02 歓迎されない訪問者
翌朝。
屋敷に満ちる空気は、確かに変わっていた。
重く淀んでいた埃っぽさは薄れ、開け放たれた窓から流れ込む風が、長く閉ざされていた室内をゆっくりと巡っていく。廊下には掃き清められた跡が残り、踏みしめる床の感触さえ昨日とは違っていた。
完璧には程遠い。
それでも屋敷はようやく、人が暮らす場所として息を吹き返し始めていた。
しかし、窓辺に立ったティスの目に映る村は、昨日とほとんど変わっていなかった。
細く立ち上る炊事の煙。畑へ向かう人影。海へ出る漁師たち。
確かに人は動いている。
だが、その営みはすべて内へ閉じていた。
家族のため。今日を生きるため。
その小さな輪の外へ目を向ける余裕は感じられない。
この屋敷に新しい領主一家が来たことなど、村にとっては世界の外側の出来事なのだろう。
見えてはいる。だが、見られてはいない。
その奇妙な距離が、はっきりとそこにあった。
「……やっぱり、何も変わらないか。」
思わず小さく呟く。
昨日は到着したばかりだった。
荷ほどきも続いていたし、誰も訪ねて来なくても不思議ではない。
だが一夜明ければ、誰か一人くらい顔を出すのではないか。
そんな淡い期待が、どこかにあった。その期待は静かに裏切られた。
「当然でございます。」
背後から落ち着いた声が返る。
振り返るまでもない。ウェンだった。
気配もなく、いつものようにそこへ立っている。
父を長く支えた元文官だと聞いている。
だが、その立ち居振る舞いは、とても机に向かう者だけのものとは思えなかった。
音を立てずに歩き、必要な時だけ姿を現す。
その得体の知れなさが、ティスは少し苦手だった。
「一日で人が変わるのであれば、この村は今の姿にはなっておりません。」
淡々とした口調だった。
慰めでも否定でもない。ただ事実を述べているだけ。
だからこそ反論できない。
(……そうね。)
変わるべきなのは村ではない。
まずは自分だ。待っていても何も始まらない。
官学で学んだ領地経営も、治水も、税も、すべて机上の知識に過ぎない。
だからこそ、この土地で試したい。
まずは知ることから始めよう。
ティスは踵を返した。
「では、行ってまいります。」
「どちらへ。」
間を置かず、ウェンが尋ねる。
「村です。」
ティスは微笑んだ。
「まずは歩いて、この土地を知ろうと思います。」
ウェンは静かにティスを見つめた。止める様子はない。
ただ一つだけ確認するように口を開く。
「でしたら、護衛をお付けいたします。」
「必要ありません。」
ティスは即座に首を振った。
「大勢で歩けば、かえって警戒されます。」
もっともな理由だった。ウェンも理解している。
しかし、それだけでは頷けない。
「最低限の安全は確保していただきます。」
穏やかな声のまま、言葉だけは譲らない。
「ここはまだ、お嬢様にとって未知の土地です。」
ティスは小さく肩をすくめた。
「つまり――」
少しだけ口元を緩める。
「ウェン、あなたが付いてくるということですね。」
数秒の沈黙。やがてウェンは静かに一礼した。
「左様でございます。」
その返答に、ティスは小さく笑う。
「それなら仕方ありません。」
完全な勝負ではなかった。
最初から、お互いに落としどころは分かっていたのだ。
ティスは屋敷の扉を押し開ける。朝の光が差し込み、潮の香りを含んだ風が頬を撫でた。
「行きましょう。」
そうして二人は、この村を知るための最初の一歩を踏み出した。
村へ続く道は、長い年月を踏み固められてきた土の道だった。
石畳のように整えられてはいない。
大小の石が顔を出し、ところどころには浅い轍が刻まれている。
雨が降れば、たちまちぬかるむだろう。
歩くたび乾いた土が靴へまとわりつき、やがて静かに落ちていく。
領都の整えられた街路とは、まるで別の世界だった。
そして――村へ足を踏み入れた瞬間。
視線を感じた。
(……見られてる。)
畑で鍬を振る男の手が止まる。網を繕う女が顔を上げる。子どもが興味を引かれて数歩近づき、大人に静かに引き戻される。
どれもほんの一瞬のことだ。そして、それだけで十分だった。
彼らは確かにこちらを見ていた。そして何事もなかったように、また仕事へ戻っていく。
(興味がないんじゃない。)
むしろ逆だ。
(関わらないようにしている。)
その距離の取り方は、あまりにも意図的だった。
ティスは歩きながら周囲を観察する。
家々は古い。日に焼けた木材には何度も補修した跡が残る。だが、崩れてはいない。
畑も丁寧に耕されていた。土色は薄く、地力は高くない。官学で見た資料どおりなら、大きな収穫は望みにくい土壌だ。それでも雑草は少なく、手入れは行き届いている。
