32 一時の決着
ティスとカーフは、西へ向けて馬を走らせ続けていた。
すでに馬は限界に近い速度で駆けている。
それでも、後方の騎士たちの距離は開かない。
馬蹄が大地を打つ音が、少しずつ近づいてくる。
振り返るまでもなかった。
左右へ展開していた二騎が、獲物を囲うようにじわじわと間隔を詰めてくる。
そのさらに後方には、距離を保ったまま二騎が続いていた。
ティスは奥歯を噛み締めた。今まで何度も追われてきた。そのたびに思い知らされる。
騎士は速いのではない。
追うことそのものに慣れている。馬を潰さず、逃げる相手の癖を読み、進路を削りながら包囲する。
技術そのものが違っていた。
右の騎士がさらに寄る。
ティス達の逃げ道を潰す動きだった。
ティスの喉が乾く。横ではカーフが槌を握り直していた。迎え撃つつもりなのだ。
だがティスには分かる。
この速度での馬上戦そのものが騎士の土俵だ。槌を振るう前に斬り込まれる可能性の方が高い。
距離が縮まる。
あと数歩。
ティスは懐へ手を突っ込んだ。
取り出したのは単筒。狙いを付ける余裕などない。
そもそも馬の背は激しく上下し、照準は定まらない。それでも腕を伸ばし、引き金を引いた。
轟音。さらにもう一音。乾いた爆音が平原へ響き渡る。
当然、騎士には当たらない。
高速で揺れる馬上からの射撃だ。狙って当たる方がおかしい。
ティス自身も、せめて馬へ当たればと思っただけだった。
だが――効果は別の形で現れた。
自分たちの馬が、甲高く嘶く。軍馬ではない。荷馬として育った馬だ。
経験したことのない爆音に怯え、恐慌に陥る。
次の瞬間。二頭は暴れるように速度を上げた。
風が一気に強くなる。景色が流れ始める。騎士との距離がわずかに開く。
しかし、その代償も大きかった。
ティスもカーフも、この速度域で馬を御し切れるほど乗馬に慣れていない。
馬の背で身体が跳ねる。
落ちないようにするだけで精一杯だった。
指先が痛む。腕が裂けそうになる。それでも手綱だけは離せない。
離した瞬間に終わる。
数瞬ではあったが、狂ったような疾走が続いた。
騎士との距離は確かに広がっていた。
だが、それは馬の命を削って得た時間だった。
ティスの馬の呼吸が乱れる。泡立つ息。震え始める脚。
そして。前脚が崩れた。
馬体が前へ沈む。
ティスは反射的に飛び降りる。
身体が草原を転がる。息が詰まる。
それでもすぐ立ち上がった。
馬は地面へ倒れたまま、苦しそうに脚を痙攣させている。
限界だった。
長い旅を支え続けてくれた馬だった。
何度も荷を運び、逃走の間も一度も歩みを止めなかった。
ティスは駆け寄る。震える首へそっと手を添えた。
「……ありがとう。」
それだけ告げる。
助け起こす時間はない。
後方では、もう騎士たちの馬蹄が迫っている。
ティスは踵を返した。西へ向かって走り出す。
カーフも乗っていた馬から飛び降り、続く。
肺が焼ける。足が重い。それでも止まれない。
後方の馬蹄が、不意に速度を緩める。
ティスは気付かない。
だがカーフだけは理解した。
――弓。
馬を安定させ、狙いを付けるためだ。
「伏せろ!」
叫ぶと同時に、ティスへ身体ごと飛び付く。
二人は草原へ転がった。
直後。風を裂く音。矢が二本、頭上を掠めて飛び抜ける。
鈍い音を立てて地面へ突き刺さった。
あと一瞬遅ければ、どちらかが射抜かれていた。
ティスの全身から血の気が引く。だが休む暇はない。
徒歩になった以上、距離は一気に縮まる。
カーフは腰から煙玉を抜き地面へ叩き付ける。
小さな破裂音と共に白煙が爆ぜるように広がる。
草原を覆う白い壁。
一時しのぎでしかない。
「走れ!」
煙の中を駆ける。
背後から再び矢が飛ぶ。
一本。また一本。
風を裂く音だけが耳元を掠めていく。
