことをする。」
半ば呆れたような声だった。自ら危険の中へ踏み込むような選択。
それでも、その口調に否定はない。
むしろ、この短時間で相手を様子見へ持ち込んだ手腕を認めているようだった。
ティスは、そのやり取りを聞きながら静かに考える。
(リテイア……。)
この領都であり、この辺境で最も栄える都市。人も物も情報も集まる場所。
そして――かつての友人たちが暮らす場所でもある。
その記憶が、胸の奥で静かに揺れた。
やがて、ティスは顔を上げる。
「お父様。」
真っ直ぐに父を見る。
「わたくしも同行させていただけないでしょうか。」
その言葉に、その場の空気が止まった。
オルティスの視線が娘へ向けられる。
リュートもわずかに眉を上げた。
「ならん。」
返答は即座だった。
「危険だ。」
迷いのない拒絶。
それでもティスは引かなかった。
「承知しております。」
静かに言葉を重ねる。
「ですが、この村が今後も存続していくためには、もう少し多くの技術書が必要です。」
一歩。
「貴族同士の情報収集という意味でも、お父様お一人より、わたくしもいた方が役立てる場面があるかと思います。」
オルティスは何も言わない。
ただ娘を見つめていた。
覚悟を量るように。理解の深さを測るように。
やがて、小さく口を開く。
「すべて、こちらの指示に従う。」
短く告げる。
「それが条件だ。」
ティスの呼吸が少しだけ変わる。
「はい。」
迷いなく頷く。
オルティスは静かに息を吐いた。
「……よかろう。」
その一言で決まった。
ティスは深く頭を下げる。
その横でリュートが小さく笑う。
「なら、ルナを護衛につけようか。」
その提案は現実的だった。この屋敷には武芸に秀でた者がほとんどいない。道中を考えれば護衛は必要だ。
しかしオルティスは首を横に振る。
「いや、よい。」
静かな声。
「兵を伴えば、それだけで閉ざされる道もある。」
リュートは納得したように頷いた。
「なるほど。」
それ以上は何も言わない。
オルティスは二人を見渡す。
「明朝、日の出とともに出立する。」
「準備を済ませておくように。」
その声は、いつも通り落ち着いていた。
だがティスには、その奥にわずかな熱が宿っているように感じられた。
部屋へ飛び込み扉を閉める。
机へ向かい、引き出しを開ける。残っていた羊皮紙を掴み出した。
(時間がない。)
ペンを取る。
一瞬だけ思考が止まる。
(……違う。)
考えるのは後だ。
まず書く。
農業書。作物の種。農具。鍛冶。染色。薬学。
思いつくものを、次々と書き並べていく。
親交のあった貴族の名。頼れる者。貸しがある者。借りがある者。
思い出すたびに書き加えていく。
次がある保証はない。だから、一度でできる限り集める。
羊皮紙の上を、ペンが止まることなく走る。
項目は枝分かれし、さらに増えていく。
何を調べるか。誰に会うか。何を手に入れたいのか。
後から辿れるように整理しながら書き続ける。
曖昧な記憶には頼らない。今できる準備は、すべてしておく。
ティスは息を詰めたまま、ひたすらペンを走らせた。
この一枚に、この村の未来へ繋がる可能性を、一つでも多く書き留めるために。