さらに歩くと、潮の香りが濃くなった。建物の隙間から海が見える。昨日見た海より、ずっと近い。岸には小舟が並び、干された網が風に揺れていた。
農業と漁。
どちらも大きくはない。だが、生活を支えるだけの循環はある。
(回ってはいる。)
飢えるほどではない。しかし、豊かとも言えない。
壊れてはいないが、新しくもない。そんな均衡の上で、この村は成り立っていた。
ティスの姿は否応なく目立っていた。装飾は控えめでも、仕立ての良いドレスは村人の衣服とは明らかに違う。
「あれが……」
「中央から来た……」
「貴族様か。」
囁き声が風に乗って耳へ届く。
ティスは気づかないふりをした。
背後でウェンが半歩前へ出ようとする気配がある。だがティスは軽く手を上げ、それを制した。
ここで守られてしまえば、この距離はさらに広がるだけだ。
今は、この空気そのものを知ることに意味がある。
やがて畑で働く一人の男の前で足を止めた。
日に焼けた肌。使い込まれた鍬。無駄のない動き。
長くこの土地で暮らしてきたことが、一目で分かる。
まずは、一人。
ティスは静かに声を掛けた。
「こんにちは。」
男はすぐには反応しない。
やや間を置いて顔を上げる。
その目は値踏みするようでもあり、距離を測るようでもあった。
「……何か用か。」
「昨日、この屋敷へ参りました。」
ティスは柔らかく続ける。
「この村のことを教えていただけませんか。」
男の眉がわずかに動いた。
「知ってどうする。」
試すような問いだった。
ティスは飾らず答える。
「この土地で、私に何ができるのか考えたいのです。」
男の手が止まった。
しばらく沈黙が流れる。
やがて再び鍬を動かし始めた。
「見りゃ分かるだろう。」
乾いた土を返す音だけが響く。
「見て分かること以上のことは、何もねぇ。」
それだけだった。
ティスはそれ以上踏み込まなかった。
何を重ねれば、この距離を壊さずに済むのか。
まだ答えが分からなかった。
「ありがとうございました。」
小さく頭を下げ、その場を離れる。
さらに歩みを進めた先で、ティスの目に入ったのは、海辺に近い一角だった。
粗く組まれた木枠に網が広げられ、数人の女たちがそれを囲んで手入れをしている。指先は慣れたもので、絡まった糸をほどき、傷んだ箇所を繕う動きに無駄はない。
ティスが近づくにつれて、かすかな会話が聞こえていたが――数歩の距離まで来たときそれが途切れた。まるで風が止んだかのように。
ティスはわずかに目を細め、ほどよい距離で立ち止まり軽く会釈した。
礼儀としては、十分なはずだった。 だが――返ってきたのは、言葉ではなかった。
こちらを見ているが、見ていないふりをしている。そんな曖昧な視線。そこにあるのは、先ほどの男と同様に拒絶ですらない深い溝を挟んだ距離だけがあった。
敵意を向けられる方が、まだ分かりやすい。だがこれは違う。
関係を持たないという選択。
それが、この村の総意であるかのように。ティスはそれ以上言葉を重ねることなく、ゆっくりと踵を返した。
村を一周して屋敷への道へ戻る。
畑の広さ。作物の種類。船の数。網の傷み具合。
一つひとつを頭の中へ刻み込んでいく。
(……これが、今のこの村。)
行きと同じ道。けれど足取りは少しだけ重かった。
「……嫌われていますね。」
ぽつりと呟く。
「現時点では、その認識でもよろしいかと。」
ウェンは淡々と答えた。
「どうしてかしら。」
「理由の一つは、中央から来た貴族だからでしょう。」
「それだけで?」
「それだけで十分な場合もございます。」
ティスは黙って耳を傾ける。
「長く暮らす者ほど、外から来る者に期待を抱きません。」
ウェンは静かに続けた。
「期待した末に裏切られた。その積み重ねが、今の距離なのでしょう。」
ティスは小さく頷く。
なるほど、と胸の中で呟く。
彼らは期待していないのではない。
期待しても無駄だと知っているのだ。
「それと。」
ウェンが言葉を切る。
「その装い、かと。」
ティスは自分の服へ視線を落とした。
上質な布。丁寧な仕立て。控えめでも、この村では十分すぎるほど目立っていた。
「……失敗しましたね。」
「いえ。」
ウェンは首を横に振る。
「現状を知るには、必要な一日だったかと。」
慰めではない。事実としてそう告げている。
ティスは静かに息を吐き、顔を上げた。
「まずは、一人。」
ウェンが視線を向ける。
「一人でも、ちゃんと話してくれる人を見つけます。」
その声には迷いがなかった。
変える前に、知らなければならない。
知るためには、誰か一人と向き合わなければならない。
屋敷が見えてくる。古く、大きく、静かな建物。
歓迎されなくてもいい。今はまだ拒まれていても構わない。
それでも、自分から歩み寄る。
そう決めたのだから。




