第1話 朝、まだ何も始まっていないのに疲れてる
仕事や人間関係の中で、ふとした違和感ややりきれなさを描いています。
大きな出来事はありませんが、日常の中で揺れる感情の物語です。 でいきます。
満員電車の窓に映る自分の顔を見て、佐藤恒一はぼんやり思った。
いつからこんな顔になったのだろう、と。
疲れている、というより、すり減っているように見えた。
四十二歳。営業課長。妻と中学生の息子がいる。住宅ローンもまだ残っている。
誰が見ても、特別に不幸な人生ではないはずだった。
それでも、毎朝こうして電車に揺られながら、自分の顔を見るたびに思う。
――このまま、何も変わらず終わるのだろうか。
車内は今日も息苦しかった。
背中には誰かの体温、腕には鞄の角、どこからか混ざる香水と整髪料の匂い。
人と人との距離が近すぎて、自分の輪郭が曖昧になる。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面を見る。
会社のメールが三件。
七時十二分。まだ勤務時間ではない。
それでも、見ないという選択肢は、もうなかった。
一件目は取引先からの見積修正。
二件目は部下からの確認依頼。
三件目は、営業部長からだった。
件名は短い。
「本日朝礼にて確認」
それだけで、胃の奥が重くなる。
メールを開くと、今月の進捗表が添付されていた。
自分の課だけ、数字が低い。
達成率七三パーセント。
理由はいくつもある。
案件の延期、先方都合、競合の影響。
けれど、それを並べたところで意味がないことも分かっている。
結果だけが残る。
スマートフォンの画面を閉じると、窓に映る自分の顔がまた目に入った。
目の下に影がある。
昨夜も、よく眠れなかった。
「次は、浅草橋、浅草橋です」
アナウンスが流れる。
人の流れに押されるように、電車を降りた。
改札へ向かう人の波に紛れながら、ふと周りを見る。
笑いながらスマホを見せ合う若い社員。
イヤホン越しに明るい声で話す女性。
自分とは違う場所にいるように見えた。
会社へ向かう途中、コンビニでコーヒーを買う。
紙カップの熱が、手のひらにじんわり伝わる。
信号待ちの間、またスマートフォンを開いた。
部下からの追加メッセージ。
「課長、資料の件、急ぎ確認お願いします」
急ぎ。
朝からその言葉ばかりだと思った。
自分も急いでいる。
毎日、何かに追われている。
けれど、それを誰かに言うことはない。
会社に着くと、まだ始業前なのに、ほとんどの席が埋まっていた。
いつも通りの光景だった。
鞄を置き、コートを脱ぎ、椅子に座る前に部下の席へ向かう。
「おはよう」
「おはようございます」
簡単な確認を済ませたあと、部下は言った。
「これ、やる意味あります?」
責めているわけではない。
ただ、合理的に疑問を投げているだけだ。
だからこそ、答えに詰まる。
正しいかどうかと、自分がどうしたいかは、いつも少しずれていた。
「……まずは求められている形で出そう」
そう言うと、部下はすぐに「了解です」と返し、画面に視線を戻した。
会話はそれで終わる。
言葉だけが空中に残って、自分の中には何も残らない。
朝礼の時間が近づいていた。
今日もまた、同じ一日が始まる。




