納刀の音は氷華とともに
「竜宮寺流――抜刀術!」
ルミナ・マリン――麗の凛とした声が、凍てつく朝の空気を切り裂いた。
腰を低く落とし、左手で鞘を握り、右手を柄へ添える。
その瞬間、マリンの足元から同心円状に、透き通るような蒼氷の結晶がブワッと交差点一面に広がった。
ギシャアアアッ!!
デコレーション・キマイラが怒り狂い、巨大な前足を振り下ろす!
だが、激突の寸前――マリンの姿が掻き消えた。
「――神速剣」
視認すら不可能な、絶対零度の踏み込み。
キマイラの巨躯の周囲を、蒼い光の軌跡が螺旋を描いて駆け巡る。
一閃、二閃、三閃――。
刃が空を裂くたびに、極低温の美しい氷華が宙に咲き乱れ、キマイラの強固な外殻を瞬く間に凍結させていく。
「なっ……速すぎて捉えられませんわ!?」
ビルの上のマユが目を剥く。
だが、マリンの太刀筋はただ速いだけではなかった。
胸元の結晶――囚われた父の肉体を寸分違わず避けて、怪異の外殻だけを精密に、完璧に切り刻んでいる。
そして、マリンはキマイラの背後へと静かに滑り込み、背筋をピンと伸ばして立ち上がった。
右手で握った蒼氷の神刀を、ゆっくりと鞘口へと滑らせていく。
「青き波濤よ、安らぎへと還りなさい」
――チャキ……ン。
澄み渡る納刀の音が響いた、その瞬間。
ピキキキキ……ドガァァァン!!
キマイラの全身を覆っていた氷華が一斉に炸裂し、凍りついた外殻が粉々に砕け散った!
パステルピンクの体毛が吹き飛び、胸元に囚われていた父の身体が、柔らかな光の繭となって宙へと投げ出される。
「ルナ、今ですわ!」
「うんっ……!」
私は両足で大地を踏みしめ、両手で羽ペン型ワンドを天高く掲げた。
相手は完全に無防備。
麗が切り開き、託してくれた、たった一つの希望の瞬間。
二度寝がしたいとか、恥ずかしいとか、そんな雑念は吹き飛んでいた。
ただ、目の前で一生懸命に刀を振るった友達のために、全霊を込めてインクを解き放つ!
「きらめく月光は、夢への輝き……!」
空を覆うほどの、真紅がかった桜色の満月が展開される。
けれど、今放つ光は破壊の砲撃ではない。
傷つき、苦悩に沈んだ魂を優しく包み込む、温かな浄化の光――!
――『フルムーン・ドリーム・ストライィク』ッ!!
ドォォォォォォォン!!
柔らかな桜色の月光が交差点を包み込んだ。
キマイラの残骸は春の雪解けのように光の粒子となって消滅し、黒煙も悪夢の気配も、朝の澄んだ風に洗い流されていく。
宙に浮いていた麗の父の体は、ふわりと桜色の光に抱かれ、崩れたビルのエントランスの前へと静かに横たえられた。
「まあ! わたくしの可愛いキマイラが……! おのれ、覚えていらっしゃい! 今日のところは引き分けにしてあげますわ!」
マユはパステルピンクのシャボン玉に包まれ、捨て台詞を残して空の彼方へ消え去っていった。
『す、すげえええええええええ!!』
『青い子、一撃もくらってないぞ!? 納刀エグすぎ!!』
『二人目の戦士確定! ルナたんとの連携マジで神!!』
『日曜朝の覇権アニメ、実写でやってるわ……』
上空を旋回するドローンカメラのホログラムスクリーンが、歓喜のコメントで埋め尽くされている。
だが、マリンはカメラなど一瞥もくれず、倒れている父の元へと駆け寄っていた。
「お父様……! お父様っ!」
膝をつき、父の肩を揺するマリン。
やがて、うっすらと弦一郎の瞼が開かれた。
「……う、ん……。私は……?」
「お父様……!」
「お前は……? 蒼い、光の……」
焦点の合わない目でマリンを見つめる弦一郎。
変身の『神話迷彩』により、父の目には彼女が麗だとは見えていないはずだった。