ティスは前だけを見る。
西は、もう近い。順調なら一刻も掛からない。
だが今は違う。その距離が、人生で最も遠く思えた。
再び、背後から馬の足音が迫ってくる。
煙玉の煙を抜けたのだ。
もう次の矢が飛んできてもおかしくない距離だった。
ティスは荒い呼吸のまま、腰へ手を伸ばす。
残っていた最後の煙玉を投げた。
白煙が再び平原へ広がる。
だが、これで終わりだった。もう煙玉は残っていない。
腰へ残された最後の道具。匂い球。だが、どう使えばいい。
迷った、その時だった。
「煙の中へ投げろ!」
カーフの声が飛ぶ。
ティスは反射的に匂い球を煙の奥へ放り投げた。
数瞬後。煙の向こうから激しい馬のいななきが響く。
続いて、何か重いものが倒れる鈍い音。
煙で奪われた視界。そこへ強烈な異臭。訓練された軍馬とはいえ、生き物だった。
完全には耐え切れない。だが、それでも騎士たちは立て直す。
煙を抜け、再び馬蹄が迫ってくる。
速い。
もう逃げる足では勝負にならない。
ティスの肺が焼ける。脚は鉛のように重い。
再び背後で弓弦が軋み、放たれる。
そう理解した瞬間だった。
甲高い金属音が響く。
矢が弾かれる。
ティスは思わず振り返った。
そこに、一人の男が目に飛び込んできた。
盾を横へ構えたリュートだった。
その後ろには半月剣を握るロブ。さらに、杖を構えたルナ。
三人とも静かに騎士たちを見据えている。
ティスの膝から力が抜けそうになる。
どうして。
そう口にする前に、リュートが口を開いた。
「遅くなった」
たった一言。
その声を聞いた瞬間。張り詰めていたものが、ようやくほどけた。
追撃してきた騎士たちが、ぴたりと馬を止める。
先ほどまで迷いなく迫っていた蹄が、それ以上一歩も前へ出ない。
雨音だけが平原へ落ちた。
リュートは剣を肩へ担いだまま、小さく笑う。
「帰れよ。」
静かな声だった。
「今ならまだ、生きて帰れる。」
マルク家の当主が馬を進める。
「既に潰えたリアン家に威光などない。」
冷たい視線を向ける。
「反逆者として征伐されたいか。」
リュートは鼻で笑った。
「娘一人捕まえられねぇ連中が、随分偉そうだな。」
誰も笑わない。その軽口だけが、雨の中へ落ちた。
背後から再び馬蹄が近付く。林で撒いた三騎が追いついてくる。
その姿を見て、ロブがゆっくりと半月剣を構えた。
騎士たちの空気が変わる。
次の瞬間。戦闘の騎士が踏み込んだ。
長剣が雨を裂く。
ロブは退かなかった。むしろ、自分から踏み込み、半月剣を斜めへ滑らせる。
甲高い金属音。長剣がわずかに流れた。
その懐へ、一歩踏み込み、拳が鎧へ叩き込まれる。
鈍い衝撃音。
騎士の身体が二、三歩後退した。
誰も追撃しない。いや、できなかった。
踏み込もうとしていた騎士たちの足が止まる。
互いに視線だけを交わし、じり、と間合いを測り直す。
そこへ後衛の騎士が弓を放つ。矢が一直線にリュートへ向かう。
ルナが短く詠唱する。
風が矢羽を撫で、軌道がわずかに逸れる。そのまま矢は地面へ深く突き刺さった。
誰のものとわからない舌打ちが響き、間髪入れず、騎士たちが再び斬り込む。
ロブが前へ出る。
横から振り抜かれたメイス。
その軌道へ滑り込むようにリュートが踏み込んだ。
盾が相手の腕を軽く押す。ほんのわずかだが、それだけで軌道は逸れる。
メイスが空を切った。
その隙に、リュートの剣が雨粒を裂きながら騎士の首筋を走る。
赤い飛沫が雨へ溶けた。
誰も、その倒れた身体へ目を向けなかった。
残った騎士たちは、歯を食いしばりながら剣を握り直していた。
戦いは、始まったばかりだったがその形成は定まりつつあった。
人数だけを見れば、なおもマルク家が勝っていた。
相手は戦闘できるものは半数の三人しかいない。
