マニ脱走!
「……な、ない。いない、どこにもいない……ッ!」
木曜日の放課後。
終礼のチャイムが鳴り響いた教室で、私はスクールバッグの底をひっくり返す勢いで覗き込み、顔面蒼白になっていた。
「どーしたのおっきー? 顔面真っ青だけど、納豆のクーポンでも落とした?」
机に腰掛けていたかりんが、のん気にイチゴミルクのパックを揺らしながら聞いてくる。
「納豆じゃないよ! マニが……マニがいないのぉっ!!」
「「「えええええっ!?」」」
かりん、麗、天女の声が綺麗にユニゾンした。
マニが私のカバンやブレザーの内ポケットに潜り込んで、学校についてくること自体は、今までもよくある日常茶飯事だったのだ。
いつもなら授業中もおとなしく丸くなって寝ているし、休み時間にこっそりお菓子をあげたりして上手くやり過ごしてきた。
今朝もカバンに入ってついてきていたのだけれど――今、カバンの中には教科書と筆箱しか入っていない。
「最後にマニ殿の姿を確認したのはいつですの、冲奈さん!?」
麗が名刀を抱えたまま、血相を変えて詰め寄ってくる。
「えっと……五時間目の前! 購買で限定の『高級つぶあんデニッシュ』を見てた時、匂いに釣られてカバンから鼻をヒクヒクさせてたのは覚えてるんだけど……!結局高くて買わなかったけど……」
「あーっ! デニッシュの甘い匂いに釣られて、チャックの隙間から脱走したんじゃん!?」
「あらあら、大変です……! あんなに小さくてふわふわな体ですもの、廊下で誰かに踏まれてペシャンコになっていたらどうしましょう……!」
天女が珍しくおっとりしたタレ目を吊り上げて慌てている。
「早く探しましょう! 契約者ではない一般の方には、ただのモモンガにしか見えませんわ! 風紀委員や先生に見つかって捕獲でもされたら取り返しがつきません!」
「捕獲されたら困るよぉっ! みんな、手分けして探そう!!」
私たちは四人、教室を飛び出して夕暮れの校舎へと駆け出したのだった。
◇
いけない、とは重々承知していたのだ。
冲奈様を不安にさせてはならない、勝手に出歩いて無用な騒ぎを起こしてはならないと、私の理性は確かに警鐘を鳴らしていた。
そもそも、普通の人間にとって私はただの小動物。言葉を交わせる契約者以外には、人語を解することすら悟られてはならないのだ。
しかし――抗えなかった。
購買から持ち帰られたあの焼き立てデニッシュの、香ばしいバターと極上小豆の芳醇な甘み。
さらには窓の換気扇から吹き込んでくる、うららかな春風の心地よさ。
ほんの少し鼻先を出して、その甘美な空気を吸い込むだけのつもりだったのだ。
だが、一度チャックの隙間をすり抜けてしまえば最後。
小動物の本能というものは、時に霊獣の崇高なる自制心をも軽々と凌駕してしまう。
配管のダクトを滑空し、梁を渡り歩いているうちに、気づけば見知らぬ薄暗い渡り廊下。
完全に、道を見失っていた。
(……これはまずいですね。冲奈様が青ざめて泣きべそをかいておられる姿が目に浮かびます)
勝手に出てしまった己の浅ましさに反省し、どこかで身を潜めて捜索を待とうと、わずかに開いていた窓の隙間から滑り込んだ。
そこは、ひときわ静粛な気配の漂う広大な執務室――生徒会室であった。
「モキュッ」
床のワックスの上に着地した私の前にいたのは、デスクで端末を操作していた長身の少女――鶴ヶ谷紫織様である。
「……ん?」
紫紺の切れ長の瞳が、私を捉えた。
普通の人間相手に喋るわけにはいかない。私は大人しく丸まり、無害な迷子のフリをして首を傾げてみせた。
だが――。
「…………っ!」
紫織様の動きが、完全に凍結した。
