03 交渉の席
その後の一週間は、驚くほど早く過ぎていった。
ティスは毎日のように屋敷を出て、同じ道を歩き、村へ足を運んだ。
最初は歩きにくく感じていた土の道も、今では足に馴染み始めている。
畑では土を手に取り、乾き具合や粒の大きさを確かめる。作物の葉をめくり、色や育ち方を見比べる。日当たり。水はけ。畑ごとの違い。
わずかな差も見逃さぬよう、一つひとつ頭の中へ積み重ねていった。
海へも通った。
風向きが変われば潮の匂いも変わる。
船が出る時間。戻る時間。漁師たちの表情。網の傷み具合。短い掛け声だけで伝わる合図。
そこには、この土地で積み重ねられてきた暮らしが確かにあった。
そして、村人たちにも毎日のように声を掛け続けた。
最初の頃のように完全に無視されることはなくなった。
問いかければ返事は返るが、それだけだった。
必要なことだけ答え、会話はそこで終わる。
距離は少し縮まった。しかし、心までは届いていない。
それでもティスは焦らなかった。
(……少しずつ見えてきた。)
歩き、見て、触れて、考える。その繰り返しが、村の輪郭を少しずつ鮮明にしていく。
土は痩せていても、作物は育つ。だが、勢いがない。
水は流れている。しかし貯める仕組みがない。
畑を広げられる土地も残っている。それでも誰も広げようとはしない。
この状況では、収穫は天候に左右される割に大きく伸びる余地がない。
海も同じだった。
潮は速く、風は変わりやすい。少し判断を誤れば命を落とす。だから無理はしない。
増やすことより、今日を無事に終えることが優先される。
村全体が、そういう暮らしを選んでいた。
一方で、屋敷は日に日に姿を変えていた。
磨き上げられた廊下。陽光を映す窓。整えられた家具。閉ざされていた部屋にも風が通り、人の気配が戻っていく。
食卓へ並ぶ料理も、豪華ではないが温かく整っていた。暮らしは確実に安定し始めている。
ティスは数日かけて書き上げた紙束へ目を落とした。
村の現状。問題点。改善案。すぐ試せるもの。時間を掛けるもの。
まだ机上の理論に過ぎないもの。
それでも構わない。何も考えないより、ずっと前へ進んでいる。
窓の外には変わらぬ村。振り返れば整い始めた屋敷。
その対比は、日に日に大きくなっていた。
(変えられないはずがない。)
その思いは、もう願望ではない。
観察し、考えた末に辿り着いた結論だった。
ティスは紙束を抱え、屋敷を後にした。
村の中央には、この村では一回り大きな建物が建っていた。
村長の住まいであり、同時に村の役場でもある。
昼間になると数人の村人が机に向かい、収穫や税、共有倉庫の管理などを記録している。
村は小さいが、人が暮らす以上、まとめる者と記録する場所は必要だった。
入口近くには年配の男が立っていた。
村長である。
飾り気のない服。日に焼けた顔。多くを語らずとも、この村の誰もが従う理由が伝わってくる。
ティスは一歩前へ進んだ。
「失礼します。」
男はゆっくり視線を向ける。
「……何の用だ。」
低く重い声だった。
遠目には何度か見ている。
だが正面から向き合うのは初めてだった。
向けられた視線には敵意はない。ただ、値踏みするような慎重さがあった。目の前の相手へ時間を使う価値があるのか。それを測っている目だった。
「ご提案があります。」
飾らず、真っ直ぐに言う。
村長の眉がわずかに動く。
「……提案か。聞く理由がないな。」
即答だった。
役場にいた男たちから小さな笑いが漏れる。
当然だった。村を知らない若い娘が突然現れ、提案があると言う。
まともに取り合う理由などない。
(想定通り。)
ティスは一つ息を整えた。
「この村の食糧についてです。」
その言葉だけで、村長の表情がほんのわずかに変わる。
興味ではない。無視できない話題だと判断しただけだった。
だが、それで十分だった。
「間に合っている。」
返事は短い。
「今は、回っているのは分かっています。」
ティスは続ける。
「ですが、一度不作になれば――」
「分かっている。」
村長が静かに遮る。
