陰の巻
蔦とは長い付き合いだ。初めて出会ったのは土岐頼純に嫁いだ時だから、もう9年になるだろうか。
同じ屋根の下に暮らしているのだから、毎日のように顔を合わす。だが、頼純が亡くなってから、蔦は胡鳥を嫌悪していて、何があっても決して目を合わせようとすらしない。最後に蔦と言葉を交わしたのは、何年前だっただろうか。
今ここで、広すぎる部屋にたった二人。いったいどんな表情で顔を合わせればいいのやら。
胡鳥はちらりと蔦を見る。
蔦の顔もこわばっていた。
沈黙。
「――座れば?」
ついに根負けした胡鳥が、目を逸らし、ついでのようにぼそりとつぶやく。
蔦は黙ったままで目礼した。緊張し、やや固くなっている動作。それでも主人に対面する侍女の最敬礼の作法にのっとり、胡鳥の前に正座した。
作法通りに正座し、もう一度深々と礼をした蔦の動きに、もう迷いはなかった。
蔦は懐から、白い上質の紙で包まれた小さな包みを取り出した。丁寧に床に置き、胡鳥の前へ、静かに押し出した。
「――これを……」
それだけ言うと、再び平伏した。
胡鳥は上座に、やや崩した姿勢で座っていた。
頭を下げたまま、ピクリとも動かない蔦を見下ろす。
「これを」とは、「これをお贈りします」という事だろうか。
胡鳥はいぶかりながらも、その小さな包みを手に取り、開いた。
驚いた。
中に入っていたのは、それはそれは見事な細工の櫛だった。
こんなに美しい櫛は、見たことがない。
つややかに何層にも塗り重ねられた上質の漆の上に、金の蒔絵細工で南天の実が描かれている。南天は「難を転じる」に通じる縁起のいい絵柄だ。
――こんな櫛を、どうして蔦が?
胡鳥が眉を顰めると、蔦は言葉を発するために、ほんの少しだけ頭を上げた。
「それはかつて。わたくしが大奥様から頂戴した櫛でございます」
大奥様、というのは胡鳥の一番目の夫・土岐頼純の祖母のことだろう。
胡鳥は黙っている。蔦は頭を下げたまま続けた。
「あれはまだ、頼純さまがまだ伝い歩きをなさっていたころ。
粗忽物が足を滑らせ、煮立った湯が頼純さまのお顔にかかりそうになったことがあったのです。
たまたま近くにいたわたくしが、とっさにかばったので、頼純さまには傷ひとつなく」
蔦の肩から背中にかけて、大きな火傷の跡があることは知っていた。だがそんな事情があったとは知らなかった。
その時はまだ、蔦も若かっただろうに。
煮立った湯が降り注ぐ中、とっさに幼い跡取りをかばって火傷を負うとは。蔦らしいエピソードだ。
「大奥様から、涙ながらにお褒めの言葉をいただき、その櫛を賜りました」
「……そう」
頼純が死んだ時、蔦は最初から、火鳥が殺したに違いないと訴え、公然と非難していた。
そうまでしてかばい、仕えた主君をはかなく殺され、憎しみもひとしおだったことだろう。
蔦は顔を上げ、しっかりと胡鳥を見上げた。
「わたくしの所持する物の中で、一番上等なものでございます。
どうぞ、お納めください」
ふたたび深々と頭を下げる。
蔦が、嫌悪する胡鳥に頭を下げるとしたら、主人・萌のため以外にあり得ない。
これはつまり、萌のこの上ない縁談へのお礼の品、ということか。
「――貰えないわ」
胡鳥は櫛を丁寧に紙に包みなおして床に置き、蔦の方へ押し戻した。
「萌に幸せになってもらいたいのは、私の願いでもあるの。
あなたにお礼を言われる筋合いはない」
蔦は、すぐには頭を上げなかった。
肩が、大きく上下している。
やがて意を決したように、顔を上げる。
その目は真剣そのものだった。
「萌さまは――。自害なさる、と申しております」
「はあ――っ!?」




