第2話 正しいことが、正しいとは限らない
朝礼が終わると、フロアの空気は少しだけ軽くなった。
誰も何も言わないまま、それぞれが自分の仕事に戻っていく。
席に戻り、パソコンの画面を開く。
受信トレイには新しいメールがいくつも並んでいる。
一つひとつ開いていく。
確認、返信、調整。
やることは明確なのに、どこか実感が薄い。
仕事をしているはずなのに、
ただ処理しているだけのような感覚があった。
内線が鳴る。
「はい、佐藤です」
『先方から連絡ありました。例の件、やっぱり来月にずれ込むそうです』
予想していた内容だった。
それでも、胃の奥が少しだけ重くなる。
「そうですか……分かりました。ありがとうございます」
受話器を置く。
分かっていたことだ。
それでも、数字がさらに遠のく。
山岸からの資料も、まだ確認しきれていないままだった。
画面に表示された進捗表を見つめる。
あと少し届かない数字が、やけに大きく見えた。
「課長」
顔を上げると、野本が立っていた。
「さっきの案件、価格の件なんですけど」
「ああ」
「この条件だと、正直、勝ち目薄いと思います」
感情はない。
事実だけを並べる口調だった。
「もう少し下げられませんか?」
簡単に言うな、と思う。
値引きは魔法じゃない。
下げれば利益が削れる。
その分、どこかで説明が必要になる。
けれど、その言葉は口に出なかった。
「……検討する」
短く答える。
野本はわずかに間を置いてから、静かにうなずいた。
「分かりました。ただ、遅れると厳しいと思います」
それだけ言って、自席に戻っていく。
正しいことを言っている。
だからこそ、何も言い返せない。
椅子にもたれ、目を閉じる。
正しさだけで仕事が回るなら、こんなに楽なことはない。
けれど現実は、
誰かの都合と、誰かの判断と、
そして自分の曖昧さの上に成り立っている。
画面に向き直り、取引先へのメールを打つ。
価格の再調整について、
社内で検討のうえ、改めてご連絡いたします。
丁寧な言葉を選びながら、
自分の中では何も決まっていない。
それでも文章だけは、きれいに整っていく。
昼休みになった。
席を立ち、コンビニへ向かう。
人の流れに混ざりながら、ただ歩く。
店内に入ると、温かい空気と油の匂いが広がる。
棚の前で少し迷い、サンドイッチとコーヒーを手に取る。
レジで支払いを済ませ、外へ出た。
近くの公園のベンチに座る。
風はまだ冷たい。
手に持ったコーヒーの熱だけが、わずかに現実を感じさせた。
周りでは、同じようにスーツ姿の人たちが昼食をとっている。
誰かと話している人もいれば、一人でスマートフォンを見ている人もいる。
そのどちらにも、完全には属していない気がした。
スマートフォンを取り出す。
通知は特にない。
家族のグループも、静かなままだった。
画面を見つめたまま、ふと考える。
いつから、こうなったのだろう。
特別なきっかけはなかったはずだ。
少しずつ、少しずつ、
気づかないうちに距離ができていった。
仕事でも、家でも。
サンドイッチを一口かじる。
味は分かる。
けれど、それ以上の何かは感じない。
ただ、食べているだけだった。
遠くで、子どもの笑い声が聞こえた。
視線を向けると、保育園児の集団が歩いている。
小さな手をつないで、列になって進んでいく。
その光景を見ていると、胸の奥が少しだけざわついた。
自分にも、ああいう時間があったはずだった。
そして、息子にも。
けれど今は、同じ家にいても、
どこか遠くにいるような気がする。
視線を戻し、残りのサンドイッチを食べる。
昼休みは、あっという間に終わる。
特別なことは何もない。
ただ時間だけが過ぎていく。
立ち上がり、会社へ戻る。
午後もまた、同じように仕事が続く。
変わらない日常。
変えられない現実。
それでも、進むしかない。




