陽の巻
俺の足元に真っ暗な穴が開き、そのまま穴の中に吸い込まれていくような感覚に襲われる。
胡蝶は――。
やっぱり一益を愛していたんだ。
だけど、俺が胡蝶に執着したせいで、今まで結ばれることはできなかった。
だけど――俺が、俺の子供を産んでほしいと胡蝶に頼んだから――……。
俺は二人の消えた、あばら家の扉を呆然と見つめた。
あの時、胡蝶は、「時間が欲しい」と言っていた。
あれは――。己の意に反して俺のものになってしまう前に、せめて最後に一度、一益との今生の思い出を作りたいということだったのか――……。
俺、もう、消えたい……。
「おい」
後ろから声をかけられ、俺は悲鳴を上げた。聞き覚えのある声だった。
「いっ、いっ、いっ――」
――一益っ……!?
「忍び二人を尾行しようとするなんて。これだから素人は――」
一益は、笑いと哀しみを含んだ声で言う。
――哀しみ……?
俺は振り返った。
「一益、どうしてここに?」
――胡蝶と……。あばら家に入ったんじゃないのか?
俺はてっきり、今頃胡蝶と一益ははあのあばら家の中で、二人きりで肌と肌を合わせ、変わらぬ愛を確かめ合っているとばかり――。
「――お前を、追い返して来いと言われた」
一益が、ぽつりとつぶやいた。
――ああ、そうか……。
俺は――情けない男だ。それに。
想いあった男女が逢瀬を遂げようというのに、その後をつけるなんて。
……無粋にもほどがある――。
一益が苦しそうに続けた。
「――だけど俺は――……。
……お前は……知っておくべきだと思う――」
「いいよ――。
もう分かったから――……」
――胡蝶のことは――。もうきっぱりと諦める。
一益が、切羽詰まった眼差しで俺を見た。
「俺はずっと、忍として生きてきた。依頼主の指示に逆らったことも、依頼主の秘密を漏らしたことも、ただの一度もねぇ。
いいか。
ただの、一度も、だ――!」
確かに以前にも一益から『依頼主の秘密は話せない』と言われたことがある。それが忍の掟だ、とも言っていた。忍の掟について口にする時の一益は、苦しそうだったが、どこか誇らしげでもあった。
一益はその場にしゃがみ込み、自分の髪を乱暴にかきむしった。
痛々しいまでに辛そうだ。
俺は一益の肩に手を伸ばそうとした。
「おい、一益――」
――どうしたんだ……?
一益が、俺を見上げた。驚いたことに一益は、ほとんど泣き出してしまいそうだった。
俺は、一益がこんな顔をするところを初めて見た。
「おい、一益、お前――。
――顔色が、悪いぞ……」
胡蝶と一益のことは気になるが、とりあえず今は後回しだ。
俺は一益の隣に膝をついた。
「大丈夫か?
一益。しっかりしろ」
一益は力なく首を横に振った。
――まずい。こんな一益は初めて見る。
事情はさっぱり分からないが、とにかく一益が、いまだかつてないピンチだ……!
俺は焦る。
俺は一益の肩に自分の両手を回した。
俺がピンチの時は、いつだって一益が、俺にそうしてくれたように。
「落ち着け、一益。お前なら大丈夫だ。
何か、俺にできることはあるか?
一益のためなら何でもする。
お前は一人じゃないぞ。
俺が、ここにいるから――」
一益が肩を震わせた。
俺は一益の背中に回した手に力を込めた。
ガッ、と一益がこちらを向いた。俺の手を払いのけ、反対に一益の両手が俺の両肩をつかんだ。
赤く潤んだ目が、追い詰められた者だけが見せる真剣な鋭さをもって俺を突き刺した。
俺の耳元に口を寄せ、一益が早口でささやいた。
「くのいち・火鳥は恐ろしく耳が良かった。
30メートル後ろを歩く男の足音で、それが誰かを言い当てられるほどに、だ」
――えっ……?
俺は動きを止める。
――知らなかった……。
でも。
思い当たる節ならある。
新婚のころだ。火鳥は――俺と同じ屋敷に住んでいながら、何週間もの間、俺と一度も顔を合わせずに生活し続けたことがあった。
あの時は理由が分からなかったが……。
それほどまでに耳が良いのなら、そんなことも可能だったのかもしれない――。
一益が続けた。
「俺は――依頼主の秘密を洩らした。
今から、依頼主の言いつけに背く。
お前は――。知っておいた方が良い。
だけど。決して、音を、立てるな。
それが無理なら――合図を送れ。
あとは俺が――なんとかする」