だが、実際に刃を交えた今、その差は数字ほどの意味を持たなくなっていた。
後衛の弓は、ルナの風魔法によって封じられている。
狙いを付けても、放たれた矢はわずかに軌道を逸らされる。
前衛では、ロブとリュートの二人の前に突破するイメージを作れないでいた。
相対している騎士たちも弱くはない。
故に、一度打ち合えば、目の前の二人が自分たちよりも格上だと理解するには十分だった。
その現実が、騎士たちの足を止めていた。
雨だけが静かに降り続く。
張り詰めた沈黙の中、マルク家当主が口を開いた。
「……なぜ、そこまでしてその娘を庇う。」
リュートは剣を肩へ担ぎ直す。
「逆に聞く。」
視線だけが男へ向く。
「ここはラティス家の領地だ。」
一歩踏み出す。
「いつから他家の騎士が、好き勝手歩き回れるようになった。」
男は鼻で笑う。
「ラティス家など、もう終わった家だ。娘を捕らえ、献上する。それだけの話だ。」
リュートの表情から笑みが消えた。
「……なるほど。」
小さく息を吐く。
「ようやく分かった。」
男が口元を歪める。
「理解したか。」
「いや。」
リュートは静かに首を振る。
「面倒なことになったと思っただけだ。」
そう言って、何でもないことのように続けた。
「ティスは俺の嫁だ。」
雨音だけが残る。誰も言葉を発さない。
当のティスが目を丸くする。ロブが思わずリュートを見る。
ルナは額へ手を当て、小さくため息をついた。
騎士たちの間にもざわめきが走る。
「戯言を。」
当主が吐き捨てる。
「その場しのぎの嘘など——」
「嘘じゃねぇ。」
言葉を最後まで言わせなかった。
「つまり。」
リュートは剣先をゆっくり持ち上げる。
「ティスへ手を出すってことは、リアン家へ喧嘩を売るってことだ。」
騎士たちから失笑が漏れる。
「潰れた家に何ができる。」
「威光だけで飯が食えるなら苦労せん。」
リュートは肩を竦めた。
「そう思うなら来い。」
一歩。また一歩。騎士たちとの距離を詰める。
「俺が威光だけで生きてきたか、試してみろ。」
誰も動かない。
先ほど斬られた騎士の血が、まだ雨に流されている。
その光景が、嫌でも目へ入る。
リュートはさらに言った。
「ただし。」
声が低くなる。
「その前に、イース家が本当にそれを望んでるか確認しとけ。」
マルク家当主の目が細くなる。
現場の騎士には分からない。だが中堅とはいえ当主には分かる。
もし独断だった場合、もしリアン家との衝突をイース家が望んでいなかった場合。責任は、すべて自分へ返ってくる。
しかも力でねじ伏せるには、容易には勝てそうもない。
仮に勝っても被害は避けられない。その犠牲を払う価値が、本当にあるのか。
男は答えを出せずにいた。
雨音だけが流れる。
やがて男は小さく舌打ちした。
「……引く。」
短い一言だった。
騎士たちが剣を収める。張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
馬首が返される。
当主は一度振り返り、何かを言おうとしたが、形になることはなかった。
その姿が見えなくなるまで、誰も動かなかった。
最初に息を吐いたのはロブだった。
「……寿命が縮んだ。」
半月剣を肩へ担ぎながら苦笑する。ルナも小さく肩を落とした。
ティスはその場へ立ち尽くしていた。
助かった。
そう理解しても、身体が動かない。
数日間張り詰め続けた緊張が、一気に押し寄せる。
膝が震えた。その肩へ、そっと手が置かれる。
振り向くと、リュートが立っていた。
「終わった。」
その一言だけだった。
ティスはゆっくりと息を吐く。
西へ帰ってきた。生きて、帰ってこられた。
その実感が、ようやく胸の奥へ静かに染み込んでいった。