けれど――弦一郎は、震える手を伸ばし、マリンの頬へそっと触れた。
「……そうか。夢、ではないのだな……」
「え……?」
「昨夜、書斎で……不器用なおにぎりを、食べたのだ。……あんなにもいびつで、塩辛くて……けれど、あの子の温もりが詰まった、優しい味だった……」
弦一郎の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「妻を亡くしてから……私は、あの子を失うのが怖くて堪らなかった。危険な探索者の道へ進むあの子を、厳しく律することしかできなかった……。だが、間違っていたのは私だ。あの子を傷つけ、遠ざけていたのは……私の弱さだ……」
掠れた声で、胸の奥底の痛みを吐露する父親。
マリンの瞳からも、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちる。
「……お父様。娘さんは、怒ってなどいませんわ」
「……え?」
「きっと……ただ、お父様と一緒に、笑い合いたかっただけです。お父様がその想いに気付いてくださったなら……それだけで、あの子は世界一幸せですわ」
「……そう、か……。麗……すまなかった……。そして、ありがとう……」
安堵したように、再び静かな眠りにつく弦一郎。
呼吸は穏やかで、もう悪夢の影はどこにもなかった。
遠くから、救急車と警察のサイレンの音が近づいてくる。
「……冲奈さん、行きましょう。誰かが来ますわ」
「う、うん……!」
私たちは父を安全な救護スペースへ横たえ、路地裏の物陰へと滑り込んだ。
◇
路地裏のブロック塀の陰。
息を潜めた瞬間――カチリ、と太もものワンドが音を立てた。
『――戦闘終了を検知。プロトコルを解除します』
パァァァッと二人の体を光の粒子が包み込む。
豪奢なドレスと凛々しいフリル装束がほどけ、元の姿へと戻っていく。
そして。
「……はぁ。……はぁ……っ」
現れたのは――名刀【波切】を抱え、制服を泥で汚した麗。
そしてその目の前には、ヨレヨレのTシャツにジャージ姿でペタンと地面に座り込み、安堵と恐怖でボロボロ涙をこぼしながらガタガタと震えている、月代冲奈だった。
「ご、ごめんね麗ちゃん……! 驚かせちゃって……! 私、隠してるつもりはなくてっ……! 日曜の朝になると勝手に体が動いちゃってその……そういう契約で……っ!」
情けない、あまりにも情けない三十五歳元清掃員の告白。
引かれるかもしれない。幻滅されて、怒られるかもしれない。
そう思ってぎゅっと目を瞑った私の前で、麗は膝をついた。
「……どうして、謝るのですか」
震える声。
見上げると、麗はボロボロと大粒の涙を流しながら、私の泥だらけの両手を、そっと優しく包み込んでくれていた。
「さっき私が倒れそうなときに、麗さんと叫んで私の事を心配して下さって」
「怖かったはずですのに……あんな恐ろしい化け物を前にして、逃げ出したかったはずですのに……! 貴女は、わたくしのお父様を助けるために……わたくしたちの日常を守るために、立っていてくださったのでしょう……!?」
「麗ちゃん……?」
「わたくし……ずっと一人で戦っているつもりでした。でも違った……。坂田さんも、天女も、貴女も、ずっと一緒に戦ってくださっていて……!」
そこへ、私の胸元のポケットから、ふさふさの白い霊獣――マニがひょっこりと顔を出した。
マニは麗へ向けて、静かに深々とお辞儀をする。
