陽の巻
「待ってくれ!」
俺は転がるように胡蝶に駆け寄り、その両手にすがりついた。
みっともないことをやっているのは分かっている。自分が情けない男なのも。
だけど。
恰好をつけている場合じゃない。そんな余裕なんてない。
俺は万能でもなければ、全能でもない。ただの、愚かな、一人の、人間の、男だ。
潔くなんて、なくていい。あさましくても、みにくくても。今、胡蝶の手を放したら、きっと後から、死ぬほど後悔する。
だから。
誰からどんなふうに思われようが、どれだけみっともなかろうが、そんなの、関係ないじゃないか。
どんなに見苦しくても無様でも、みじめでも恥ずかしくても不甲斐なくても。この手は絶対に離したらいけないんだ。
胡蝶は困惑顔で俺を見下ろした。
「お離し下さいませ。
できれば本日、日が沈む前に潜伏先を見つけたいと考えております。
ですから、わたくしはこれで――」
「ダメだ! それだと――」
考えろ、考えろ、俺!!
「萌が困るだろう!!」
苦し紛れにひねり出した言葉。
だが、胡蝶がぴたりと動きを止めた。
まじまじと俺を見る。
「――なぜ、萌が困るのです?」
「えっと、それは――」
考えろ! 考えるんだ!
頑張れ、諦めるな、俺!
「――あ~……。
それは、だ……」
えっと――。
あっ!
「そうすると、周りの者からは、萌が胡蝶を追い出したように見えるからだ!」
「えっ――?」
胡蝶の目が泳ぎ、立ち上がりかけていた膝が止まった。
よしっ!
――でかしたぞ、俺!
「胡蝶は兵士たちの訓練にも混じって参加しているし、村で病が流行った時は、貧しい者に薬を配ったりもしている。農民や町民たちの情報にも驚くほどよく通じているし、頭の回転も速い。トラブルが持ち込まれたときには、いつも全員が納得する解決法を提案するじゃないか」
胡蝶は、皆に、人気がある。
「思い出してみろ。兵士の中にも、町民・農民の中にも、胡蝶を慕うものは多いだろう?
突然萌が正妻に収まって、胡蝶が清州からいなくなったら――。
皆は、萌が胡蝶に意地悪をして、無理やり追い出したと思うかもしれない。
そうしたら――萌が、非難の目で見られる。ここでの居心地が悪くなる」
胡蝶の目が泳ぐ。
「――そこまでは――考えておりませんでした……」
うん。俺もだ。
「そうだろう?
だから、今、胡蝶がいなくなるのは困る」
「――……そう、かもしれません……」
「だから、胡蝶はこのまま、この屋敷に留まって――」
「では――。
萌が、跡継ぎを生むまで。
それまでは、わたくしも、ここにとどまることに致します。
萌が男児を出産すれば、誰も萌を正妻として迎えることに異議を唱えることはないでしょう。
その時に、わたくしは清州を離れることに致します」
――なぬっ……!?
――どうしよう……。
だけど。
とりあえず、時間稼ぎには成功した。
萌に手を出したのは俺だ。だから俺には、萌を大切にする義務がある。
だけど、胡蝶が本当に清須を去ってしまう前に、何か手を打たないと。
この件は、俺自身の愚かさが招いた、俺自身がまいた種だ。
だから俺が、俺自身の力で、けじめをつけなければ――。




