いびつなおにぎり
「――ふんッ!!」
放課後の家庭科室に、気合いの入った掛け声と、メキョッという不穏な生々しい音が響き渡った。
「ちょ、ちょ、ストップうらっち! おにぎり相手にそんな握力使わないで! 米粒がミンチになってペースト状になっちゃってるから!」
かりんの悲鳴のようなツッコミが飛ぶ。
調理台の上で三角巾をきっちり被り、エプロン姿で仁王立ちしている麗の手元には、ラップに包まれて哀れにも原形を留めぬ謎の白い塊が鎮座していた。
「な、なぜですの……!? 祖父から伝わる竜宮寺流の極意『万物を両断する渾身の締め』を込めて握っているというのに、なぜ三角の角柱にならないのです!?」
「おにぎりに渾身の締めはいらないよ! 敵の首根っこをへし折る勢いで握ったらそりゃ潰れるって!」
私が思わず苦笑いしながら割って入ると、麗はアクアマリンの瞳を白黒させて、情けなく眉尻を下げた。
「だ、だって……わたくし、台所に立つこと自体生まれて初めてで……。加減というものが分かりませんの……」
名門・竜宮寺財閥の跡取り令嬢。
剣を持たせれば神速の抜刀で魔獣を両断する天才剣士なのに、おにぎり一つ握らせただけでこのポンコツっぷりである。
でも、その頬にはなぜか白いご飯粒が一つちょこんと張り付いていて、普段のツンとした凛々しさが完全にログアウトしていた。
「ふふ、麗ちゃん、お顔にご飯粒がついていますよ」
天女がおっとりと微笑みながら、濡らした清潔な布巾で麗の頬を優しく拭ってあげる。
「ひゃっ……あ、天女……あ、ありがとうございます……」
恥ずかしさで耳まで真っ赤にする麗。
昨日のファストフード店で打ち明けてくれた、彼女の孤独と悩み。
言葉でうまく伝えられないなら、手作りのご飯を届けて、お父さんと向き合うきっかけを作ろう――そうやって始まった『お父さんと仲直り大作戦』だった。
「ほら、麗ちゃん。手元貸して」
私は麗の隣に立ち、新しいラップの上にご飯をふんわりと乗せた。
「おにぎりはね、潰すんじゃなくて、優しく包み込むように形を整えるの。手のひらで『山』の形を作って、くるっ、くるって転がす感じ。やってみて?」
「や、優しく……包む……?」
私の手つきを見ながら、麗がおずおずと両手を添える。
手首をくるりと回し、おっかなびっくり形を整えていく。
「そうそう、上手! あとは真ん中に具を入れて……お父さん、何が好きか覚えてる?」
「……お父様は、昔……母が生きていた頃は、よく梅干しを好んで召し上がっていましたわ」
「おっけー、じゃあ昔ながらのしょっぱい梅干しね! で、最後に海苔をペタッと巻いて――」
数分後。
調理台の上に、麗の記念すべき第一号のおにぎりが完成した。
「…………」
四人でじっとその物体を見つめる。
……三角形というよりは、多面体のサイコロ。あるいはピラミッドが少し傾いたような、なんともいびつで不格好な形状。海苔も帯状ではなく、なぜか天辺にベチャッと手裏剣のように貼り付いている。
「……うぅ。やはり、わたくしには才能がありませんわ……。こんな不恰好なもの、お父様にお見せしたら『鍛錬が足りぬ』と一喝されてしまいます……」
しおしおと肩を落とす麗。
だが、そのいびつなおにぎりを覗き込んだかりんが、ふっと優しい笑顔を浮かべた。
「ううん、最高じゃん。めちゃくちゃいいよ、うらっち!」
「え……?」
「形なんてどうでもいーの! うらっちがお父さんのために、一生懸命ご飯粒だらけになりながら握ったんだよ? その気持ちが入ってれば、どんな料亭のフルコースより百倍美味いに決まってんじゃん!」
「ふふ、かりんちゃんの言う通りですよ。とっても心のこもった、素敵な形です」
天女もふわりと微笑み、竹皮の包み紙を用意してくれた。
私も、隣で麗の背中をそっと押す。
「うん。不格好だからこそ、伝わるものがあると思うよ。……頑張って、麗ちゃん」
「みんな……」
麗は竹皮の上に大切そうにいびつなおにぎりを乗せ、丁寧に紐で結んだ。
その小さな包みを両手でぎゅっと抱きしめ、アクアマリンの瞳に決意の光を宿す。