「初めまして、竜宮寺麗様。私は霊獣、マニと申します。……先ほど、貴女は大切な家族を守るために魂の限界を打ち破り、世界の根源たる『蓬莱の玉』の調律器に認められました。星を紡ぐ守護者――『ルミナテイル』の一員として覚醒を果たされたのです」
「ルミナ、テイル……」
「はい。この力は、冲奈様一人で背負うにはあまりに重すぎるもの。……麗様。どうかこれより、『深海神話ルミナ・マリン』として、冲奈様の隣に立ち、共に戦ってはいただけないでしょうか」
マニの真摯な頼みに、麗は迷わず頷いた。
腰の名刀【波切】の柄に手を添え、アクアマリンの瞳で真っ直ぐに私を見つめる。
「ええ、喜んで。……冲奈さん」
「……うん」
「もう一人で震えなくていいんですのよ。これからは、わたくしが貴女の隣にいますわ。背中を預け合い、共に大切な日常を守る……対等の仲間として」
麗の手から、じんわりと温かい体温が伝わってくる。
上下関係でも、過度な崇拝でもない。
ただ、弱さを知った上で「隣にいるよ」と言ってくれる、本当の友達の温もり。
「……ありがとう、麗ちゃん」
私は涙を拭って、生まれて初めて、心からの笑顔を浮かべた。
◇
翌日、月曜日。
アカデミーの教室は、昨日の中央大通りでの大激闘の話題で持ちきりだった。
「おっきー! おはよー! つーか見た!? 昨日の配信!!」
教室のドアを開けるなり、かりんがピンクのインナーカラーを揺らしながら飛び込んできた。
「二人目の魔法少女ルミナ・マリン! あの抜刀術、マジで鳥肌立ったんだけど! 和風フリルポニテとか属性過多すぎてヤバくない!?」
「ふふ、とっても凛々しくて、優しくてあたたかい剣筋でしたねぇ」
天女ものほほんと微笑みながら輪に加わる。
「あ、あはは……う、うん、すごかったね……」
苦笑いしながら席に着く私。
正体は絶対に秘密だ。けれど、昨日までの「孤独な胃痛」は、もうどこにもなかった。
ガララッ、と教室の前扉が開く。
入ってきたのは、いつも通り背筋をピンと伸ばした麗だった。
「うらっちおはよー! 昨日は家でゆっくり休めた?」
「ええ、お陰様で。……坂田さん、冲奈さんが困惑していますわよ。少し席を詰めなさい」
麗はいつものツンとしたお嬢様口調でかりんをたしなめると、私の机の前へと歩み寄ってきた。
そして――少しだけ照れくさそうに頬を赤らめ、カバンから小さな包みを取り出した。
「……あの、冲奈さん」
「え?」
「これ……今朝、お父様と……二人で握ったのです。まだ少し歪ですけれど……その、冲奈さんに食べてほしくて」
差し出されたのは、昨日家庭科室で使ったのと同じ、素朴な竹皮の包み。
そっと開くと、そこには少し不恰好だけれど、ふんわりと丁寧に握られた、海苔の巻かれた三角のおにぎりが入っていた。
「……麗ちゃん。ありがとう」
私が受け取って笑いかけると、麗は嬉しそうに、けれど恥ずかしそうに目を細めた。
ふと交わし合う視線。
二人だけにしか分からない、秘密の絆。
「えーっ!? うらっちがお父さんと手作りおにぎり!? 嘘でしょ、仲直り大作戦大成功じゃん!!てか、急に名前呼びになってるしー!ウチもー!!」
「な、なぜ坂田さんが叫ぶのですの! 静かにしなさい!」
「一口ちょうだい! ウチにもちょうだいよー!」
「駄目ですわ! これは冲奈さんのために――あっ、勝手に触るんじゃありません!」
「ふふ、とっても美味しそうなおにぎりですねぇ」
朝の光が差し込む教室で、ギャーギャーと笑い転げる声。
特別な事件なんて起きない、くだらなくて、騒がしくて、温かい時間。
泥水を啜りながら一人で生きていた、三十五歳の元清掃員。
そんな私が、生まれて初めて手に入れた――守りたい、かけがえのない青春の日常だった。




