陽の巻
萌は、座ったままで上体をひねり、自分の脇に置いた。
そして新しい、あの酷い匂いのする薬が塗られた和紙を手に取り、俺の左手に貼り付けていく。
こんなに臭い薬を扱っているにもかかわらず、萌の手は白く美しく、汚れない。
それはまるで、泥の中に埋まっていても、汚れのないみずみずしく美しい花を咲かせる蓮の花のようで、とても萌らしいと思う。
萌は優しくて穏やかで美しく、非の打ち所もない。
萌は全ての和紙を張り終えた。
先ほど感じたひりつきは、麻痺したようにもう感じなくなっている。
「萌――」
俺は右手を伸ばし、萌の手に触れた。
「あっ……」
俺の手に貼られていた、和紙が一枚、はがれて夜具の上かけに落ちた。
「もう。剝がれてしまったではありませんか。
和颯様、布を巻く前に動かないでくださいませ」
萌が優しくたしなめる。
でも、本気で怒っているわけではないのは分かる。
「ああ、済まなかった――」
俺は背中側に肘をついて、少しだけ身を起こした。右手で、夜具の上に落ちた和紙を拾い上げる。
「まあ、夜具にまで薬が」
この軟膏は滑らかで、とても柔らかい。
俺の夜具には、べったりとした緑色の染みができていた。
「俺は、この匂いは嫌いだ」
俺は少しだけふてくされたふりをして、萌を見上げる。
「では、先にお薬を済ませてしまって、その後で夜具を取り換えましょう」
萌は優しく言って、俺の手から和紙を受け取った。
――きっと。
これが幸せというものなんだ。
俺は今、とても幸せなはずだ。
俺は、この先も、ずっと。
萌と一緒に、穏やかで幸せな暮らしを――。
萌は木のへらで、落ちた和紙の軟膏を伸ばし直した。そっと俺の左手を取り、再び俺の患部にその最後の一枚を乗せる。
――あっ……
妙な違和感があった。
他の部分はすっと痛みが引いていったのに、最後の一枚に覆われた部分だけが、かすかに疼く。
それは本当にごくわずかな違和感で、そんなものは無視してしまと脳が叫ぶ。
――そうだ。気のせいだ。
俺は手のひらと、心に感じる違和感から目を逸らした。
「では、こちらをお飲みください」
萌が湯呑を差し出した。
湯呑に入っているのは、手のひらの水ぶくれが大きくなった時に飲む薬だ。
これを飲めば、明日の朝には水ぶくれは綺麗に消えている。
俺は萌の手を見る。
萌の手は、白くきめ細やかでふっくらとしている。この世の醜くさも、苦しさも、汚らわしさとも無縁な、清らかな手。
俺はこの先ずっと、この美しい手に支えられ、この世の穢れからこの手を守り慈しんで、生きていく。それが、一人の男としての、正しい生き方のはずだ。
俺は上体を起こして夜具の上に座り、湯呑を受け取った。
俺が湯呑に口をつけるのを見て、萌が床に手をつき、立ち上がろうとした。
「では。わたくしは新しい夜具を取ってまいります。
和颯様はお薬を飲みながらお待ちください」
「うん、分かった。
――だけど、萌……」
「なんでしょうか?」
萌が俺を見た。俺は萌に微笑みかけた。
「重たいものは持つな。
俺は、萌の体が心配だ。
夜具は侍女にでもに運ばせるようにしてくれ」
萌は花がほころぶように微笑んだ。
「お心遣い、ありがとうございます。
萌は――この世で一番、幸せでございます」
萌は立ち上がり、部屋から出た。
――そうだ。これが、俺の。幸せだ。