「……はい! わたくし、お父様に届けてまいりますわ!」
夕暮れの茜色が差し込む家庭科室。
粉とご飯粒の匂いと、みんなで笑い合った温かい空気。
皆のやさしさと愛情が、確かにそこにはあった。
◇
その日の夜――アトラス第1区、竜宮寺邸。
重厚な石造りの門をくぐり、麗は自邸の長い廊下を歩いていた。
胸に抱えているのは、あの竹皮の包み。
コツ、コツ、と静まり返った屋敷に自分の足音だけが響く。
(大丈夫……怖がることはありませんわ。ただ、日頃の感謝を伝えて……昔みたいに、お父様とお話ししたいだけなのですから)
深呼吸を一つ。
麗は重厚な黒檀の扉――父の書斎の前で立ち止まり、静かにノックをした。
「……お父様。麗です」
「……入れ」
低く、厳格な声。
扉を開けると、広大な書斎のデスクで、分厚い眼鏡をかけた父――竜宮寺弦一郎が、山積みの書類にペンを走らせていた。
昨日、マユのデコレーション種が宿ったことなど知る由もなく、その眉間には深い皺が刻まれている。
「何の用だ。もう自主鍛錬は済ませたのか」
視線すら上げず、淡々と紡がれる冷徹な言葉。
その氷のような空気に気圧されそうになりながらも、麗は両手で竹皮の包みを差し出した。
「あの……お父様。放課後、学校の友人たちと……その、おにぎりを作りましたの。お父様がお好きだった梅干しを入れて……お夜食に召し上がっていただきたくて」
「…………」
ペンを走らせる手が、ピタリと止まった。
弦一郎は眼鏡越しに視線を上げ、麗の手元にある不恰好な竹皮の包みをじっと見つめた。
その鋭い眼光に、麗は思わず息を呑む。
――来る。
冷たい拒絶が。探索者としての未熟さを責める叱責が。
「……麗」
沈黙の後、弦一郎の口から吐き出されたのは、あまりにも重く、乾いた声だった。
「探索者とは、常に死と隣り合わせの過酷な生業だ。お前は我が竜宮寺家の跡取り……一瞬の気の緩み、甘えが、迷宮では命取りになる」
「お父、様……」
「友人たちとままごと遊びに興じている暇があるなら、木刀の一振りでも多く振るいなさい。……そのような施し、我が執務室には不要だ。持ち帰りなさい」
バタン、と事務的に書類が閉じられた。
冷酷なまでの拒絶。
「……っ!」
麗の喉から、小さな悲鳴のような息が漏れた。
視界がみるみるうちに大粒の涙で滲んでいく。
けれど、名門のプライドが、父の前で泣き崩れることだけは必死に拒んでいた。
「……失礼、いたしました」
震える声でそれだけを絞り出すと、麗は竹皮の包みをデスクの端に置いたまま、踵を返して書斎を飛び出した。
廊下を走る足音と、こらえきれずに溢れた嗚咽が、遠ざかっていく。
静まり返った書斎。
デスクに残されたのは、傾いたピラミッドのような、いびつなおにぎり。
「…………」
弦一郎は眼鏡を外し、深い、深い溜息とともに両手で顔を覆った。
「……なぜだ」
震える声が、暗い執務室にぽつりと落ちる。
「なぜ私は……あの子に、あのような言い方しかできないのだ……」
妻を亡くしてから、ずっとそうだった。
愛する娘を、危険なダンジョンで絶対に死なせたくない。
一人前の探索者として生き残れるよう、厳しく、冷徹に鍛え上げなければならない――そう自分に言い聞かせるあまり、いつしか父親としての優しい言葉のかけ方を、完全に忘れてしまっていた。
弦一郎はおずおずと手を伸ばし、竹皮の紐を解いた。
現れたのは、ご飯粒がつぶれ、海苔が歪に張り付いた、不格好極まりないおにぎり。
娘が、自分のために慣れない手つきで一生懸命握ってくれた証拠。
一口、口に運ぶ。
しょっぱい梅干しの味と、米の甘み。
そして――胸を締め付けるような、娘の温もり。
「……すまない、麗……。すまない……っ」
大粒の涙が、厳格な当主の頬を伝い、デスクへとポタポタとこぼれ落ちた。
娘を愛しているのに、傷つけてしまう。
守りたいのに、遠ざけてしまう。
底知れぬ自責の念と、自己嫌悪、そして過去への後悔が、弦一郎の心を真っ黒に塗り潰していく。
その、瞬間だった。
――ズクンッ……!!
