乙女の企み
漆黒の虚無が渦巻く、常世の深淵。
星すらも存在しない暗黒の空間に、ぽつりと佇む白銀の少年がいた。
常世結社ネクロテイル首領――ヴォイド。
光を一切反射しない漆黒の瞳を伏せ、星空の虚無が揺らめくマントを静かに翻す。
「生きることとは、即ち苦痛の連続だ。人は生まれ落ちた瞬間から喪失を恐れ、満たされぬ渇きに藻掻き続ける……。ならば、その苦難の連鎖を断ち切る唯一の救済とは何か。――そう、全てを元の白紙へと還すことだ」
胸元の未完成なアーティファクト『玉の台座』にそっと指先を滑らせ、ヴォイドは静寂の世界へ向けて冷徹な哲学を紡ぐ。
シデン、そしてガロの敗北。地上に現れた新たな光の調律者『ルミナ・ルナ』を前に、今こそ組織の根幹たる理念を再確認し、次なる終焉の一手を打つべき時――。
「ボス〜〜〜〜ッ! 今日の作戦用の新作アイテムですわ〜〜〜〜っ☆」
――バァァァン!!
重厚な静寂を木っ端微塵に粉砕し、深淵の扉が勢いよく蹴破られた。
紫がかった黒髪ボブを揺らし、鳥の羽をあしらった妖艶なドレスを翻して飛び込んできたのは、ネクロテイル幹部・マユだった。
「……マユか。静粛にしろと言ったはずだ。僕はいま、世界の救済における不可逆的エントロピーの――」
「見てくださいまし、ボス! わたくしの美意識と叡智が詰まった究極のマスターピース! 名付けて『メルヘン・ドリーム・怪異シード・リボンカスタム』ですわ!」
ジャジャーン! と効果音を口で言いながらマユが掲げたのは、手のひらサイズの植物の種だった。
……ただし、禍々しい闇のオーラを放っているはずの殻は、なぜか目に染みるようなパステルピンク。おまけに星とハートのデコレーションシールがびっしりと貼られ、頂部には大きなパステルブルーのサテンリボンが可愛らしく結ばれている。
「…………」
ヴォイドの漆黒の瞳が、すっと細められた。
深く、深く、胃の奥底から酸っぱいものが込み上げてくる。
「……マユ」
「はい、ボス!」
「なぜ、世界を無へ還す怪異の種に……フリルとリボンがついているんだ?」
「映え、ですわ!」
「ば……」
「映えですわ、ボス! シデンやガロのようなむさ苦しい敗北は、わたくしの美意識が許しませんの! 破壊するなら可愛く! 絶望させるならスタイリッシュに! これが現代の悪のトレンドですわ!」
「僕たちの組織は常世結社だ。女児向けアニメの悪役では断じてない」
思わず高級スーツの胸元を押さえ、ヴォイドは胃痛に顔を歪めた。
なぜだ。なぜ僕の部下はこうも『ニチアサの敵組織』みたいなノリの奴らばかりなのだ。
生きることの虚無を説きたいのに、こいつらと話していると別の意味で頭が真っ白になってくる。
「……その、パステルカラーのゴミは何をするんだ」
「ゴミとは心外ですわね! これは人間の心の隙間――不幸、不安、孤独、そして家族への執着といった上質な『負の感情』を吸って急速に育つ寄生型の怪異! ひとたび宿主に根を張れば、その者の魂を取り込み、無敵のデコレーション・キマイラへと孵化するのですわ!」
「……人間の負の感情を吸う、か。理屈は通っているが……」
「お任せくださいまし! 地上の愚民どもから最高に濃厚でビターな悲哀を搾り取り、あの生意気なピンクの小娘を可愛く踏み潰して差し上げますわ!」
オホホホ! と高笑いを残し、マユはパステルピンクのパラソルを差して地上へと転移していった。
静まり返った漆黒の玉座で、白銀の少年は深々と、誰にも届かない長いため息を吐いた。
「……頭が痛い。僕が消滅させたいのは、世界ではなく部下の情緒かもしれんな……」
◇
その頃、地上――アトラス第3区。
見上げるような高層オフィス街の路地裏で、マユは妖艶な笑みを浮かべながら獲物を品定めしていた。
