01 西へ向かう馬車
馬車は西へ、西へと進んでいた。
石畳の整った街道は、いつしか土の色を濃くし、轍は深く刻まれ、車体は容赦なく揺さぶられるようになっていた。露出した土は乾ききって赤茶けている。轍には、雨を吸っては乾きを繰り返した跡が、そのまま傷のように残っていた。車輪が小石を噛むたび、硬質な音が鈍く響く。ぎし、と軋む音に混じって馬の荒い鼻息が漏れた。進むほどに揺れは増し、身体の芯までじわじわと疲労が滲んでくる。
ここはリテイア領――海運と通商によって栄えた土地。その領都を離れ、西へ進むにつれて街道は目に見えて荒れていった。
整備が止まった街道。官学で学んだ通りなら、それは人や物の流れが細り、税収も縮小している証だ。維持する価値を失った道は、真っ先に手入れを止められる。
つまり、この先に待つのは、そういう土地だった。
馬車は外見こそ質素である。装飾は抑えられ、遠目にはありふれた旅用の車両と変わらない。だが、その内側は違った。丁寧に布で包まれた調度品。堅牢な木箱に収められた食器や衣類。どれも素人目にも上質と分かる品ばかりだ。
それらは、この旅が単なる移動ではないことを静かに物語っていた。
「はぁ……」
沈み込むようなため息が、揺れる車内に落ちる。
窓の外を眺めていたティスは、やがて諦めたように視線を伏せた。森を抜け、山を越え、さらに林を抜けても、広がるのは代わり映えのしない平地ばかり。馬車が揺れるたび身体が浮き、遅れて座面へ叩きつけられる。旅の物珍しさなど、とっくに消えていた。
「どうして、こんなところまで来なきゃいけないの……」
愚痴というより、疲労から漏れた独り言だった。
隣に控えるメイドが、困ったように微笑む。
「お嬢様。旅もまた、良い経験でございます。」
「こんな何もない場所が?」
ティスは窓の外を顎で示した。
見渡す限り荒れた道と低い丘。人影すらほとんどない。
(せめて、もう少し人のいる土地なら……)
官学を学び、卒業して二年。ようやく学んできたことを現実の政務で試せると思っていた。
なのに、辿り着く先は、中央から忘れ去られたような辺境だった。
「せめて、もう少しまともな街なら……」
そう言いかけたところで、メイドが言葉を選ぶように目を伏せる。
「中央から離れるほど、このような土地は珍しくございません。服や宝飾とは縁遠い場所ではございますが――」
「――お嬢様。」
低く、よく通る声が車内へ届いた。
御者台からの声にもかかわらず、不思議とすぐ傍で囁かれたように聞こえる。
「ご感想は、到着されてからでも遅くございません。」
執事のウェンだった。
穏やかな口調ではあるが、それ以上余計な話を広げさせない意思が滲んでいる。
「……失礼いたしました。」
メイドは静かに頭を下げた。
ティスも口を閉じる。不満は消えていない。けれど、ウェンが場を収めようとしていることは理解していた。
馬車には再び車輪の音だけが流れる。
やがて、その静寂を破ったのは向かいに座る男だった。
「ふむ……」
オルティスは窓の外を眺めたまま呟く。
「街道の整備は途中で止まったか。いや……予算そのものが回らなくなったのだろう。」
少し太った身体が揺れに合わせてわずかに動く。その細められた目は、眠たげな印象とは裏腹に周囲を鋭く観察していた。
「往来も少ない。物流は細いな。」
馬車が小さく傾く。
「あの橋も補修はされているが古い。最低限、使える状態を保っているだけか。」
誰に聞かせるでもない独り言。
だが、その一つひとつは土地の価値を測る査定のようでもあった。
ティスは父の横顔を盗み見る。
(……この人には、何が見えているんだろう。)
自分には何もない土地にしか見えない景色が、父には別の意味を持って映っているのかもしれない。
そして、もう一つの疑問が胸に浮かぶ。
(どうして……私まで。)
ラティス家は、かつてリテイア領でも指折りの名家だった。領都近郊の港を押さえ、海運と通商によって莫大な富を築いた一族。その栄華は、ティスが幼い頃にはまだ当たり前のものだった。
だが、それは急速に崩れた。
政争に敗れ、不利な役目を押し付けられ、家は次々と力を失っていった。港を手放し、人も離れ、中央での発言力も薄れていく。
そして最後に示されたのが、この地への領地替えだった。
名目は領地の転換だが、誰の目にも、それが中央から遠ざけるための処分であることは明らかだった。
戻れる保証など、どこにもない。
それでも――。
(お父様一人で十分だったはず。)
母は離縁という形で実家へ戻された。自分も同じように預けられていれば、この地へ来る必要はなかった。
それなのに父は、自分を手放さなかった。守るためなのか。それとも、別の理由があるのか。
父の考えは昔から読めない。だからこそ、その沈黙が気になって仕方がなかった。
そのとき、馬車の揺れがわずかに変わった。軋み方が柔らかくなり、土の質が変わったことを告げている。
「お嬢様。前方をご覧ください。」
ウェンの声に促され、ティスは顔を上げた。 開けた土地の先に小さな村が見える。細く立ち上る煙。かすかに感じる人の気配。
だが、その規模はあまりにも小さい。目に入る家屋を数えるだけでも、五十には届かない。三十ほど――いや、それ以下かもしれない。かつて自分がいた都市と比べれば、まるで影のような存在だ。人口にすれば、百分の一にも満たないだろう。