「ぐ……っ!? な、なんだ……!?」
弦一郎の胸の奥で、異様な拍動が跳ねた。
皮膚の下から、ドロドロとしたパステルピンクの妖しい光が噴き出し、血管を侵食していく。
『オホホホホ! なんて素晴らしい! なんて芳醇でビターな絶望かしら!』
暗闇から、鈴を転がすような高笑いが響いた。
妖艶なチャイナドレスを翻し、パステルピンクのパラソルを手にしたマユが、虚空から優雅に姿を現す。
「貴様……何者だ……っ!?」
「わたくしは常世結社ネクロテイルの幹部、マユ。貴方のその痛ましい愛の苦悩……最高に美味しく育ちましたわ!」
マユが指先を鳴らすと、弦一郎の胸から無数のフリル付きパステルピンクのリボン――『うっとりスイート・傀儡リボン』が爆発的に噴き出した!
「がぁぁぁぁぁッ!? 体が……意識が……っ!」
「さあ、お父様! 苦しい現実はぜーんぶ忘れて、可愛い悪夢の繭の中で永遠にお眠りなさいな!」
リボンが全身を何重にも締め上げ、弦一郎の巨体をみるみるうちに巨大なパステルピンクの卵の中へと引きずり込んでいく。
抵抗しようと伸ばされた弦一郎の手から、食べかけのいびつなおにぎりがポロリと床へ転がり落ちた。
「麗……逃げ、ろ……っ!!」
断末魔の叫びとともに、パステルピンクの巨大な繭がデスクを押し潰して膨張。
屋敷の天井を突き破り、夜空へ向けて不吉なメルヘンの光を放ち始めた。
◇
翌朝――日曜日、午前7時50分。
アトラス全域に、けたたましいサイレン音が鳴り響いた。
『緊急警報! アトラス第1区・中央大通り交差点付近に、巨大な未確認生体反応を感知!』
『周辺住民は速やかに最寄りのシェルターへ避難してください! 繰り返します――』
テレビの画面には、ビルの谷間に突如として出現した、高さ二十メートルを超える巨大なパステルピンクの繭と、そこに蠢く無数のリボンが映し出されていた。
そして、古びた六畳間のボロアパート。
煎餅布団の中で、私はガバッと跳ね起きた。
「な、何事……!? 地震!? テロ!?」
枕元では、白い毛玉――マニが、すでに真ん丸な瞳を険しく光らせてスタンバイしていた。
「冲奈様、二度寝の時間はありません。アトラス第1区にネクロテイルの怪異が顕現しました」
「ええっ!? また日曜の朝なの!?」
「龍脈マナ充填率100%。カウントダウンを開始します。五、四、三、二、一――空間転送、執行」
「ぎゃあああああ、心の準備がぁぁぁぁっ!!」
足元に展開された桜色の魔法陣が激しく発光し、パジャマ姿の私の体を一瞬で呑み込んでいく。
定刻、午前8時ジャスト。
平和なはずの日曜日の朝に、最悪の悪夢の幕が上がろうとしていた。