「ふふ……さて、わたくしの可愛い種を育てるのにふさわしい、極上の『哀しみ』を持った殿方はどこかしら……」
街行く人々を見渡すマユの視界に、ふと、並外れた威厳を放つ一人の男が映った。
仕立ての良い最高級のスーツを着こなし、護衛を引き連れて専用車両から降りてきた中年男性。彫りの深い厳格な顔つき、鋭い眼光。名門・竜宮寺財閥の当主であり、アカデミーでも高名な探索者一族の長――竜宮寺麗の父親だった。
一見すれば、地位も名誉も富も全てを手にした完璧な勝者。
だが――マユの千里眼は、その胸の奥底に渦巻く『ひび割れた孤独』を正確に見抜いていた。
(……あら? 表向きは鉄のように冷徹な名門の当主。けれどその心の奥底……まあ、なんて痛々しいのかしら)
亡き妻への断ち切れぬ愛慕。
遺された最愛の娘――麗を一人前の後継者に育て上げねばならないという、過酷な重圧。
不器用さゆえに娘へ厳しく接することしかできず、日に日に広がっていく心の距離に、夜な夜な一人で苛まれ、苦悩している。
(娘を愛するがゆえに、娘を傷つけ、己を責める……。なんて極上で、濃厚で、不器用な負のエネルギー!)
マユはうっとりと唇を舐めた。
指先をパチンと鳴らすと、パステルピンクの種が不可視の魔力となって宙を滑り、歩き去る麗の父の背中へと、音もなく吸い込まれていった。
「ふふふ……せいぜい苦しみ、悩み抜くことですわ。貴方のその痛ましい愛が、やて世界を塗り潰す最高の苗床になるのですから……!」
◇
一方その頃――国立アストライア探索者アカデミー。
抜けるような秋晴れの青空の下、心地よい風が吹き抜ける校舎の屋上に、私はいた。
「ん〜〜っ! 屋上でお昼ごはんとか、マジ青春って感じじゃん!」
ベンチにどっかりと腰掛け、派手な熊のマスコットがついた弁当箱を開けたのは、かりんだ。中身は唐揚げにフライドポテト、ハンバーグと、見事なまでの茶色一色ハイカロリー弁当である。
「坂田さん、行儀が悪いですわよ。スカートの裾を少しは気にしなさい」
隣でため息をつくのは、背筋をピンと伸ばした麗だ。
その手元にあるのは、老舗料亭のような二段重ねの漆塗り重箱。開かれた中には、職人が飾り切りした色鮮やかな煮物や季節の炊き込みご飯が美しく並んでいる。
「ふふ、かりんちゃんのお弁当も、麗ちゃんのお弁当も、それぞれ個性があって素敵ですねぇ」
向かい側のベンチで、天女がおっとりと微笑みながら竹皮に包まれた素朴な草団子を頬張っている。
そして、私の手元にあるのは――。
(……うん、今日も平和な三百クレジット飯だな)
プラスチックのタッパーに詰めた白米と、特売の赤ウインナーを炒めたもの、そして甘めの卵焼き。
下水路清掃員時代からの染み付いた節約癖で作った、絵に描いたような庶民の素朴弁当だ。
高校生男子なら恥ずかしがるかもしれないが、今の私は十四歳の小柄な女子生徒。胃袋も小さくなったし、これで十分お腹いっぱいになる。
「いただきます」と手を合わせた、その時だった。
「……あの、月代さん」
ふと、隣から熱い視線を感じて顔を上げた。
麗が、漆塗りの重箱を持ったまま、まじまじと私のタッパーを見つめていた。アクアマリンの瞳が、なぜか獲物を狙う猫のようにキラキラと輝いている。
「え、あ、何……? 麗ちゃん?」
「その……一番手前にある、赤くて足がたくさん生えているような形状の物体は……何ですの?」
指差されたのは、何の変哲もないタコさんウインナーだった。
「えっ? ……タコさんウインナーだけど……」
「タコ、さん……!? あれが……噂に聞く、庶民の家庭に伝わる伝説の加工肉料理……!」
ゴクリ、と喉を鳴らすお嬢様。
嘘でしょ。財閥の令嬢って本当にタコさんウインナー見たことないの!?
