~陽の巻~
最初は見間違いに違いない、と思った。
どうかしている。行商人の夫婦なんて、掃いて捨てるほどいるじゃないか。
だけど。
やっぱり見間違いなんかじゃない。
俺はものかはから飛び降りる。
胡蝶と一益はさっと周りを見回し、俺に向かって素早く一礼した。
2人が周りを確認するとき、胡蝶は前方と右を、一益は左と後ろを確認した。その動きは見事に調和していて、絶妙なコンビネーションだった。
それは、高揚しきった俺の気持ちが、一瞬にして冷静さを取り戻すのに十分だった。
「胡蝶。それに、一益。
――無事でよかった。心配していたんだ」
「そうだと思って早めに切り上げきたぜ」
「まだやり残した仕事があるのです」
俺は胡蝶の全身を見回した。
「大丈夫だったか?
怪我は? 危険な目には合わなかったか?」
2人は同時に、むっとした顔をした。
「そのようなへまは致しません」
「何のために俺がついていったと思ってるんだ」
お……おぅ。
なんか俺だけアウェーだぞ。
俺は周りを見回す。
立ち聞きしている者はいないようだ。
俺は声を落とした。
「首尾は――どうだった?」
俺たちの輪が、ぐっと縮まった。
「上々だ」
「今川家に不満を持つ、三河武士たちを焚きつけてきました」
「だが、そいつらをまとめられるリーダーがいねぇ」
「三河の守護・吉良義安が適任かと」
「日数が足りねぇ。だが、今がチャンスだ」
「吉良義安をまつりあげれば、三河の反乱軍を組織することができます」
「さすがの今川家も、三河平定に手を焼くはずだぜ」
――や、やるな……。
胡蝶、一益、すげぇ。
俺は頷いた。
「二人とも、ご苦労だった。
一度清州に戻ってゆっくりするといい」
胡蝶が嚙みついた。
「いえ、ゆっくりしている暇はありません。
今が好機だと申し上げたのを、お聞きになっていらっしゃらなかったのですか?
たった今、和颯様への報告も済んだところです。
この足で、もう一度三河に戻って――」
俺は一益を見る。
一益は俺の目を見て、肩をすくめた。
俺は胡蝶を見た。
「だけど、胡蝶。
清州で――萌が待ってる」
胡蝶の瞳が揺れ、俺を見た。
俺は……汚い男だ。
戸惑いと、迷いを含んだ声が尋ねた。
「萌は――変わらずに元気ですか?」
「元気だ。だけど。
貞じいの留守中に胡乱な訪問者があった。
もちろん追っ払ったけど――。
胡蝶が帰るのを、待ってる」
「………」
俺は、胡蝶の顔を覗き込んだ。
「胡蝶。一度、清州に戻ろう。
その後のことは、その後に考えたらどうだ?」
「――……はい……」
胡蝶は俯き、潰れるようにつぶやいた。
俺は胡蝶の手を取る。
「胡蝶、疲れただろう。
ものかはに乗るといい」
「いえ、清州まで歩けますので、大丈夫です」
「馬のほうが早い。
萌が――待っているぞ」
俺は胡蝶を抱き上げた。
胡蝶は抗わなかった。
胡蝶は袴をはいていない。
俺は胡蝶を、ものかはの背に、横座りになるようにして乗せた。
続いて俺も、胡蝶のすぐ後ろに跨る。
鐙に足をのせ、手綱を取った。
「和颯様!」
一益が声を上げた。さっきまでと声の調子が違う。
胡蝶がはっと顔を上げた。
「胡蝶様のおっしゃる通り、やはり今が好機のようです。
わたくしはこのまま三河に戻り、三河の守護・吉良義安を、反乱軍のリーダーに据えてまいります!」
「よしっ、行ってこい!」
「ちょっと待って! ずるいわよっ! 私も行くっ!」
胡蝶がものかはから飛び降りそうになるのを、後ろから抱きかかえて阻止する。
一益は素早く一礼すると、さっと走り去った。
「カワセミっ! この、裏切り者っ!」
鋭い声をあげ、俺の手を振り払おうとする胡蝶。
「ダメだ。胡蝶は清州に戻れ」
「和颯様っ!」
振り向いた胡蝶の目には、涙が浮かんでいた。
俺はたじろぐ。
だが、俺はぎりぎりでその瞳を受け止めた。
「――萌は清州で、胡蝶の帰りを待ってるぞ?」
胡蝶は俯いた。
俺の胸が痛む。
「……――はい……」
華奢な肩に諦めがにじみ、彼女は全身の力を抜いた。
俺は、ものかはを発進させた。
胡蝶は黙って、馬に揺られている。
胡蝶は俺の両腕の間にいる。俺の胸元に髪が触れるほど近いのに、そんなんでは俺には全然足りない。俺は狂おしいほどに彼女の存在を求めた。




