陽の巻
胡蝶は、治療を終えてさらしを巻き上げた俺の左手を自分の頬に当て、静かに涙を流していた。
「胡蝶――!」
俺はたまらず胡蝶の名を呼び、怪我をしていない右手で彼女の手首を掴んだ。
胡蝶は心底驚いたように息を呑み、大きな眼で俺を見下ろした。
「和颯様――なぜ、お目覚めに……!?
薬湯を、お飲みになったのでは――……?」
「ああ……あれは……。
零してしまった」
――そういう、ことか。
俺はまた、己の愚かさに気付かされる。
飲んで一晩眠るだけで、水ぶくれが消える薬湯など、あるはずないじゃないか……。
あれは単に、深い眠りを誘う薬湯だ。
「――そうでしたか」
胡蝶の瞳の漆黒が深くなり、凪いだ夜の海の気配を漂わせはじめる。
胡蝶が立ち上がった。
「では、わたくしはこれで――」
「待ってくれ!」
俺は半身を斜めに起こし、胡蝶の手を握った。
胡蝶の足が止まる。俺の方を見ないようにしている。
俺は、心の底からありったけの想いを込めて言葉を紡いだ。
「――胡蝶……。
行かないでくれ――」
凪いだ夜の海に、静かな風が吹き、小さく波が揺れた。
胡蝶が目を伏せた。
「では――もう少しだけ……」
胡蝶がためらいがちに腰を下ろす。
俺は胡蝶ににじり寄り、その荒れ果てた両手に自分の額をつけた。
「行かないで――欲しいんだ……。
この先もずっと。
ずっと側にいてほしい」
俺は胡蝶の両手を握りしめ、胡蝶を見上げた。
底知れない深さを隠した神秘的な夜の海が、俺を見ていた。
――今しかない。
そう、確信した。
俺は覚悟を決めた。
決死の思いで、口を開く。
「萌のことは――、一生、大切にする。約束する。
だけど――。
俺の、跡継ぎは――。
どうしても。
どうしても、
胡蝶に――産んでほしいんだ……」
――ああ、やっと、言えた……。
胡蝶の表情は変わらずに、目だけが大きく見開いた。
俺はその瞳を、正面からしっかりと受け止めた。
胡蝶の目がみるみる潤み、彼女はふっと目を逸らした。
「胡蝶――。
――駄目、だろうか……」
俺は、おそるおそる声をかける。
「……ですが……。
わたくしは……。
親の身分はおろか、生まれた場所すら分かりません……」
頼りなげな行燈の光。胡蝶の伏せられた両目から、床に水が滴ったように見えた。
「和颯様は織口家の長男。
れっきとした武家の当主です。
素性の知れぬわたくしでは、身分の釣り合いが――」
「そんなの、関係あるか!!」
俺は大声を上げ、膝立ちになった。胡蝶の肩を掴む。
「そんなこと――二度と口にするな!
俺は! 胡蝶に!! 産んでもらいたいんだ」
胡蝶が、静かにこちらを向いた。
胡蝶の肌は荒れ、くちびるは艶を失っていた。胡蝶は濡れたままの瞳で俺を見つめ、わずかに口角を上げた。
ああ。なんて美しいんだろう――。
「和颯様が、そうおっしゃるのであれば――。
たとえ、この命に代えましても、喜んで。
必ずや。成し遂げてみせます。
……ですが――」
――ですが……?
俺の心臓がわしづかみにされる。
「その前に少し、時間を頂戴したいと存じます。
1か月か――ことによると、2か月ほど……」
――なんだ。そんなことか。
俺はほっとする。
――心の準備でも、するのだろうか。
「いいとも。2か月でも3か月でもかけると良い。
胡蝶の準備が整うまで、俺は、待っているから」
――俺は今まで。6年も待ったんだ。
今さら、数か月がなんだというのだ。
俺はあかぎれだらけの胡蝶の両手にくちづけをした。
「胡蝶――。愛している。
どうか、俺のために。
丈夫で賢い男児を、産んでくれないか――?」
胡蝶はやつれた顔で、輝くように微笑んだ。
「――はい……」