さらに目を引いたのは、その背後に広がる海だった。岩礁に砕ける白波。絶えず吹きつける風が、地表の草を低く揺らしている。その光景は美しいというよりも、むしろ厳しさを露わにしていた
――ここで、暮らす。
そう思った瞬間、胸の奥がわずかに冷えた。
視線を巡らせる中で、ひときわ大きな建物が目に入る。
「あれが……私たちの屋敷?」
思わず漏れた声に、馬車の向かいからオルティスが短く同意の言葉が漏れる。
それは確かに屋敷だった。
造りそのものは、かつての格式を感じさせる。しかし白かったはずの外壁はくすみ、風雨に晒された跡が残っている。屋根の一部には補修を急ぐべき傷みも見えた。
荒れ果てているわけではない。
だが、長く十分な手入れを受けていないことは一目で分かる。
「……手入れが足りてない。」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
「最低限の維持だな。」
オルティスは静かに頷く。
「崩れぬ程度には手を入れている。それ以上の余裕はない、ということだ。」
馬車はゆっくりと屋敷へ近づいていく。
壁のひび。補修の跡。伸び放題の庭木。
近づくほど、この屋敷が抱える年月の重みが見えてきた。
そして同時に、ここが自分の新しい居場所なのだという現実も、少しずつ輪郭を帯びていく。
「本日より、こちらでお過ごしいただきます。」
ウェンが穏やかに告げた。
その声は事実を述べるだけだったが、不思議と人を落ち着かせる響きがあった。
ティスは小さく息を吐く。
(……逃げても仕方ない。)
まだ受け入れたわけではない。
それでも、まずはこの場所を知るしかない。
馬車は静かに屋敷の前へと止まった。
到着後の動きは驚くほど速かった。
馬車が止まると同時にウェンは使用人たちへ短く指示を出し、荷物は次々と屋敷へ運び込まれていく。
閉ざされていた窓が開き、重たい空気が外へ流れ出す。
埃を払い、水を確かめ、寝具を整え、火を起こす。
長く眠っていた屋敷が、再び息を吹き返していくようだった。
その様子を見ながら、ティスは父が信頼する理由も、少しだけ分かった気がした。
その夜。
広い食堂の一角だけに灯りがともり、長い食卓にはオルティスとティスだけが向かい合って座っていた。
背後にはウェンとメイドが静かに控えている。
料理は質素だった。それでも温かく、長旅の疲れを少しだけ和らげてくれる。
しかし食卓に会話はなかった。
食器の触れ合う音だけが静かに響く。
やがてティスはフォークを置いた。
「父上。」
オルティスが視線だけを向ける。
「ここで、父上は何をなさるおつもりですか。」
しばらく沈黙が流れた。
「何もしない。」
あまりにも短い返答だった。
「……何もしない?」
「文字通りだ。」
オルティスは静かに答える。
「この地へ手を出さない。それが、今のラティス家に求められている。」
ティスは眉を寄せた。
「村人が誰も挨拶に来ないのもそのためだ。こちらに期待していないか、あるいは関わりたくないと思っている。」
淡々と語られる現実。
だが、その一つひとつが胸に重く積もっていく。
「それで、いいのですか。」
ティスは思わず問い返していた。
「構わん。」
オルティスは迷わない。
「今のラティス家に必要なのは、生き残ることだ。」
その言葉に、ティスは視線を落とした。
確かに理解はできるが、納得はできなかった。
官学で学んだ二年間。領地経営も、税も、治水も、人の暮らしも学んできた。
その知識を何一つ試さず終わるために、自分はここへ来たわけではない。
ゆっくり顔を上げる。
「私は嫌です。」
その一言に、食堂の空気が止まる。
オルティスは黙って娘を見つめていた。
「屋敷も村も、このままでは住みにくすぎます。」
感情ではない。
現状の確認だった。
「だから、より良い形へと変えたいんです。」
父の眉がわずかに動く。
「人を知って、この土地をもっと暮らしやすく。」
ティスは続ける。
「中央から来ただけで終わるのは嫌です。私も、いつか自分の領地を預かる日が来るかもしれません。その時、何もできない人間では困ります。」
失った港。衰えていくラティス家。政争に敗れた現実。
そのすべてを見てきたからこそ、もう何もしないという選択だけはしたくなかった。
「ここで学んで、ここで試したいんです。」
静寂が落ちる。
オルティスは娘をじっと見つめていた。まるで、その覚悟の重さを量るように。
やがて小さく息を吐く。
「……面倒なことを言う。」
口調は呆れたようだった。だが、否定はしない。
「戻れないかもしれんぞ。」
試すような問いだった。
ティスは迷わなかった。
「何もしなくても、戻れる保証はありません。」
その返答を聞いたオルティスは、わずかに口元を緩める。
本当にわずかだった。ウェンだけが、その変化に気づいてた。
「……そうか。」
数秒の沈黙。
そして父は静かに告げた。
「好きにしろ。」
短い一言。
それは突き放す言葉ではなく、自分の足で歩くことを許した父親の答えだった。
ティスは小さく息を吐く。
胸の奥にあった重さが、少しだけ軽くなる。何もないと思っていたこの土地で。
自分の力を試す最初の一歩が、ようやく始まろうとしていた。