「ぶっ! あはははは! うらっちマジで!? タコさんウインナー食べたことないの!?」
かりんが箸を落としそうになりながら盛大に爆笑した。
「わ、笑わないでくださいまし! 我が家の食事は代々、専属の栄養管理士と一流の料理人が全て手作りするのが家訓なのです! このような……切れ目を入れて炒めるだけで足が広がるような不思議な食材、食卓に上がるはずがありませんわ!」
「不思議な食材って……ただのウインナーだよ」
苦笑いしながら、私はタッパーからタコさんウインナーを一つ箸でつまみ、麗の重箱の端っこへちょこんと乗せてあげた。
「よかったら、食べてみる? 安物だけど」
「えっ……よ、よろしいのですか……? 人のお弁当のおかずをいただくなど、はしたないのでは……」
「いーのいーの! 青春といえばおかずのトレード! これテストに出るから!」
かりんがニッシッシと笑いながら、自分の唐揚げを一個麗の重箱に放り込み、代わりに麗の職人仕込みの銀ダラの西京焼きをサッと奪っていった。抜け目がない。
「あっ、坂田さん! わたくしの西京焼きを勝手に……!」
「うめぇぇぇ! 料亭の味だこれ! ほら、うらっちも早くタコさん食べなよ!」
麗は恐る恐る、箸でタコさんウインナーを持ち上げた。
まるで古代の遺物を鑑定するかのように全方位からじっくり観察したあと、小さなお口でちまりと一口かじる。
咀嚼すること数秒。
麗の切れ長の瞳が、まん丸に見開かれた。
「…………っ!」
「どう……? 口に合わなかった?」
私が不安そうに尋ねると、麗はぽっと頬を赤らめ、はにかむように小さく微笑んだ。
「……いえ。その……とても、美味しいですわ。皮がパリッとしていて、少し塩気が強くて……なんだか、とても温かい味がいたします」
いつもの凛としたツンツンした態度がふっと解け、年相応の少女らしい、柔らかな笑顔。
その無防備な表情があまりに可愛らしくて、私とかりんと天女は思わず顔を見合わせてクスッと笑ってしまった。
「ふふ、麗ちゃん、とっても嬉しそうですねぇ」
「天女まで……! わ、わたくしはただ、未知の食文化に敬意を払っただけでしてよ!」
真っ赤になってそっぽを向く麗。
秋の澄んだ風が、屋上の金網を優しく揺らしていく。
ファミレスでくだらない話をして笑い合ったり、こうして青空の下でおかずを分け合ったり。
(……いいなぁ、こういうの)
三十五年間、泥水にまみれて孤独に生きてきた私には、一度も経験できなかった時間だ。
くだらなくて、素朴で、けれど胸の奥がじんわりと温かくなるような、かけがえのない青春の空気。
――ピピッ。
その穏やかな空気を破るように、麗の制服のポケットで端末が短く電子音を鳴らした。
画面を覗き込んだ麗の表情から、すっと温度が消え去った。
『明日の初級ダンジョン演習、竜宮寺の名に恥じぬ首席の戦果を期待する。失態は許されない』
父親からの、簡潔で、冷徹な業務連絡のようなメッセージ。
「……麗ちゃん?」
私が声をかけると、麗は慌てて端末を伏せ、いつもの気丈な笑みを作って立ち上がった。
「な、なんでもありませんわ! それより坂田さん、明日の実戦演習、足を引っ張ったら承知しませんからね!」
「へーへー、わかってますってお嬢様〜!」
茶化すかりんと、穏やかに微笑む天女。
けれど、麗がぎゅっと握りしめた小さな拳が、微かに震えているのを、私は見逃さなかった。
孤独に怯えている子供の様な痛々しい表情が、痛いほど胸に刺さってしまった。
(麗ちゃん……)
明日のダンジョン演習、何事もなければいいのだけれど。
秋晴れの空の彼方、遠くの街並みに、微かな不穏の影が揺らめいた気がした。