手元のタッチペンがポロリと机から転がり落ちる。
「な……な、何なの……この……白くて、丸くて、耳が小さくて……奇跡を具現化したような生き物は……!?」
次の瞬間、学園最強と謳われる孤高の生徒会長は、信じがたい俊敏さで椅子から滑り降り、床の私へ向けて音もなく膝をついてきたのである。
「ふ、ふわ……っ!」
気がつけば、私は両手でそっと包み込まれ、紫織様の膝の上へと恭しく安置されていた。
「あぁ……たまらないわ。指を埋めた瞬間に押し返してくる、この極上の弾力……! 日々の激務でささくれ立った私の精神が、みるみる浄化されていくよう……!」
ぎゅうぅぅぅ……と、至福の表情で頬擦りをしてくる生徒会長。
いけない。冲奈様のもとへ戻らねばならない。
人語を話せぬフリを突き通し、なんとか逃げ出さねばならないというのに――日々の鍛錬で鍛え上げられた紫織様の指先が繰り出す、的確で温かな愛撫の心地よさに、私の身体がとろけるように弛緩してしまう。
「きゅぅ……ん」
申し訳ありません冲奈様、あと五分だけ……あと五分だけご容赦ください。
あまりの極楽に抗うことを放棄した私は、前足でちょんちょんと首元を差し出し、「ここも撫でなさい」とおねだりしてしまったのだった。
「あら……? 首の後ろを撫でてほしいのかしら。……ふふ、こうかしら……あぁ、本当に可愛いわね……」
言葉など通じずとも、モフモフを介して完全に意思疎通を果たしてしまった生徒会長の手の中で、私は優雅に目を細め、身を委ね続けたのだった。
◇
「マニィィッ! どこぉっ!?」
購買部、学食の厨房裏、中庭の植え込み、果てはゴミ集積所のコンテナの裏まで!
すでに放課後から一時間近くが経過していた。
息を乱し、本館三階の渡り廊下で肩を落とす私たち四人。
「はぁ、はぁ……ダメ、どこにも痕跡すらないよぉ……!」
「ウチ、体育館の跳び箱の中まで開けて探したのに……!」
(もしかして……カラスに攫われた!? 排水溝に落っこちて流されちゃった!? どうしよう、私の不注意のせいでマニが……!)
半泣きになりかけた、その時だった。
「……皆様、静かに」
麗がピクリと耳を澄ませ、廊下の突き当たりを見据えた。
その先にあるのは――重厚なマホガニーの扉、『生徒会室』だ。
「生徒会室……? まさか、あんなところに迷い込むはずが……」
おずおずと忍び足で近づくと、扉がほんの数センチだけ隙間を開けていた。
そして――その隙間から、漏れ聞こえてきたのだ。
『……あぁ、たまらないわ……。この丸み、この弾力……。世界三大毛織物すら足元に及ばない奇跡の肌触りよ……』
「「「「…………!?」」」」
全員の背筋が凍りついた。
生徒会長・鶴ヶ谷紫織先輩の声だ。
けれど、その声は普段の凛とした冷徹さなど木っ端微塵に消え去り、聞いているこっちが恥ずかしくなるほど甘くとろけきっている!
「ちょ、何事!? パイセン、部屋の中でヤバい儀式でもやってんの!?」
かりんが小声でパニックを起こす。
意を決して、四人でそっと隙間から中を覗き込んだ。
夕暮れの茜色が差し込む生徒会室。
執務机の椅子に深く腰掛けた紫織先輩の膝の上に――
あの白い毛玉、マニが堂々と鎮座していた!
先輩は両手でマニの背中をウットリと撫で回し、あまつさえ自分の頬をお腹のモフモフへスリスリと擦り付けている。
「あぁ……日々の激務が、一瞬で癒やされていくわ……」
そして、揉みくちゃにされているマニはといえば――。
「きゅぅ〜……ん」と目を細め、前足でちょんちょんと先輩の指を誘導しながら、最高級のマッサージを全身で満喫していた!
