お祈りの御神木
漆黒の闇が渦巻く、常世結社ネクロテイルの拠点。
崩壊したギリシャ神殿のような石柱が並ぶ深淵の間で、首領ヴォイドは冷徹な眼差しで虚空を見つめていた。
「万物は流転し、苦痛の摩擦を生み続ける。存在することそのものが罪であり、世界を無へと還すことこそが真の救済――」
「ボス! 先日の下水路での音響データ、および『ルミナ・ルナ』『ルミナ・マリン』の魔力波長スペクトルの解析が完了いたしました!」
眼鏡のブリッジをクイッと押し上げ、タイトなスーツ姿のシデンが、整然と書類の束を広げながら割り込んできた。
「……シデン。僕の演説を遮るなと、あれほど言ったはずだが」
「失礼。ですが論理的かつ効率的な侵略のためには、定例報告の優先順位が最上位かと。……ご覧ください、ルナとマリンの戦闘力は、相互補完によって幾何級数的に跳ね上がっています。正面からの単調な武力衝突は非効率の極みです」
「ふむ……。貴様の分析は常に正しい。だが、ならばどうするつもりだ」
「ヤッホ〜〜〜☆ ボス、シデン! 今日も元気に悪だくみしてますの〜〜〜!?」
――バァァァン!!
重厚な空気を台無しにする勢いで扉が開き、パステルピンクのパラソルを差したマユが突撃してきた。
両手には、きらきら光る星やハートのデコシールがびっしり貼られ、ご丁寧に水色の大きなサテンリボンが巻かれた『怪異の種』が山盛りに抱えられている。
「見てくださいまし! 今週の新作『メルヘン・怪異シード・スーパーデラックス』ですわ! 今回はなんと、種の殻から甘いストロベリーの香りが漂う仕様になっておりますの!」
「……マユ」
ヴォイドがこめかみを押さえ、深々と眉間に皺を寄せた。
「なぜ、世界を消滅させる怪異の種から……甘いイチゴの匂いがするんだ?」
「映え、そして香りのアロマ効果ですわ! 破滅の瞬間こそ、可愛く優雅でなければなりませんもの!」
「マユ、貴様の感性は甚だ非論理的だ」
シデンが冷ややかに眼鏡の奥の目を光らせた。
「リボンや香気など魔力伝導率の無駄遣いに過ぎん。……だが、人間の心の隙間――『負の感情』を苗床にして怪異を急成長させるという機能面だけは、評価に値する」
「あら! シデンのくせに、少しは話が分かりますのね!」
「勘違いするな。私は貴様のおままごとに付き合う気はない」
シデンは冷淡にマユからリボン付きの種を一つだけ摘み上げると、手元の端末でアトラス全域の魔力立体ホログラムを展開した。
「アトラス地下に張り巡らされた魔力の龍脈……そのすべてのエネルギーが一点に交差し、都市全体の結界を維持している『龍穴の要』が存在する。――旧市街の丘の上に位置する、羽衣神社だ」
「神社……? あの古臭い神道の社ですの?」
「そうだ。あそこの御神木には、数百年にわたり蓄積された膨大な大地のマナが宿っている。あの御神木にこの種を植え付け、神域結界を内側から崩壊させれば……アトラス全域の龍脈は暴走し、都市機能は一夜にして停止する」
シデンは不敵に眼鏡を光らせ、フッと冷たい笑みを浮かべた。
「すでに調査員を放ち、あの神社の跡取り娘――羽衣天女の心理プロファイルを割り出した。あのおっとりとした外面の裏……他人のために己を殺し続ける、極上の自己犠牲と苦悩の澱が存在する。……あの御神木は、最高の苗床になるぞ」
ヴォイドは高級スーツの胸元をそっと押さえ、小さくため息を吐いた。
「……シデン。好きにしろ。ただし……あのピンクの小娘どもにこれ以上無様な敗北を晒すことだけは許さんぞ」
「無論です、首領。我が完全なる計算に、狂いなどあり得ません」
シデンは一礼すると、冷徹な足取りで闇の中へと消えていった。
◇
同じ頃――羽衣神社、深夜二時。
社務所の和室では、かりんと麗がすやすやと心地よい寝息を立てていた。
猛勉強の知恵熱で喉が渇いた私は、冷たい水を飲もうと布団を静かに抜け出し、薄暗い廊下へと出た。
縁側を通りかかった時、ふと、中庭に落ちる青白い月明かりの下に人影が見えた。
(……あれ? 天女ちゃん……?)
