和颯の書斎
「――胡蝶……」
おずおずと呼びかけ、扉を開ける。
胡蝶は無言で、上座に向かって平伏した。
俺は仕方なく、俺のためにあけられた場所に座った。
どうしようもなく目が泳ぐ。
「あ、あの……聞いてくれ、胡蝶……。
これは、その――なんというか………あれだ――」
「この度は、おめでとうございます」
しどろもどろになる俺の言葉を遮るように、頭を下げたままの胡蝶が声を発した。
口調からも、伏せられた背中からも、彼女の感情は読めない。
「違うんだ、聞いてくれ、これは――」
胡蝶がさっと顔を上げた。
「何が、違うのです?」
「昨夜、俺は。その。萌と――。
……やってしまったが。
だけど、これは……何かの間違いで――」
きっ、と胡蝶の眉が吊り上がった。
「なにかの、間違い。ですか――?」
氷の刃で突き刺すような視線が俺をとらえた。
――まずい! 殺されるっ!!
比喩や大げさではなく、本当に殺されると思った。
「――い……いや……。
そうではなくて――……」
俺はますますしどろもどろになる。
「萌が、純潔をささげたのです。
よもや、和颯さまにご不満などないと、心の底から確信しております」
表面は穏やかそうに聞こえるのに、ぞっと鳥肌が立つほどの凄みを含んだ口調。
ああ。――当然だ……。
萌は、胡蝶にとって、何よりも大切に慈しんでいる、かけがえのない義妹。
俺が『何かの間違い』で手籠めにしたとあっては、容赦なく俺の息の根を止めに来るだろう。
まずい。
本当にまずい。
俺はパニックになり、無意味に口を開いたり閉じたりした。
胡蝶はふっと息を吐き、表情を柔らかくした。
「和颯様とご一緒なら、萌はきっと幸せになれることでしょう。
どうか――。
萌を、末永く。よろしくお願いいたします」
胡蝶は姿勢を正し、改まって頭を下げた。
まるで別れのあいさつのようだ。
そういえば、胡蝶はいつもより地味な着物を着ていて、小さな荷物を脇に置いている。
今にも旅立ってしまいそうだ。
「ま――待て、胡蝶。
どこかへ行くつもりなのか!?」
「はい」
胡蝶は頷き、淡々と告げる。
「萌と和颯様は、めでたく結ばれました。
どうか、萌を正妻としてお迎えくださいませ。
これからは、萌がこの館の女主です。
それなのに、いつまでも、元・正妻のわたくしがここに留まっていたら、萌がやりにくいでしょう」
えっ――。
待て待て待て。
「胡蝶っ! どこへ行くつもりだっ!?」
「まだ、決めておりません」
胡蝶は斜め上の虚空を見つめる。
駆け引きやポーズではなく、本当に何かを思案しているようだ。
「どこが良いでしょうか――。
人目につかず、それでいて敵の情報の集まるところ。
熱田か――。岩倉の近くでもいいかもしれません」
「そんなっ!」
「わたくしは、既に、和颯様に生涯の忠誠を誓いました。
清州を離れた後も、誠心誠意、和颯様にお仕えいたします。
潜伏先が決まりましたら、カワセミを通じてご報告いたしますので、御用の際にはなんなりと――」
えっ? えっ? ちょっと待って!
「待て! 胡蝶!!
それは――ダメだ!!」
胡蝶は心底不思議そうに俺を見上げた。
「なぜです?」
なぜって――。
だって――。
胡蝶が、俺の隣から消えてしまうなんて……。
「ダメなものはだめだ!!
許可できない!」
「ですが、これが一番合理的です」
胡蝶はちらりと俺を見ると、無表情のまま、すっと膝を立てた。
このまま、清州から立ち去るつもりに違いない。