声に怒気があるわけではない。何度も考え、何度も答えを出してきた者の声だった。
「苦しい年がなかったわけじゃない。それでも乗り切ってきた。これまでも。これからもだ。」
その言葉に誇張はない。
自慢でもない。村人の命を預かる者として、危険な賭けを避け続けた末の結論だった。
確実に生き延びる。それが村長の責任だった。
場の空気が再び閉じる。
ティスは紙束を握る手に力を込めた。
(……やっぱり、そう簡単にはいかない。)
想定はしていた。それでも、実際に向き合うと、その壁は思っていた以上に厚かった。
ティスは、息を整えた。
ここで押し続ければ、ただ拒絶を強めるだけになる。
だが、それでも、自分の話を聞いてもらうには力で押さなければならない。
内容さえ伴えば、この村長たちも後から態度を軟化させる。そう考えるしか残された道はなかった。
「……失礼いたしました。」
その一言だけで、張り詰めていた空気がほんのわずかに緩む。
だが、それは終わりではなかった。
ティスは顔を上げる。その瞳には、まだ揺らがぬ意思が宿っていた。
「では――ラティス家の名において、お話をさせていただきます。」
静かな声だった。
しかし、その一言は場の空気を再び変えた。
村長の視線が、初めて真正面からティスを捉える。
先ほどまでの、値踏みするような眼差しではない。
今度は確かに、一人の相手として見据えていた。
「私は、オルフェン・ラティスの娘です。」
淡々と事実を告げる。
この辺境であっても、ラティス家の名を知らぬ者はいない。
衰えたとはいえ、この地を治める領主家であることに変わりはない。
その名を借りる以上、自分の言葉には責任が伴う。
後には引けない。それでも――
(ここで動かなければ、何も変わらない。)
その思いだけは揺るがなかった。
「領主家の一員として、この村を見て回った結果を報告し、その上で改善案をご提案いたします。」
役場の中が静まり返った。
先ほどまで漏れていた笑い声は消え、村役人たちは互いに顔を見合わせることも忘れたように黙り込んでいる。
張り詰めた空気だけが、その場を満たしていた。
やがて村長が低く口を開く。
「……脅しか。」
その声に怒気はない。
むしろ、その真意を測ろうとする慎重さが滲んでいた。
ティスはすぐに首を横へ振る。
「いいえ。聞いていただきたいだけです。判断は、すべて村長にお任せします。」
押しつけない。だが、引きもしない。選ぶのは相手だ。
その余地を残すからこそ、話を聞く理由も生まれる。
再び沈黙が落ちた。
外では風が木々を揺らしている。
誰一人として口を開かない。ティスも動かなかった。
視線を逸らさず、ただ村長の返答を待ち続ける。
やがて、村長は小さく息を吐いた。
「……面倒な娘だ。」
呆れたような声音だった。
本来であれば、領主家の娘が一人で役場へ乗り込み、このような話を持ち込むこと自体がおかしい。
従者の一人でもいれば止められていただろう。勢いだけで動いた若さゆえの無茶。
村長にはそう映っていた。
だが同時に、その無茶を押し通してここまで来た覚悟も感じ取っていた。
しばらく黙したあと、村長はゆっくりとうなずく。
「……いいだろう。」
低く、短い声。
「領主家からの報告というのであれば、聞かぬわけにはいかん。」
それは領主家に従ったからではない。
この村を預かる者として、必要な報告を受ける責任を果たすという判断だった。
「だが――」
村長は念を押すように続ける。
「聞くだけだ。」
「ありがとうございます。」
ティスは深く頭を下げた。
声は静かだったが、その胸には確かな手応えがあった。
拒絶されて終わるはずだった場所で、ようやく言葉を届けられる位置まで辿り着いた。
それだけで十分だった。
ティスはゆっくりと顔を上げる。
抱えた紙束が、先ほどよりも重みを増したように感じられる。
そこに書かれているのは、思いつきではない。
この一週間、この村を歩き、見て、触れ、考え続けた末にまとめ上げた答えだった。
ティスは一歩前へ出る。
いよいよ――本当の意味での勝負が始まろうとしていた。