薄手のカーディガンを羽織り、若草色の長い髪を夜風になびかせながら、境内の中央にそびえ立つ巨大な御神木の前に佇んでいる。
昼間のふんわりとした笑顔はどこにもない。
息を呑むほど寂しげで、今にも夜風に攫われて消えてしまいそうな、痛々しい横顔だった。
御神木の太い幹に、天女はそっと両手を当てていた。
『……今日も、みんな笑ってくれていたよ』
静まり返った夜の境内に、天女の掠れた、消え入りそうな呟きが落ちた。
『麗ちゃんも、冲奈ちゃんも、かりんちゃんも……とっても楽しそうにしてくれた。……よかった』
天女は御神木の樹皮に、額をこてんと預けた。
『……でもね。時々……すごく、怖くなるの。もし、私がみんなの期待に応えられなくなったら。もし……私が弱音を吐いて、誰かを困らせてしまったら……この温かい場所から、消えてしまうんじゃないかって』
ぎゅっと、御神木を掴む白い指先に力が込められる。
『……私、ちっとも強くないよ。人の痛みを吸い込んで、いつも笑顔でいるの……本当は、ちょっとだけ疲れちゃうんだ……。誰かに……助けてって、甘えてみたいよ……』
樹皮を濡らす、大粒の涙。
幼い頃からずっと、誰にも言えない本音や弱音を、天女はこの御神木にだけ打ち明けてきたのだ。
(天女ちゃん……)
縁側の物陰で、私は胸を強く締め付けられていた。
いつもみんなを一歩引いた場所から優しく包み込んで、誰の痛みも受け止めてくれていたあの子が。
あんなにも重い孤独を、たった一人で抱え込んでいたなんて。
やがて涙を拭った天女が、静かに社務所へ戻る気配を見せた。
私は慌てて足音を忍ばせ、台所へ回り込んでコップ一杯の冷たい水を飲み干した。
胸の奥のざわめきを押し殺しながら部屋へと戻り、布団に潜り込む。
数分後、静かに障子を開けて戻ってきた天女が、そっと自分の布団に横たわる気配がした。
(明日……ちゃんと話を聞いてあげられたらいいな……)
そう願いながら、私は重い瞼を閉じたのだった。
◇
――そして。
境内から完全に人の気配が消え失せ、静寂だけが支配する丑三つ時。
シュッ。
木々のざわめきに紛れ、黒いマントを翻した人影が音もなく境内の石畳へ降り立った。
眼鏡の奥で冷たく光る紫の瞳――シデンだった。
「……くくく。完全に眠りについたか、愚かな小娘共め」
シデンは足音ひとつ立てず、中央の御神木の根元へと歩み寄った。
そして、天女が流した涙の痕が残る、しっとりと湿った樹皮にそっと指先を滑らせる。
「素晴らしい……実に素晴らしいぞ、羽衣天女。数百年にわたり蓄積された清廉なる龍脈のマナに、巫女が長年吐き出し続けてきた哀しみ、孤独、そして押し殺された本音の澱が幾重にも溶け込んでいる……! これほど濃厚で純度の高い苗床が、他にあろうか」
シデンが懐から取り出したのは、マユから受け取ったパステルピンクの種。
それを樹皮の小さな割れ目へとねじ込むと――。
ドクンッ……!!
種は生き物のように御神木の内部へと食い込み、樹液を啜りながら禍々しいパステルピンクの根を全方位へと爆発的に伸ばし始めた!
天女の心の痛みを養分として吸い上げ、御神木の梢の奥深くで、巨大な悪夢の蕾がドクン、ドクンと不吉な脈動を刻み始める。
「泣き叫ぶがいい、羽衣天女。貴様が溜め込んできた本音の毒が、貴様自身の愛する神域を食い破るのだ……! フハハハハ!」
冷たい嘲笑を残し、シデンは夜の闇の中へと溶けるように消え去っていった。
◇
翌朝、日曜日――午前7時30分。
「んぁ……? あれ、天女ちゃんは……?」
社務所の和室で目を覚ました私は、隣の布団がすでに綺麗に畳まれていることに気づいた。
台所にも、本殿にも天女の姿はない。
不吉な胸騒ぎを覚えて境内に駆け出すと――。
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
「なっ……!? なんですの、この異様なマナの濁流は……!?」
異変に気付いて飛び出してきた麗が、息を呑んで空を見上げた。
羽衣神社の神域全体を覆うように、どす黒いパステルピンクの結界がドーム状に張り巡らされている。
そして境内の中央――あの巨大な御神木が、血管のように脈打つピンクのリボンに覆われ、禍々しい巨木怪異へと変貌を遂げていた!
その根元で、【梓弓・風花】を握りしめ、青ざめた顔で一人立ち尽くしている天女の姿があった。
『午前7時59分50秒。龍脈マナの臨界突破を検知』
私のポケットの中で、マニが無慈悲な警告を告げた。
「冲奈様、麗様! 悪夢が目覚めます!」
「天女ちゃんっ……!!」
定刻、午前8時ジャスト。
天女の心を蝕む、残酷な日曜日の幕が上がろうとしていた。