((((めっちゃくつろいでるぅっ!?))))
私たちが涙目で校舎中を駆けずり回っていた間、
このモモンガは、学園最強の生徒会長の膝の上で、極上のVIP待遇を堪能していたのだ!!
「――って、なにのんきにくつろいでんだぁ~ッ!!!!」
先ほどまでの捜索とのあまりの温度差にかりんが、勢いよく扉をバーンと押し開けた!
「か、かりんちゃん!?」
「きゃあああっ!?」
紫織先輩が悲鳴を上げて飛び上がった!
膝の上から放り出されそうになったマニを慌てて胸元で抱きしめ、紫紺の瞳を限界まで見開いて私たちを凝視する。
そして次の瞬間――
自分が放課後の生徒会室で、迷子の小動物を膝に乗せてデレデレに頬擦りしていた現場を、後輩四人にガッツリ目撃されたという事実に、完全に脳が追いついた。
ボフッッッッ!! と物理的な音がしそうなほど、先輩の顔面が耳の先から首筋まで真っ赤に大沸騰した!
「み……み、見たわね……あなたたち……っ!!」
先輩は涙目でガタガタと震えながら、私たちを睨みつけてきた。
けれど、その両腕の中には、ちゃっかりマニがぎゅぅぅぅっと抱きしめられたままだ。意地でも手放す気はないらしい。
「こ、これは違うのよ! 廊下に迷い込んできた不審な野生動物を、生徒会長の職務として保護していただけで……!」
「保護してほっぺスリスリしていたんですね!」
かりんが悪魔のような笑顔でツッコミを入れる。
「なっ……! さ、坂田さん、減らず口を叩かないのよ!」
真っ赤になりながら、かりんを諭す会長。
しかし、いつものような圧倒する威圧感は全くなかった。
「マニ……! 心配したんだよぉ! 踏まれたかと思って寿命縮んだんだからね!」
私が駆け寄って手を差し出すと、マニは先輩の腕の中から、バツの悪そうな顔をして「きゅ……」と小さく鳴き声を上げた。
そして麗が、くすりと苦笑いを浮かべた。
「ふふ、先輩の動物への深い慈愛、感服いたしましたわ。……ですが先輩、その珍しいモモンガ、冲奈さんの大切な家族ですので、そろそろ解放して差し上げては?」
「あっ……」
言われて初めて気づいたように、紫織先輩は自分の腕の中のモフモフを見つめた。
指先が、名残惜しそうにマニの背中をそっと撫でる。
そして――少しだけ寂しそうに、けれど優しく、マニを私の腕の中へと返してくれた。
「……はい、月代さん。大切なペットなら、校内で迷子にさせないよう、しっかり見守りなさい。 そもそも校内にペットを持ち込まないことよ」
「はい! 本当にありがとうございました!」
腕の中に戻ってきたマニを抱きしめると、マニは私の胸元に顔をうずめ、周囲に聞こえないような微かな声で、こっそりと囁いてきた。
『……冲奈様、衝動に抗えず勝手に出てしまったこと、深くお詫び申し上げます。しかし……実に素晴らしい腕前でしたよ』
『まったく心配させてっ!』
小声でツッコミを入れる私。
その横で、紫織先輩は顔を真っ赤にしたまま、咳払いを一つしてツンと顎をそらした。
「……それにしても、あなたたちの周りは本当に飽きないわね。退屈する暇もなさそうだわ」
「でしょ〜! だからパイセンも、たまにはウチらの輪に混ざりに来てくださいよ!」
「……考えておくわ」
素っ気なく返しながらも、先輩の口元には、ふわりと温かい笑みがこぼれていた。
腕の中の重みと、少しずつ近づいていく先輩との距離。
夕暮れの生徒会室に満ちる温かい空気を感じながら、私たちは笑顔で家路についたのだった。




