~陽の巻~
普段はおとなしいものかはが、ずっと神経質そうに首を振っている。
ものかわのくつわを取っているのは遠二郎。別段、馬が嫌がりそうなことをしているというわけではないのだが、ものかわも、なぜかこの男が気に入らないらしい。
遠二郎は嫌がるものかわを気にする風でもなく、どんどん道を進んでいく。
――傍らに、人無きが若し。
遠慮、慎み、思いやり。
遠二郎には、そういった感覚が欠如しているのだろうか。
だけど。
菅子にも『衣食足りて礼節を知る』と書いてあるじゃないか。
衣食住が整わない、今日も明日も生きていられるかわからない状態では、礼儀作法どころではない。恥や礼儀、名誉なんかについて考えることができるのは、生活にゆとりができた後なのだ、と。
きっと今まで、遠二郎は凄く貧しくて、他の人の気持ちとか、自分が周りからどう思われているとか、自分の振る舞いが倫理的に正しいとか間違っているとか、そんな事かまっていられずに、ただその日その日を生き抜くことだけ考えて生きてきたに違いない。
それでもさっきは主人がいると言っていたから、仕官することができたんだろう。これから生活に余裕もできるはずだ。人としての生き方とか、善悪とか、そういうことは、この後考え始めるはずだ。
俺は。今まで。そういうことを考えられる環境に恵まれたんだから。境遇に感謝はしても、自分ほど恵まれなかった者を蔑むのはよくないと思うぞ。
一同じ人間として、この男にも、最低限の礼儀は持って接するべきだ。
うん。そうだ。
頑張れ、俺。
ついに、織口家と岩倉家の国境を越えた。
ここからは、敵地だ。
俺は油断なくあたりを見回した。
――待ち伏せは……されていない……
…………と、思う……。
――ああ、やっぱり俺、軽率だった気がするっ!!
最低限、一益か貞じいについてきてもらうべきだった!!
俺は遠二郎におずおずと話しかけた。
「――なあ……。
やっぱり、日を改めよう。
俺は――。
皆に黙って屋敷を出てしまったし。
みんな心配する」
「ぃや、無理じゃ」
遠二郎が即座に言った。
こちらを見ずにまくしたてる。
「あっしの主人はひどく多忙で。
今日でないと都合がつかぬ。
何が何でも今日連れてこい。
そうでなければこの話は無しじゃ、と言われている」
――胡散臭い……
「――ところで。
どこへ向かっているのか、まだ聞いていなかったが」
遠二郎は濁った眼で俺を見た。
「――生駒家の、お屋敷です」
――ええええっ!!
嘘だろ!
生駒家なら、知ってる。
岩倉の城からほんの4kmほどの場所に、それはもう広大な屋敷を構えていると聞いている。
そんなところへ俺なんかがノコノコと出ていったら『さあどうぞ、首をはねてください』と言っているようなもんじゃないか。
「――帰る……!」
俺は乗馬したまま、遠二郎の手からくつわを奪い取った。
「うわっ、何するかっ! 逃げんなや!」
俺はぎょっとする。
俺の手からくつわを奪い返そうとする遠二郎の右手には親指が2本あった。
――ああ。
この男はきっと、この指のせいで、生まれた時からみんなから蔑まれて……。
俺の胸がちくりと痛む。
が、遠二郎の放った次の言葉で、カッと頭に血が上る。
「蜂須賀さまには、チャンスは今日しかねぇって言われてんだ。
ここ数日、忍びの男がいねぇ。家老も不在。
おびき寄せるなら今日が狙い目――」
「ふざけるなっ!」
――最初から拉致目的かっ!
俺はものかはを、後ろ脚だけで勢いよく立たせた。
遠二郎は泥の中にどさりと尻もちをついた。
「お前の言うことは、何一つ信用できない!
もう、顔も見たくない!
命だけは助けてやる!
二度と来るなっ!!」
俺はものかはに、足で合図を送る。
遠二郎から自由になったものかはは、大喜びで清州へと駆け戻っていった。
※※※
「和颯兄さまっ!」
屋敷の外にいた萌が、涙目で駆け寄ってきた。
馬から降りた俺に、がしっと抱きつく。
「萌は……萌は……。
とても心配致しました……!」
俺は、萌の背中をなでる。
「心配をかけて、済まなかった。
萌の、言うとおりだった。
あの男は――信用できない」
萌は、うんうんと頷いた。
「萌は……。
生きた心地が致しませんでした。
ですが、和颯様が無事にお戻りいただいて――。
本当に良かったです」
俺は萌を抱き上げてものかはに乗せる。
俺はものかはのくつわを取り、歩いて屋敷へ戻った。




